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ワット・ウェント・ダウン

作者: とんとん

He is alive, but they aren't.

「ルックアウト! ブレイク!」

誰かが叫んだ。

隊長機はひらりと機体をハーフ・ロールさせ、プル・スルー。

私は二番機のコニーと共に左へ急旋回することを選んだ。

機体のすぐ後ろを敵一機が駆け抜けていく。敵の砲弾は命中していない。

じわじわと旋回の輪を縮めながら敵の二撃めを待つ。

完全にこちらが獲物だ。高度と速度は向こうが上。こちらは旋回に優れているが、防御にしか使えない。ダイブみたいなものだ。

敵が大きなループを描いている。

再突入しようと、鷹の目でこちらを見ている。

私が150フィート右後方。

少なくとも、コニーとの相対位置はズレていない。

「下方に敵機! 避けろ!」

誰かが叫んだ。

一体誰に向けて言った?

機体のバンクをきつくして、少し操縦桿を引く力をぐっと強めた。

Gがぐっとのしかかる。

もし彼らの獲物が私以外だとしても、こうすることが最善である。

答えはすぐにわかった。

機関砲の音が、くぐもったハリケーンのエンジン音を超えて聞こえくる。

ほど近い。

私の真上を、別の109が駆け上って行くのがキャノピィ越しに見える。頭をぐいと曲げて、敵機の軌跡を追う。

私を狙ったのか!

