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24,新たな祝福の記し


「いいか、クーミン。人間、落ち着きが大事だ。特に、女の子は淑やかじゃあないといけないぜ」

「余計なお世話なんですが?」


 父はいつも、何かと私を気にかけてくれた。

 私が霊術師として北方駐屯部隊に入隊し、上司と部下関係になっても、変わらず。


「余計なもんか。お前は外面だけは冷静そうに見えて、すーぐ熱くなりやがる。表情筋が怠慢なだけで感情が薄い訳じゃあない。むしろ感情の起伏は人一倍だ」

「……知った風に言いますね」

「誰がお前のおしめを替えてきたと思ってる?」


 まぁ、確かに父の言う通り。

 私は少し、感情的になりやすいきらいがある。自覚はある。


 ……父は、いつもそうだった。

 お節介だと思えるくらい、毎日毎日、何かしらの助言をくれた。

 ふざけているように聞こえてその実、父の教えは「北方ここでやっていくために必要な事」――魔物と戦う上で必要な事ばかり。


 この時の会話もそう。

 落ち着きが大事――「魔物一匹一匹は大した強さではないとしても、慌ててミスをすれば何が起きるかわからない」と言う遠回しなアドバイスだ。


 父は、未熟な私が酷く心配だったのだろう。

 でも、心配を前面に出して私に気を遣わせないように、おどけ混じりにしてほんのりと誤魔化す。


「肝に銘じておけよ? お前だって嫁の貰い手に困りたかないだろ?」

「……っとに、余計なお世話」

「くどくど言われんのが鬱陶しいなら、とっとと浮いた話でも聞かせて黙らせてみろい」


 口ではかんらかんらと豪快に笑い飛ばしながら、その目はいつだって、優しく、強く、私の事を見守ってくれていた。


 ――……最期の瞬間だって、父は笑っていたのだ。


「――クーミンッ!」


 父は私を突き飛ばして、「間に合った、良かった」と、そんな安堵を滲ませた笑顔のまま――私を呑み込むはずだった黒い光の幕に包み込まれた。


 …………私はきっと、一生、あの時に聞いた音を忘れられない。

 湿った固いものが連続して砕けて、粘性の液体を詰めた風船が何度も何度も破裂するような音。

 そんな音を立てながら、父を包み込んだ黒い幕は飴玉キャンディサイズにまで収縮されて、あの女の口に呑み込まれていった。


「んん、珍味なのですねぇー。娘のためなら命すらも惜しまなぁい? そ・ん・なぁ、反吐が出るほどに善性が染みついたくっさい人間をゆっくりじっくり磨り潰して作るスイーツはぁ~……味覚がダメになっちゃいそうなくらいに、あんまぁぁ~い! なのですぅ♪」


 目に刺さるような派手な色合いのドレスを身に纏った、幼く、小さな女。

 ボリボリと、わざと私に聞こえるように咀嚼しながら、奴は悪魔のように嗤った。


「いやぁ、ごちそうさまなのですぅ。くーみん? とか呼ばれてたなのですっけ? 今。あなたの御父様、味も匂いも酷いけれど、食い潰す楽しさは一級品なのでした!」


 あの時、私は何を叫んだか、自分でも覚えていない。

 とにかく叫んで、吠えて、半狂乱で奴を殺そうともがいた事だけは覚えている。


 ……でも、到底、かなわなかった。


「やぁん、みっにく~い。寛容なアンもこれにはドン引きなのですぅ。女の子がする顔じゃあねぇなのですよー? ……ま、無理もねぇなのですよねー! ぷーくすくす! あー……ほんっと! よわっちい子を嬲るのって、たーのしー!」


 悔しくて、もう、声も出なくて。

 そんな私の頭を踏みつけて、奴は一層、愉快そうに嗤った。


「最高なのですよぅ。クーミンちゃぁん。あなたは最高に食べ応えのあるスイーツになりそうなのです。――よって、今回は見逃してあげるなのです。せいぜい、アンを憎んで憎んで、次に会う時まで無駄な努力を無駄に積み重ねるのです。……あぁ、良いなのです。想像しただけで甘いったら甘い。死にもの狂いで頑張ってきたクーミンちゃんをー、アンがさっくりとボリボリしちゃうぅ……! たくさんの努力があっさりと水泡に帰す瞬間の人間の顔と断末魔は! 何度ボリボリしたって飽きようがないほど最高に甘い! まるで地獄に落ちていく最中のような苦悶の表情と怨嗟の絶叫を凝縮した、最ッ高にあぁぁああああまあああああいスイィィィィツゥゥゥウウウッ!!」


