26,万象を呑む無尽の暗闇
積雪が、大地ごと引っぺがされて空へと飛んでいく。
木々も石くれも、何もかもが、空へ――そこに在る者に吸い込まれ、呑み尽くされていく。
「ヴァァオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
激烈に帯電する黒き巨竜と化した霊卿ゼンゼロイの口に、すべてが吸い込まれ、消えていく。
――座学にて、習った事がある。
空の向こう、宇宙と呼称される未知の星海には、様々な星があると。
その中には理論上、俺たちが暮らすこの星よりも、ずっとずっと重力の強い星もあり……その重力の強さは、光の速度を以てしても振り切れない。
故に、光すらも地の底へと沈む。その星は、常に闇よりも深い暗黒色であると言う。
まるで、虚空に口を空けた穴のように、その星は、周囲にあるすべてを呑み込み続ける。
底の抜けてしまった、宇宙の胃袋。
星の名は、【満ちぬ星】。
まるで、それだ。
話にだけ聞いたそれが、竜の姿を借りてここに在る。
これが、霊卿ゼンゼロイが誇る奥義。
万象を呑む無尽の暗闇――究極禍撃・呑地啜天か!
「……ぅッ……!?」
ぉぉお……酷い燃費だな……!?
毎秒、いや、毎瞬ごとに、霊力がごりごりと――まるで、ショベルで抉られているような気分だ。
霊力も、雪や木々同様に呑み込まれているのか……!!
『……チッ。規模も吸引力も、嘆かわしいほどに貧相な出来よ。妾が手ずから発動したらば、この万倍は映えるのじゃがな』
その豪壮さで不服だと……!?
と言うか、万倍て……今の万倍大きくなったら、大陸全土の空を覆えてしまうのでは……? ……ああ、実際、覆える規模だったのか?
救世の英雄、その師の最大奥義――と言う事は、伝承によれば魔神を葬った一撃だものな。
つくづく規格外か。
『うぬ……まぁ、人間風情の霊力を借りている現状、これで妥当よな。罵っている間に霊力が切れても間抜けを晒すだけ。まずはさっさと喰らうとしよう!』
ええ、はい……情けない話で本当に申し訳ないのですが、急ぎめでお願いします……!
『では、ゆくぞ!!』
「ヴァオオオオオオオオォオオオオオオ、オオオオオオオオオオオオッ!」
吠え上げ、雷を纏う闇の巨竜が動き出す。
狙いは前方、忌々しい魔徒二体――荒くれ男と女武士!
吸引圏内まで接近して呑み込み、噛み砕く算段だろう。
……と、ちょっと待て……色々あり過ぎて失念していたが――殺せるのか?
魔徒には、驚異的な再生力が――
『当然可能! 妾は魔神も魔徒も胃がもたれるほどに喰ってきたのじゃぞ? 理屈が欲しいのであればざっくり教えてやる……連中の再生機能は霊力を元手にしたものじゃ。汝が前に戦った女のように霊力ごと凍結させるか、妾がこれからやるように霊力もろとも喰らい尽くせば殺せる道理よ!!』
成程!
「クハ、クハハハハハハ!!」
僅かな憂いも取り除かれ、素直に霊卿ゼンゼロイを送り出せると思ったその時、モルヒネイドの笑い声が聞こえた。
……この状況で、笑う、だと?
「ンだありゃあ!? ミミズみてェに小さかったガキんちょが竜になったぞォ!?」
「楽しそうだなモルヒネイドこの莫迦者がァ!!」
「何怒ってんだよ? ティマ。向こうがあんなにやる気だってのに」
「貴公が餓鬼呼ばわりしたあの方は、十中八九で精霊、それも祖霊ドラグと同質だ! 貴公は、そんな御仁の逆鱗に触れ、やる気にさせたのだぞ!?」
「……あァん?」
必死な女武士の言葉を聞いて、モルヒネイドは――体を揺らすほどに大笑いを始める。
「クハハハハハハハハハハ! いいねいいねマジかよ! ドラグの旦那の同輩様だァ!? そんな御大層な奴と殴り合って殺し合っていいのかよ!? サイコォじゃあねぇかァ!!」
「こんの喧嘩猿が!!」
「ウキキィってかァ!? っしゃあ! とくりゃあ……まずは名乗れよ、ガキんちょォ!! 俺様はモルヒネイドだァァァ!!」
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すッ!!」
……あのモルヒネイドとか言う男、まさしく竜の逆鱗を踏みしめて全力で踊り狂っているようなものだな。
霊卿ゼンゼロイが嫌うドラグと彼女を同系視した挙句、またガキ呼ばわり……霊卿ゼンゼロイが青筋を立てれば立てるほど、俺の霊力が削られる勢いが増すので勘弁して欲しいのだが……。
「何だ、ヴァオヴァオヴァオと……あ! そいつがテメェの名前かァ! いくぜヴァオ! 名乗り合った以上は、後腐れなく殺し合いだァァァ!!」
「くそッ、莫迦者……だがしかし、やらんべからずか!!」
魔徒どもが……どうやら、霊卿ゼンゼロイを迎え撃つつもりらしい。
モルヒネイドに一拍子遅れたが、女武士も臨戦態勢に入った。
……ああ、奴の思考は不本意ながら理解できる。
女武士としては、霊卿ゼンゼロイとやり合うのは冗談でもないだろう。
だがしかし、連中に取って、この機は退けない。
連中から見て俺は「闇の精霊を呼び出せるほどの黒騎士」。
願っていもない最上級の追加戦力候補、他所へ逃がされる前に、この場でなんとしても捕縛したいはずだ。
そしてご覧の通り、俺は現在進行形で霊力をごりごりと削られており、霊卿ゼンゼロイの奥義を保てるのは残り数秒。
総合して「この数秒を全力で乗り切り、霊力を切らして無力化した所を捕える」、そんな判断をするのは妥当だろう。
だが――そうは、させてたまるか!