今ならやつに一撃加えてやれる。

そのくらいの速度差だ。

突き上げで速度を失っているし、きっともたついて速度を高度にうまく変換できなかったんだろう。

そうだとしても、上下からの連続攻撃、しかも、下は雲の海だ。完全な統率と連携がなければ出来ない作戦だと感じる。

だがこのパイロットは、少なくともベテランではない。

ピッチ・アップ。

機体を上昇に入れる。

敵機を照準器に捉えることができた。

射程ぎりぎり。

敵機がロールする。

操縦桿をしっかり握る。

体を硬直させる。

ラダーで機体を倒す。

ボタンを押し込む。

1秒。

シャワーのように機銃弾が飛ぶ。曳光弾が敵機に吸い込まれていく。

命中。

敵機から何かが弾け飛んだ。

次の瞬間、金属と金属がぶつかる、身の毛のよだつような音が聞こえた。

思わず肩を竦ませる。

きぃん、という不気味な音とともに109が飛び去った。

素晴らしい速度、綺麗なピッチ・アップ。

ブレのないインメルマン・ターンを決めて、遥か遠方に飛び去っていく。

翼端が円形に整えられており、今までの角ばったそれと違っている。

噂の新型だろう。

話には聞いていたが、機体の性能以上に、あのパイロットを恐ろしいと思った。

追撃したことを少し後悔したが、いまさらだ。

しかし、機体の操縦に異常はない。

何という幸運。

コニー機が見えない。

メータを読む。

油温が急激に上昇して来ている。

エンジンに被弾したのかもしれない。

機体をそのままループさせ、ゆるくダイブに入れる。

水平飛行に入ったところで、エンジンが急に愚図りだした。

もうそろそろ停止してしまうだろう。

持って数分だ。

これでも運が良かったと言える。私はまだ死んではいない。

「敵機は?」

「消えて行きました」

「誰か敵機を落としたか?」

ラジオがやかましい。

私はスイッチをオフにすべきか数瞬迷ったが、やめておいた。

「ジュニパー・ベリィ! 煙を引いたハリケーンが一機下降していく!」

誰かが隊長に向けて叫んだ。

たぶん、コニーだ。

「私です、隊長。被弾しました。エンジンが限界です。不時着します」

努めて冷静に答える。これくらいなんてことはない。

「パラシュート降下はどうだ。飛行艇(ウォルラス)を呼ぼうか。私たちは燃料の関係上、ここには残れない」

「そうですか。では、不時着します」

「了解、グッドラック」

数秒間の間があって、ようやく隊長は口を開いた。

私はその沈黙の意味を、うっすらと理解していた。

「ええ、隊長も」

私は通信を切り、酸素マスクを外した。ちょうど真上に隊長たちが見える。深呼吸して、操縦桿を握りなおした。

周囲を確認したが、敵機は見えない。

ダンスパーティはもうお開きらしい。

地図を盗み見た。

ホームはここから遠すぎる。

だからといってパラシュート降下したら救助隊の飛行艇(ウォルラス)より先にヤツらが私を見つけるだろう。

それに、雲海の上は晴れているが、下の天気がどうなっているか分かったものではない。

春先とはいえ未だ肌寒い。

こんな気温で、しかも敵地のそばで海を彷徨うというのはなかなかユニークな提案だが、遠慮したい。

すぐ波に呑まれてしまいそうだし、私はこの戦争が終わるまで、もしくは息が止まるまでは帰れなくなってしまうに違いないからだ。

大陸へ不時着するほか無い。

隊長たちは私が緩やかにターンをしたのを見届けると、本土へと帰って行った。

徐々に高度を下げていく。

エンジンが止まった。

よく持った方だ。

高度と速度が尽きれば、そこまでだ。

雲の下に出ると大陸がすぐに確認できた。

同時に港の上空を通過したが、あの煩わしい対空砲火がないところをみると、中立国に侵入したようだった。

まさか私が見えていないわけがあるまい。

高度がいつのまにか五千フィートほど落ちている。

私はあたりを見回して着陸できそうな場所を探す。

もうこれ以上の滑空は無理だろう。

十一時の方向に畑が広がっているのが見えた。機体をバンクさせ、高度を落としていく。速度は十分遅い。

地面を擦るように飛ぶのは刺激的でスリルに溢れている。ただし、エンジンが動いているうちは、だ。

私は、実のところ、背中に嫌な汗をかきながらハリケーンを飛ばしている。

機体を水平に保つのに全神経を集中させる。

着陸まであと少し。

フラップをいっぱいに下げ、胴体着陸を試みる。

機速をぐっと落とす。

フレア。

衝撃。

ギリギリのところで機体が右側に傾いて翼が地面を叩いたらしく、上下に激しく揺れた。

私は思いきり揺さぶられ、額をどこかに打った。

額が切れたかもしれない。

じんじんする。

ハーネスの大切さをこんなにも痛感したのは初めてだった。

機体が静止したので、私はキャノピィを思い切り開けた。

手が震えていたので、ハーネスを外し損ねた。

焦っているのがわかる。

私は自分自身をもう少し余裕のある男だと思っていたが……。

深呼吸して、指をゆっくりと動かしながら外す。

そうやって、慎重に、ようやく、私は私を椅子に縛り付けていた恩人から解放された。

コクピット横のハッチが開かない。

「くそっ」

体を前回りの要領で無理やりコクピットから出た。

主翼の上を転げ落ちた。

世界が回る。

ここで休みたい気分だったが、そうも言っていられない。

私は急いで立ち上がり、少し足をもつらせながら、大急ぎで機体から距離をとった。

脱出できたのに機体の爆発に巻き込まれて死亡という馬鹿げた結末は避けたい。

十分離れたところで、私は振り返った。

抉れた地面の先にハリケーンがいる。

木製のプロペラは全て吹き飛んでいて、右の翼端は失われていた。

ついでに、エルロンの羽布も剥がれている。

私は一息ついてから腕時計を見た。

奇襲されてから5分も経っていない。

時間感覚のズレを実感したところで、私はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。

そして、ゆっくり深呼吸をしたあと、未だに痛む額に手を当てた。血は出ていないようだ。

地図をポケットから取り出した。少し内地に入っている。ともかく、海岸まで出るのは無謀だし、大使館に逃げ込む余裕などないだろう。

この国は私たちより、その敵と仲が良い。

私は、枯れた畑から森の中に足を踏み入れた。

エージェントや住民に見つからないようにしたい。

目立ちたくはない。

熱いお茶と甘いクッキーがほしいと思った。



「隊長、飛行艇(ウォルラス)を呼ぶべきでは?」

コニーが言った。

「いや、アイツは大陸の方へ滑空していった。本国よりもそちらの方が近い。胴体着陸するなら賢明だよ。しかし、飛行艇(ウォルラス)が向こうに無傷でたどり着けるとは思わんね。二次遭難って奴だ」

