55 強制イベントを切り抜けましょう
かびっぽい湿った臭いが鼻につく。意識を取り戻したエリーナの目に飛び込んできたのは石の床で、ついで横向きに寝かされていることに気づいた。
(何!? 動けない!)
手は後ろに、加えて足も縛られ、身動きが取れない。幸い口は塞がれていなかったが、恐怖で声は出なかった。床の冷たい感覚に、攫われたのだと気づく。
(ベロニカ様は!?)
一緒にいたベロニカはどうなったのかと、顔を上げて辺りを見回した。部屋は薄暗く、高いところにある窓から光が入ってきている。鉄格子があり牢屋に入れられているのだと理解した。そしてエリーナの対角線上にベロニカが手足を縛られた状態で座っていた。見たところ傷はなさそうだが、縛られた姿は痛々しい。
(どうしよう! わたくしのせいでベロニカ様まで攫われてる! これでデッドエンドになったら……)
血の気が引き、動悸が激しくなってくる。
(なんとかベロニカ様だけでも助けないと!)
エリーナは一度目を閉じて気を落ち着かせると、鉄格子の向こうに顔を向けて人の気配を探る。廊下には松明があるだけで、見張りはいない。か弱い令嬢二人と思われて、放置されているようだ。
そしてベロニカを起こすため転がろうとした時、ベロニカと目が合った。
「きゃっ」
「静かに」
驚き叫びそうになったエリーナを、ベロニカは小さく鋭い声で制止する。すぐに今の声で誰かが来ないか鉄格子の向こうに視線を飛ばし、辺りを警戒していた。
エリーナはベロニカが無事だと分かると安心すると同時に申し訳なさが込み上げてきて、弱弱しい震え声を上げる。
「ベロニカ様ぁ……巻き込んでしまって、申し訳ありません」
イベントが起こった以上、助かるかどうかはジークとルドルフにかかっている。
(助けてくれるかしら……クリスは、どう思うのかしら……)
一気に不安がこみあげてくる。
「馬鹿。エリーナが巻き込まれたのよ。あの男の狙いはジークだったわ。でも、わたくしがいたからこっちを優先したのでしょうね」
「でも、どうして……」
「恨みがあっても交渉がしたいなら殺すのは悪手だわ。わたくしは公爵令嬢で殿下の婚約者だから、王家に公爵家からも圧力をかけられると踏んだのでしょうね」
ベロニカは捕えられた状態でも冷静に分析しており、エリーナは賞賛の眼差しをおくる。こんな人を捕えられたままになどできない。
「あの、ベロニカ様だけでもお逃げください。縄ならわたくしが噛み千切りますから」
この状況を何とかしようと、エリーナはずりずりと体をベロニカへ寄せていく。だが、ベロニカは手を前に出し見せつけるように軽くあげた。その腕に縄はなく、ひらひらと遊ばせてから口角を上げる。エリーナは驚きすぎて言葉も出ない。
「縄抜けぐらいできて当然よ」
嫌な王妃教育もたまには役に立つわねと、ベロニカは皮肉な笑みを浮かべた。そして髪飾りの一つを取り、飾りの部分を外すと小さな刃が出てくる。手慣れた手つきで足を縛っている縄に斬りこみをいれ、少し力を入れればちぎれるぐらいに調整した。その流れるような工程を、エリーナはポカンと口を開けて見ていた。エリーナが受けた王妃教育に縄抜けはなかった。
「王子の婚約者って攫われやすくってね、これでもう5回目よ。万全に備えているに決まっているでしょう。ほら、ぼーっとしてないでこっちに来て座りなさい」
ベロニカが壁に背をつけて座っていたのは解けた縄を隠すためだった。エリーナはずりずりと体を這わせ、ベロニカの隣りに座る。
「ここは王都からそう離れてないし、そのうち助けが来るわ」
ベロニカはエリーナの縄を切りながら事も無げに言う。その声には欠片の悲観もない。
「え、何で場所がわかるんですか?」
自由になった手をさすりながらエリーナが問いかける。ベロニカも薬をかがされて気絶していたはずだからだ。
「貴女を見て薬をかがされるって分かったから、息を止めて気絶したふりをしたのよ。そこから薄目を開けて犯人の顔と馬車で向かった方角を見て、馬車で揺られた時間を測ったの。後、馬車で男たちの話も聞いたから今回の目的も読めてきたわ」
ちなみに若い兵士二人は黒装束の仲間だった。見抜けないなんてまだまだねと、ベロニカは不満そうだ。
「そんなことできるんですね……」
エリーナは今まで悪役令嬢としてヒロインを攫わせる側だったため、ベロニカの対処に舌を巻く。小説の中の名探偵のようだ。
足の縄は切れるギリギリのところまで削られ、エリーナは手を背中に回して隠しておく。ベロニカはさっさと髪飾りを戻して、同じように手を後ろに回していた。
「慣れって恐ろしいわ。それでね、今回はやはり元公爵家の生き残りがからんでいるようよ。あの男たち、クーデターにもかかわっていたみたいね。現王に対して恨みをもっているようだったわ」
「そんな……」
「でもこれで、捕まえられるわよ……ほら、ちょっと上が騒がしくなってきた」
ベロニカに言われて耳を澄ますと、小さな喧騒が聞こえついで足音が近づいて来た。
「仕事が早いわね。今回はどこが動いたのかしら」
余裕のある口調で鉄格子の向こうに視線を向けているベロニカは、全く動じていない。
そしてバタバタと荒い足音が聞こえ目の前に現れたのは黒装束の男だった。二人が牢の中にいるのを確認すると、
「お前ら、そこから一歩たりとも動くなよ。さもないと、首が飛ぶぞ」
と脅しをかけて足早に戻っていった。その様子を見た二人は助けが来たのだと確信する。男たちの声と剣戟の音が近くまで迫っていた。
「わざわざ動くつもりはないけど、ここの場所は教えたいわね。叫んでみる?」
ベロニカは鉄格子ギリギリまで近づき、男が去っていった方を見る。黒い扉があり、その先に彼らのアジトがあるのだろう。叫んでも聞こえるかはわからないが、何もしないよりはましだ。
「そうですね……」
何か音を立てられないかと何もない牢を見回したエリーナは、はっと思い出した。
「ベロニカ様、わたくし笛を持っていますわ」
クリスに持たされている防犯用の笛は、今日もしっかりドレスのポケットに入っている。いよいよこれを使う時が来た。
「さすがクリスさんね」
攫われ経験豊富なベロニカでさえ笛という発想はなかった。その過保護っぷりに呆れを通り越して感心してしまう。二人は捕らわれているふりはもういらないと、足の縄を引きちぎり鉄格子の側に立つ。
そしてエリーナは扉の向こうに耳を澄ませ、救出部隊が近づいたと思われるタイミングで思いっきり笛を吹いたのである。