 ふざけるな。

 そう吠える力すら、残っていなくて。


「だーかーらー……クーミンちゃんはぁ、アンが地獄に落とすまで、勝手に死んじゃあダメなのですよぉ? くふふ、くはッ、あはははははははははは!!」



   ◆



「魔徒……アンヘッタ……!」

「あり? アン、クーミンちゃんに名乗った事あったなのです? ……ああ、そう言う事なのですか。期待通り、アンに復讐するために頑張った、と」


 天気が崩れ、ゆったりと雪が降り始めた中。

 目に優しくないカラーリングの幼女――アンヘッタは笑みを濃くした。


 アンの予想している通り、クーミンはアンへの復讐を果たすため、魔徒について少しでもと情報を集めた。

 その過程でどうにか、アンの正体を特定するに至ったのだ。


「くふ、でもその表情……あははは! もぉ、クーミンちゃんはサービス精神旺盛なのですね? アンが何を仕掛けるまでもなく、無駄な努力をして、その徒労を噛み締めているとか!」

「くッ……!」


 ――菓子蒐集家ケルベローザ・アンヘッタ。

 伝承においては「非常に悪辣な遊戯を好む女であり、半ば道楽として恐怖政治でいくつかの村を支配、甘味を巻き上げていたが、英雄ソイソウスに肝入りの部下を倒された事を知って、戦わずに逃げ出した」とだけ語られている。

 ……そう、ただそれだけしか、語り継がれていない。


 性別、アンと言う一人称、甘さを尊ぶ発言、悪辣な嗜好から、奴はアンヘッタだと特定はできたが――肝心の「打倒に役立ちそうな情報」が、見当たらなかった!


「アンは頭脳明晰なのです。アンは、勝てそうにもない相手に手の内を絶対に明かさない。つまり、アンの手の内を知る奴はみーんな、ここなのです!」


 心底楽しそうに、アンヘッタは自らの腹部を撫で摩る。


「あのー……クーミンさん、あの魔徒と、お知り合いなんスか……?」

「…………………………」

「……ええ、何をしてでも、殺さなければならない相手です」


 ――……ですが!


 クーミンは、スッと眼鏡の位置と襟を直し、自身でみぞおちを軽く撫で叩いた。


 ――先ほどの今で……もう、感情に流されたりはしない……!


 既に失敗したのだとしても、それは失敗を繰り返して良い理由にはならない。


 クーミンがアンヘッタへ抱く殺意は、はらわたどころか脳をも煮えたぎらせる。

 だが、それでも、そうだとしても今は!


 ――「お前が魔徒の殲滅に拘る理由は知っている。だが、そうであるからこそ、ミッソの言葉は深く胸に刻んでおきたまえ」。


 以前、パイシス・ガローレンに言われた事だ。


 ミッソに説かれるまでもなく当然の事だが、騎士団員が第一に目標とすべきは、人命を助け、守る事。


 魔徒をどれだけ恨んでいたとしても――いや、むしろ――魔徒に大切な人の命を奪われ、その事を嘆くならばこそ!


 これ以上、魔徒に、誰かの命を奪わせてたまるものかッ!

 アンヘッタを殺す事よりも、アンヘッタから皆を守る事を優先すべきだと、無理にでも冷静さを繋ぎ留める!