「そうですか……」

「そうだ、気にするな、コニー」

コンラッド・ウェルキンはアイツのことをまだよく知らない。

それもそのはず、この坊主は入隊したばなりの「失われた世代」なのだ。

若く、感情的な子供達。

俺よりもずっと若く、その分だけ体力に優れている。

ハツラツで、憎めない、可愛い弟分だ。

だから、俺はコニーを二番機においている。

コニーはあいつに気を配るヒマなどなかったろう。

もしかしたら、彼が責められるかもしれない。

いや、コニーは誰からも責められることはないだろう。

責められるべきは……。

俺は大きなため息をついた。

仲間が落ちたというのに、俺は少し肩の荷が下りた気がしている。

厄介者だったのだ、はっきり言って。

俺の手に負えなかった。

奴は敵機を見ると問答無用で襲いかかった。

不利であろうと、有利であろうと関係なく。

たまったものじゃない。

アイツがどうしてそんなことをするのかわからなかった。

最初はアガってしまったからだと思ったのだが、どうも違う。

奴は未だにあの危ない飛び方をする。

アイツの行動に何度肝を冷やしたことか。

誰よりも早く、しかし勝手に編隊を抜けるのだ。

勝手に離れるといこと、つまりは見張りの目が1つ消えるということは、我々が奇襲を受けてしまう確率が上がることを意味する。

今回こそ違ったが……

だが、それももう終いだ。

俺はコニーに索敵を怠らないように言った。

大丈夫、俺たちは帰れる。

ふとキャノピィに陽光が射し、俺の顔をグラスにうっすらと浮かび上がらせた。

醜い顔だと思った。



しばらく歩くと、木々が開け、大きな道に出た。

これに沿って歩こうと決意した。どちらの方向に進むにせよ、私はどこかに辿り着かねばならない。

森から出ようとした時、遠くからエンジン音がしたような気がした。

私は踵を返し咄嗟に茂みに飛び込んで、息を潜める。

飛行機ではない、トラックか何かだ。

しばらく息を潜めていると、何台かの四輪駆動の小型偵察車、要はジープが通り過ぎて行くのが茂みの隙間から伺えた。

彼らは私の残骸を確認しに来たのだろうか?

もう終わったことだ。

私は自分に言い聞かせた。

まだ、後ろ髪を引かれる思いでいる。

ハリケーンのことを忘れられない。

私の、機体だ。

私の、飛行機だった。

ひとまず、命のあることに感謝するほか無いだろう。頼りないコンパスと地図を睨みつけながら、少しずつ進んでいく。

全く終わりが見えないから焦る。

森の中は、同じところをぐるぐると回っているようにしか見えなかった。

20分くらい歩いただろうか、私は漸く出口にたどり着いた。

落ち着くために煙草を吸うことにした。

私は、こういう時はいつもこうしている。

ポケットから取り出したそれは、少し歪んでいた。

大きな石に腰を下ろす。

「珍しいお客だ」

半分くらい吸い終わったところで、誰かに声をかけられた。振り返ると、農夫と思わしき老人が立っている。歳はかなり取っているようだが、顔つきは精悍だ。

私はすぐに煙草をもみ消し、彼に向き合って、できる限り丁寧に礼をする。

「いや、私ごときにそんなに畏まらんでください」

彼は言った。非常に的確な文法で私の国の言葉を使っている。わずかにイベリア半島特有の訛りがあった。

「何をしにいらしたのですか?」

「いえ、散歩をね。ここからすこし西にいくと、野花が綺麗に咲くところがあるんです」

「そうなんですか」

老人は私の服装に気づいたようだった。

「どうしてこんなところに?」

「すこしばかり殴り合いがあったもので」

「ふうむ、ここでも、やり合っとるんですな。もし、今日の宿が決まっていないようなら、私の家に泊まると良い」

彼はにこりと笑いながら言った。正直、くたくたになっていたし、メイ・ウエストは汗でぐっしょりとしていたので、今すぐにでもお邪魔したい気分だった。しかし、どう考えてもクラッシュしたそばの村でお世話になるのは目につきすぎる。

「有難い話なのですが、野暮な隣人があなたの家の敷居を跨ぐのは好ましい事ではありません」

私はできるだけ丁寧に言った。好意を無下にするわけにはいかない。

「そうかい。うちの家内は連邦の出身でね。お前さんが来たらきっと喜ぶと思ったんです。そういえば、この村には電話はないんでしたな。エージェントなぞ私の村に来たことは一度もない」

彼が口もとを歪めながら言うので、私は困ってしまった。

「では、明日の朝、日が昇る前にはここを出ます」

「そうしたらいい」

「よろしくお願いします」

私がそう言うと、彼はこちらへ来いとジェスチャーした。

ハリケーンに想いを馳せる。彼女と飛ぶことは二度とない。

私の最初の相棒だったのだ。

彼女が最後の相棒となるかもしれないが。

村は森を出て5キロほど歩いたところにあった。閑静な、自然と融和した、素晴らしい場所だ。

彼の家の、その外観は他のそれとあまり大差はない。しかし、一回りは大き異様な気がした。中に入ってみれば、手入れが行き届いているのが一目でわかる。

「彼女が私の妻だ」

彼は言った。彼が耳打ちをする間、老婆は私のことをずっと見ている。

「あなたのご出身は? 連邦と聞いたけど」

優しい口調で老婆が私に問うた。

「キャンドルウィックです」

私は言った。一瞬故郷のガヤガヤとしたあの街並みを思い出した。初めてサヴィル・ロウのオーダーメイドにカード払いをした時の、少し気まずい、しかし少し浮かれてしまうような、あの気分ですら懐かしかった。