『当然じゃァァ!!』
この機を逃せないのは俺も一緒だ!
この一撃であの魔徒二体を葬れなければ、俺は奴らの手に落ちる!
そんな未来は、認めないッ!
だから!!
「クハハ! いィィくぜェァ! 至高魔撃・天破獄拳!!」
ッ、あれが、奴の最大霊術か……!
闇の光を押し固めて構築された黒輝の巨大手甲……巨人の手にも余りそうな大きさだが、嵌める必要はないのだろう。
モルヒネイドの拳と連動するらしく、奴が拳を握って振り抜いたのに合わせて、闇の巨大手甲が飛んだ!
「そのでっけぇ面にヤキを入れてやるぜェェ!! クハハハハハハ、ハハハハハハハハハハハァ!」
霊卿ゼンゼロイが吸引するまでもなく、モルヒネイドの放った巨大手甲は拳から、竜の口へと飛び込んできた!
「ヴァ、ォオオ……!」
『小癪なァ……!』
竜の牙と手甲の拳が、拮抗し、雷と火花を撒き散らす!
くッ……向こうも向こうで、強い……!?
そう簡単には、噛み砕けないのか……!?
『ぐッ、小僧! 気合が足らんぞ!』
ぐぅ……す、既に何か霊力を精製する臓器的なものが捩じ切れんばかりに絞り取られているのに……!
このままでは足りないと……!?
なら、もっと、もっともっともっと捻り出してやるだけだ!
貴族の根性を、なめるなァァァァ!!
「うおおおおおおおおおお!!」
「ヴァオオオオオオオオオ!!」
「ンおお!! クハハ! やるやるやるゥ!!」
よし、モルヒネイドの巨大手甲に牙が食い込んで、亀裂が走った!
このままいければ、霊卿ゼンゼロイの一撃が届く!
「――至高魔撃・具象業物忌災八裂」
――…………ああ、まぁ、当然、貴様も加勢するか。
女武士が持っていた黒刀が、黒い光を吹き上げた。天まで届きそうな、黒い光の柱。
黒い光柱は七本の枝を持つ巨大な剣――八支刀とでも言えば良いのか、そんな形状になり、闇の竜の脳天へと振り下ろされる!
「ッぐぅううううああああああ……!?」
「ヴァオオオオオオオォオォォオォォォ……!!」
ま、まずい……!
祝福を介して伝わってくる……霊卿ゼンゼロイが、闇の竜が、押されている……!
巨大手甲と正面衝突している横から、巨大な光の剣で斬りつけられているのだ、厳しいに決まっている……!
「オオオオオ、オオォォオオオオオオ……ッ!!」
『お、おのれ……!! ええい、この程度の術式二つが妾に拮抗するどころか押し返してくるなど……悪夢にもほどがあろうがッ!!』
ああ、そうだ、本来なら……伝承通りなら、霊卿ゼンゼロイの奥義は、魔神すらも問答無用で喰い潰す終極霊術。
たかだか魔徒の全力霊術を二つぶつけられた程度で、止まるはずなんてない。
だのに……現状、俺の霊力では、止められてしまう。
このままでは、破られる……!
――そしたら、どうなる?
最悪を想定するならば、俺は奴らの都合の良い駒に洗脳か改造を施され、北方駐屯基地を破砕するための戦力として使われる。
ガローレン卿なら、俺が加わった魔徒の軍勢を相手にしても押し返せそうではあるが――万が一。
もしも万が一、俺の加勢で、北方駐屯基地が抜かれたら――次には、北方全土を災禍が襲うだろう。
地方の守備に、魔徒を相手取れる戦力なんて、ガローレン卿と言う特例中の特例以外にまずない。
……一体、どれだけの人命が、その尊厳が踏みにじられる?
――「貴公らの根城から人間を捕えて帰り、死ぬまで情報を吐かせ続けた事がある故」。
あの女武士は、平然と、何も思う事などないと言う様子で、そう言った。
ふざけるな……ふざけるなァ!
「……負けられない……!」
痛い、苦しい。
確か、霊力は下腹部の【丹田】と言う場所で精製されるんだったか?