「あぁんもう、踏み躙って嘲ってボリボリしたい、その必死そうな表情! ……でーも~……はぁ、やれやれなのです」

「……?」


 アンヘッタは急に肩を落とし、言葉通りやれやれと、首を左右に振った。


「テっちんの作戦なのです。少なくとも今は(・・)、クーミンちゃんたちに手を出す訳にはいかないなのです。なので今日は経過確認しに来ただけなのですよう。あーあー、御馳走を前におあずけとか! つーまーんーなーいーのーでーすー!」

「………………!?」



   ◆



「貴公がしおらしく我々に従う間は、貴公の仲間に危害を加える事はないと約定を交わす。此方にはその用意がある」

「……なに?」


 魔境樹海にて遭遇した魔徒、荒くれ男(モルヒネイド)と女武士。

 名乗れよー名乗れよーとうるさいモルヒネイドを制しながら、女武士が口にしたのは、そんな提案だった。


「……信用されるとでも、思っているのか?」


 身のほどを弁えろ、魔神の信奉者が。


「魔神様の信徒は信用に足らんと? 否、その考えには重要な見識が欠如している」


 ……貴族として凄まじい英才教育を脳に刻まれてきたこの俺が、ものを知らないと?


「魔神様の教示である。『強者ならば、嘘偽りは弄ずるな』。嘘偽り、舌先小細工は小物が行うみっともなき所業。悪徳を誇るなればこその矜持、それは決して小物風情にはならぬ事。拙者ら魔神様の手勢は、強者である」

「ガローレン卿に打ちのめされ、魔境ここに引き篭もっていると聞くが?」

「がろうれん……あの銀騎士か。ああ、うむ。拙者らは一度、あの女を相手に、申し開きのしようもないほどに惨敗を喫した。だが、上には上がいたとしても、自らを弱者で小物なのだと貶める真似はせん。拙者らは依然強者であり、更にその強者がいただけの事。故に、嘘偽りにだけは絶対に手を染めん」


 ……もっともらしくは、聞こえるな。

 現に、あのモルヒネイドと言う男が暴走した以外で、魔徒どもは積極的に俺たちを攻撃しようとはしていなかった。

 特に、この女武士は、俺たちを殺せる場面でも信号弾を破壊するだけに留め、モルヒネイドの暴走に対しても(間に合わなかったが)制止を試みていた。


 つまり、最初から――


「可能であれば穏便に、俺をそちらに引き込みたいと?」

「無論。力づくで従える手はいくらでもあるが、これから共に肩を並べて戦う者と拗れるのは、面倒だ」

「俺が応じるとでも、思っているのか……?」


 舐めてくれるな。


 確かに状況は絶望的だ。

 この状況で、今、こいつらの提案を断ればどうなるか?


 妥当に考えれば、先ほど女武士が言った「力づくで従える手」を行使されるだけ、だろうな。


 抗う術はあるか?

 難しいだろうな。厳しいだろうな。


 だが、ノブリス・オブリージュ。

 下れるものか、魔徒なんぞの軍門に。

 こいつらは多くの人命を、命の尊厳を踏みにじってきた魔の軍勢。

 そんな輩に下ると言う事は、その蛮行を肯定すると言う事だ。人間のする事ではない!

 こいつらの下で、人として生きていける未来など存在しない!


 だから、最後の一瞬まで考え続けろ。

 こいつらの軍門になど決して下る事なく、この場を生きて切り抜ける術を!


「ふん……貴公、ほのかに香っているぞ。忌々しい英雄ソイソウスの気配がな」

「……それまでもわかっていながら、俺を口説こうとしたのか?」

「むしろ、それを承知しているからこそよ。拙者はそれなりに当世の事情にも明るい。過去に幾度か、貴公らの根城から人間を捕えて帰り、死ぬまで情報を吐かせ続けた事がある故」

「!」


 貴様……! ……いや、今は抑えろ……!

 この最低最悪の人殺しを断罪する術を、今の俺は持ち合わせていない。

 向こうは律儀にこちらの質疑に応答してくれる。どこかで隙が見えるのを、冷静に待つべきだ。

 俺が今ここでこいつらに囚われてしまえば、ガローレン卿は魔徒を打倒する好機を失う……どころか、洗脳だか何だかを施された俺が、人質兼戦力として利用され、北方駐屯基地が窮地に陥る可能性も予想できる。


 血の味が滲んできたとしても、唇を噛んで、吠えたい気持ちを抑制しろ……!

 ……今、俺がやるべき事は、激情に任せた報復ではない……!

 己の為すべき事を、弁えるんだ……!


「当世において、黒騎士は禍いの象徴だそうだな? ふん、人間はどこまで意味不明なものか……手前らが何に救われたのか(・・・・・・・・)すらも知らんとみえる」


 ……? 何の話だ……?