そして、私の脳裏に焼きついたあの光景をも思い出すことができた。

「まぁ!良いところにお住みなのね」

彼女は嬉しそうに言った。

「さて、話したいことあるでしょうけど、そろそろお食事の準備があるんです。できる前にシャワーを浴びたほうがいいでしょう」

「もうそんな時間か」

彼は席を立ち、私に手招きした。

「洗濯をする余裕はなさそうだね」

彼は言った。

私はそれに同意した。

すくなくとも、日が昇る前に出るつもりだったからだ。

シャワーの温度は心地よかった。久しぶりに熱湯を浴びた気がした。あんまり長い間入っているわけにもいかないので、可能な限り素早く体を洗った。

シャワーを出ると、メイウェストではなく、清潔なシャツとストリングバッグが置かれていた。それに着替えろということらしかった。私より少し大きめで、古い匂いがした。

バックの中には私のメイウェストが入っており、ポケットには私の認識票やらが元のまま入っていた。

「似合ってるじゃないか」

リビングに戻ってくるや否や、彼が言った。

「君のツナギはそのストリングバッグの中だ。余計だったかね?」

「いえ、大変ありがたいです。ただ、どうしてここまでしていただけるのか、疑問に思っています」

私は素直に言った。彼らになにかを隠すこと自体、意味のないことに思えた。

「それもそうですわね。でも、私には理由があるんですよ」

彼女は、彼女の配偶者をじっと見つめながら言った。

私は、ようやくそこで嫉妬している自分に気づいた。

私とは、かくあるべきであったのだと。それは私の手から、私の意思には関係なく、奪い取られたものだったのだ。

「私の息子もあなたと同じように空に憧れてたわ」

「そうなんですか」

「ええ、それは息子のものなの。もらってちょうだい」

「そんなことはできません。ここを出るまで借りることにします」

「今は南の関所にいるから、必要ないのよ」

彼女は笑って言った。

「ジブラルタルへ抜けられる……」

私は思わず呟いた。

幸運だった。

「そうです、ジブラルタル。そこまで行けば、あなたは帰れる。バッグの中に手紙を入れておいた。息子宛だ。なんとかなるだろう」

彼はにこりと笑った。

私は、この老夫婦とは違った。もちろん、飛行隊のメンバーともそりが合わない。

クレイジィ。

私は、周りからそう言われ続けてきた。

自分の死を恐れろと、皆は口々に言う。

何機メッサーシュミットを落とそうとも、ハリケーンを一機落とされたらその時点で負けだ、とも。

だからなんだと言うんだ?

奪ったのは奴らだ。

奪い返して一体何が悪い?

はっきり言って、私にはその権利がある。

「どうしたのかね?」

「いえ、ただ、嬉しくて」

私は嘘をついた。

「これから食事にしますから、座ってくださいな」

彼女がキッチンへと消えていくのを見て、彼が私を催促する。

しばらくすると、彼女が鍋を持って現れた。

郷土料理と言えば、すこし独特で田舎臭いイメージをもっていたが、私好みの素晴らしい味付けだった。

「これはなんていう料理ですか?」

「お気に召したかしら?」

「ええ、とても。こんなに素晴らしいものは食べたことがない」

「聞きましたか? お爺さん、私の腕も上がったでしょう」

得意げに言う彼女と対照的に、彼は少しにやけながら、押し黙っている。

私はすぐにこの料理を平らげてしまった。それくらい腹は減っていたし、上等な味だった。

食事を終えると、私は地下室へ通された。←消し忘れでは?