ああ、そこが酷く痛む。まるで、皮膚が裂け、肉が散り、骨が砕けているような、そんな酷い痛みがする。
この痛みは、限界の限界まで霊力を絞り出している証左なのだろう。
「……負けられるか……!!」
でも、まだ足りていない。
このままでは、到底、足り得ない。
「俺は……負けられないんだ……!!」
ノブリス・オブリージュ……!
身のほどを弁えろ、俺。
これは、負けて良い勝負ではない!
今ここで俺は、負けるべきではない!
ならば勝てよ! 貴族だろうが!
やるべき事をやれない貴族がどこにいる!?
それとも貴族やめるか? あぁ!? 冗談ではないだろう!?
誇るべき血が流れるこの肉体を、自ら穢すとでも!?
「俺は、ミッソ・シェルバン……! 英雄の、末裔だから……!」
――だから、無視しろ。忘れろ。限界なんて、そんなものは。
何かが引き千切れる音がした。
唐突に、立っていられなくなった。
それが、どうした。
倒れたら、負けて良いのか?
そんな道理はない。
倒れてでも、捻り出せ。
口に入った土くれを噛み潰しながら、振り絞れ。
「貴様らごときに、俺が、負けるものかァァァァーーーーッ!!」
「――ッ――ヴァアアアオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
霊卿ゼンゼロイが、俺の叫びに応えるように咆哮してくれた。
――ああ、有り難い。
聞こえただろう、今の咆哮が。
あれは、鼓舞だ。激励だ。
俺は、かの偉大なる精霊に鼓舞を受けるほどの男なのだ。
そんな誉れ、下手をすれば英雄しか受けた事はあるまい。
俺は、そこに匹敵するだけの名誉を今、与えられた。
であれば、ノブリス・オブリージュ!!
「あああああああああああああああああああああああああッ!!」
血反吐で声が濁る。知るか。それでも叫べ。
心臓が痛い、焦げているようだ。
きっと俺は今、何か、とても重大な何かを消費している。
――過剰消費。
霊力は魂の代謝から精製されるものであり、精製能力の限界を越えて霊力を消費して、魂を破損してしまう事――だったか?
構うか。
魂を破損しても、即死する訳ではないのだろう?
今、この場で、俺が勝つために必要な手だと言うのなら、やってやる。
そうして残った寿命を、力の限り、誇り高く尊大に生き抜きまっとうしてみせる。
だから、今は、心臓だろうが魂だろうが、燃やしてやるさ。
さぁ、霊卿ゼンゼロイ。持って行ってくれ。俺が差し出せるだけのすべてを!!
――黒い瞬きが見えた。
闇の波動が生み出す雷が、一際大きく、そして激しく、爆ぜた。
「ッぬ、ぐ……!? ば、莫迦な……!? こ、これは……!?」
「クハ、クハハハハ!! おい、マジかよ、俺様とティマの最大級だぜェ!? それを!! それをよォ!?」
――黒い雨が降った。
巨大な黒い手甲と、巨大な黒い光の剣が噛み砕かれて、降り注いだ。
その雨も、地に落ち切る前に、天へと吸い上げられていく。
先ほどの倍以上に威勢を増した超巨大な闇の竜に、すべてが呑み込まれていく。
――いけ……いけ……!
「いぃぃぃいいいッけええええええええええええええええええええええええッッッ!!」
「ヴァアアアアアアアアアアアアアオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!」
行く手を阻むすべてを呑み尽くした闇の竜が、高らかに咆哮して、突き進む。
残す標的は、モルヒネイドと女武士だ!
「いかん! 疾く退くぞ、モルヒネイド!!」
「冗談だろォ! まだ、ヤキを入れれてねェ! 勝負はこっからァァ!!」
「あ、待て! 莫迦が!!」
正気の沙汰ではない。
モルヒネイドがその両拳に闇の光を纏って、迫る闇の竜に飛びかかった。
「クハハハハハ!! クハハ――ハ?」
狂気の突撃か? それとも、一発逆転の目論見でもあったのか?
何をする気だったかは知らないが、残念だったな。
何をする暇も、あるものか。
闇の竜と化した霊卿ゼンゼロイは、すべてを瞬く間に吸い込んで呑み込む。
貴様も例外ではない。飛びかかった瞬間に貴様は、彼女の吸引領域に捕まった。
刹那の時間もない。
貴様はもう、口の中だ。
「――あ、これ死んだわ」
……モルヒネイドの最期の言葉は、そんな素っ気ないものだった。
自分の命すらそんな扱いだから、誰かの命を踏み躙れるのか?
ああ、そうか。ならば、容赦なんて微塵も必要ない。
貴様らの身のほどは、よく弁えた。
わかり切っていた事だが、あらためて認識した。
貴様らは、人間ではない。動物とも、植物とも、虫とも違う。
ただただ命を冒涜する、生ある者すべてに対する害だ。
自然の災害とも断じて違う。ひたすら醜く汚い悪害。
俺はそんな下劣極まる悪害の存在に、意義も意味も……微塵の尊厳すらも見出せない。
――とっとと呑まれて消えろ。魔徒が!
「ヴァオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」
闇の竜が、モルヒネイドの肢体を噛み砕き――その断末魔すらも呑み込んだ。