「ともかく、事情は承知している。貴公もどうせ、ろくな目にはあっていないのだろう?」


 ……黒騎士が今現代においてどう言う扱いかは知っている、か。

 そして俺がソイソウスの血筋である事も加味すれば……、


「納得しているのか? 貴公は。人から受ける、自らの扱いに。英雄の子孫だのに、黒騎士だからと言う意味不明な理由で虐げられて、こんな極地に追いやられた、違うか? 違わぬはずだ。それで、いいのか? 納得はしているのか? そう訊いている」

「……勿論、納得などしてはいないが」

「そうだろう、では――」

「――だが、既に、仕方ない事だと割り切ってはいる」

「……は?」

「被害者となってみれば理不尽極まりなく、到底、納得などしたくない。だが、世間が黒騎士を疎む気持ちは理屈として理解できる」


 だってそうだろう?

 実際問題として、だ。

 この魔徒どもの親玉だった魔神と言う存在を筆頭に、闇の精霊に纏わる連中はろくでなしが多いのだと、伝承と歴史が証明してしまっているのだから。


 俺の事をよく知らん連中が「黒騎士である」と言うわかりやすいアイコンに反応してしまうのは、無理もない事だ。

 実際、俺が逆の立場だとしても、素性を知らない黒騎士を相手に好意的になれる自信はまったくない。


 そんなものだ。黒騎士の扱いなんて。


 ――で? だから何だ?


 それは、俺が俺でなくなる理由に成り得るのか?

 否だ。断じて否。


 黒騎士がどれだけ嫌われようと、黒騎士も騎士。

 故に俺は騎士団に配属され、騎士としての働きを求められている。


 黒騎士は嫌われ者で、縁起が悪くても。

 誰も彼もに嫌われ、疎まれ、時に石を投げつけられる事すらあったとしても。


 騎士団に所属する以上――「あらゆる災厄から人々を助け、守る」、そんな使命を帯びたヴルターリア王国の騎士なのだ。


 であれば、当然のノブリス・オブリージュ!


 誰が何をどうしようと、俺は、騎士としてやるべき事を貫き通す!


「……名乗れ名乗れと言われていたしな、丁度いいから教えてやる。俺の名はミッソ・シェルバン! 救世の英雄ソイソウスの直系御三家がひとつ、シェルバン家の嫡男だ! ……いや、事実上もう廃嫡されているけども! 血筋は確かだ!」


 だから、肝に銘じておけ。


「身のほどを弁えろ、魔徒風情が! 貴様ら如きの誘いを受けるほど、俺は堕ちていない!」

「…………身のほどを弁えるのもいいが、状況を弁える事も大事だと思うぞ。ミッソ・シェルバン」


 ……女武士が、ゆっくりと腰の剣、その柄に指を伸ばした。


 ああ、そうだな。この状況で貴様の誘いを蹴るのは、利口な行為ではないだろう。

 だがな、利口でなくとも正しい判断だと胸を張って断言してやるさ。


 命を捨てる行為? バカを言え。


 全力全霊を尽くして、逃げ切れば良いんだろう?


 隙を突いて逃げる予定だったが――もういい、言うべき事を言った結果だ!

 ならばその結果の中で、足掻いてみせるとも!


「ムルハ・ディモ・イ・マガツトゥルナハ!」


 来い、ディズ!


「ヴォオオウ!」

極禍撃マガツガル!」


 間髪入れず、ディズに全開の闇の波動を撃たせる。

 指で示した照準は、女武士とモルヒネイドの足元、雪崩で運ばれてきた膨大な雪によってかさを増した積雪!


「ぬッ!?」

「んおォ!?」


 雪煙を巻き上げつつ、魔徒どもの足場も破壊して体勢を崩させる一挙両得な一撃だ!


 成果を目で確認する暇はない、さっさとディズに跳び乗――


魔撃マギル千刃万刀斬砂流センジンバンカキズナウタ


 うぉおあぁうッ!?


「ヴォオアン!?」


 にゃ、ば!? 何だ!?

 がくんて! ディズに跳び乗った途端に、がくんて沈――なッ……!?


 ディズの足元――積雪が、いや、地面もとろもか!?

 まるで流砂のように、ディズごと俺を呑み込もうとしている……!?


 まさか……あの女武士、俺たちの足元の雪と大地を、砂の粒子よりも遥かに小さく微塵斬りにしたとでも言うのか!?

 魔徒の霊術、どこまで規格外だ!? バカなのか!?


「――お互い、名乗り合ったんだ。もし俺様に殺されちまっても、悔いはねェな」


 ッ、モルヒネイド!

 また、拳に黒い光を纏って、こっちに――不味い、霊装の上から受けても意識を刈り取られる一撃、生身で受けたら――


「ヴォッフ!」

「!」


 ディズが背を振るって、俺を後方へと投げ飛ばしてくれた。

 ナイス判断だ! ありがとう、ディズ! 流石は俺が丹精込めて接してきた霊獣!


 ――だが、それでも、


魔撃マギル極光鉄拳アムドアウラァァァ!!」


 魔徒の霊術規模は、本当にバカげている。


 俺と言う標的を失ったモルヒネイドの拳はディズに向けて振り下ろされ、直撃。

 ディズの召喚体を一瞬で砕き散らして霊力として霧散させ、なおもその一撃は止まらない。


 流砂と化していた雪も大地も砕いて、吹き飛ばして――その衝撃波に煽られただけで、四肢げもげるかと思った。


「ぅお、ああああああああああああああああああああッ!?」


 情けないから悲鳴はできるだけあげない主義なのだが――無理、こんなの声、出ちゃう。

 風になるってこんな気分なのだろぅがッびゃつァッ!?


 が、ァッ!? ぎぃ、ッ……くそ、背中からもろに、木に直撃、してしま、った……!

 受け身なんぞ取れるか……! あんな勢いで吹っ飛ばされて!


 ぐごぉぉぉ……や、ヤバい……割と、背骨に致命傷が入った感じがするぅ……!?

 お、折れてはいないか……ぐぅぅう……木に手をつけば、どうにか、立ち上がれそ……う、


「ッ、ご、ふッ……」


 ああ、少なくとも、臓器は多少やられたな。

 口から溢れだしてきた熱く赤い液体が、白雪をじわりじわりと汚していく。


 ……不味いな、視界が、霞んできた。

 霊装がどれだけ優れた防具かを思い知らされる。

 先ほどは、あの拳が直撃しても頭から少し流血して意識が飛ぶ程度で済んでいたのだから。


 ……来る。

 ぼやけた視界で、こちらに近づいてくる二つの人影が見えた。

 モルヒネイドと女武士だろう。「だからやり過ぎだと」「えー、もう名乗ったんだから納得ずくじゃん?」「そう言う問題ではないと何度」などと言い合っているのが聞こえる。


 どうする……このままだと、普通に捕まる……!

 とにかく、逃げる足がない事には始まらない。

 もう一度、ディズを召喚し……ん?


 …………何だ、これは……?


 俺が手をついている木の表面に、何かが、刻まれていく……?

 まるで透明人間が透明なナイフで、文字を刻み付けていくように、一画ずつ、ガリガリと。


 これは、どこの国の文字だ?

 見覚えがな――いや、ある。

 だが、読めない。意味はわからない。


 これは、精霊の文字だ。

 騎士として、祝福を受ける儀式に臨んだあの日、羊皮紙に刻まれていた一文と同じ文字系統。と言うか、一部は同じ文字列だ。


 相変わらず、読めない……だが、どう発音すればいいかだけは、何故だかわかる。あの時と同じ。


 これがどう言う現象なのか、よくわからない。

 でも、何かが伝えている気がした。


 ――『わらわを呼べ』と。


 ……この際だ、何でもいい。

 俺に手を差し伸べてくれると言うならば、猫の手だろうが構わない。魔徒の手以外は取ってやる。


 ――何でもいい……どうにかしやがれ!


 全力で祈りながら、木に刻まれた一文と、脳裏に浮かび上がった言葉を、叫びあげる。


「ヴァオウ・ディム・ド・マガツベルケイオ! 其様そさまは深淵の暗黒――奈落の具現たる宵闇の化身!!」


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