「おかわりはいります?」

「ええ、もちろん」

私は即答した。夫人はそれに大変気を良くしたようで、皿になみなみと注いでくれた。私は、彼らを少しでも疑ったことに罪悪感を抱いた。

食事を終えて、私は皿洗いを申し出たが、一言で断られてしまった。

仕方ないので、私は老人に案内されるまま、地下室へ通されることになった。

部屋はかなり広かったが、すこし寒くて、埃の匂いがした。

私のような人間にはぴったりの寝床だ。

「一つ聞きたいんですが」

去り際に老人は言った。いつのまにか片手にワインボトルを持っていた。

「どうして戦うんです?」

血の気が引き、冷や汗が滲み出るような、夢から覚める感覚。

「祖国を守るためです」

出来るだけ冷静を装い、声を絞り出した。

「本当にそうですかい? 私には、あなたが楽しんでいるように思える」

「そんなことはありません」

「いや、違うね。あなたは楽しんでいる。空を、ではない。敵を倒すことをだ。普通のパイロットなら、あのタイミングで機体を上昇には入れない」

「見ていたのですか?」

「そうとも」

彼は続ける。

「あなたの機体は敵に対して優速でも、上昇力で優れるわけでもない。うまく旋回で攻撃を避けたとしても、その速度を失った状態で上昇に入れるのは悪手に他ならない」

「敵は速度を失っていた。こちらが有利だっただけです」

「それは他の敵機にこちらを狙ってくれと言っているようなものだ。それでもそうするということは、余程のルーキィか、余程落としたいと思っているか、どちらかだ。そして、あなたはベテランでこそないが、ルーキィでもない」

「だから、楽しんでいると? そんなのは推理にすらならない」

私は語気を強めて言った。

「そうとも。だが、もし、そのパイロットの妻が殺されていたとしたら?」

「どうしてそれを知っている!」

私は叫んだ。

彼は私のことを知りすぎている。そもそも、私のいた戦場はここからかなり遠い。つまり海峡のど真ん中だ。

その状況を、彼が知り得たはずがない。

「あなたは何者だ?」

「おかしなことをお聞きになる。初めから分かっていたでしょう?」

「なにがだ?」

「よく考えてみなさい。敵に与する国にあなたの同胞がいたとして、その夫が落ちてきたパイロットを拾うかね? ここはどちらの味方だと思っている?」

老人はゆっくりといった。

どこかで聞いたことがあるような声だった。

「じゃあ、どういうことだ? あなた方は……」

「思い出せ、お前は何を考えている?お前は一体何に嫉妬した?」

そうだ、私は老夫婦に嫉妬していた。

なぜ、それを知っている?

私は、では、誰と話している?

この老人は、誰だ?

「あなたは、好きで殺している。また殺すために、国へ戻ろうとしている」

「違う。私には、その権利がある!」

「なんの権利だ? あなたは神か? 人を殺して良いと、そう言われたのか?」

「奪ったのは奴らだ。奪い返して、何が悪い?」

「そう、それだ。まさに君の傲慢だ。わざわざ君から奪うために爆弾を積んでロンドンに彼らは飛んだとでも?」

「そんなことは関係ない。結果だよ。私は、妻も子も、奴らに奪われた」

「その通りだとも。だから君は奪う権利があると言う。だから傲慢なのだ。復讐は、神にのみ許された行為だ」

「神が居たらこんなことは起きなかった!」

私は飛び起きた。

寝ていたのだろうか?

辺りをゆっくりと見回した。

狭い地下室だ。

頭の動きがとても鈍い。

夢と現実の狭間がわからない。

どこまでが本当で、どこまでが嘘か。

暫く間をおいて、ようやく老夫婦に念のためにとここへ通されたことを思い出す。

上から話し声が聞こえる。

とても訛りの強い話し声で、冷淡で、平静な声だ。

私はこのような声を知っている。

スパイの、感情を押し殺した声だ。

私は息を潜める。

見つかったら、私は二度と国へは戻れない。

当然、老夫婦も厄介な目に会うだろう。

いや、彼らが元からそのつもりで私を招き入れたのでは?

あまり喜ばしいことではない。

どうすべきだろうか?

彼らを信じるべきだろうか?

ガタン、と大きな音に続いて複数の歯切れの良い足音が聞こえた。どう考えても軍靴の音だ。

多分、ここにも来るだろう。

わたしは一つ舌打ちをして、辺りを見回した。

見つかるわけにはいかなかった。

戻れないばかりか、命の保証もない。

すくなくとも、ジブラルタルへは二度とたどり着かないだろう。

私は、手近なクローゼットに無理やり体を押し込む。

内側から戸を閉めた辺りで、床が軋んで、思わず声が出そうになる。

私は、結局老夫婦を信じる他ない。

人が降りてくる音がする。

クローゼットの隙間からぼんやりと軍服が見える。

地下室を見回しているようだ。

すくなくとも、「親衛隊」ではない。

足を止めた。

こちらを見ている。

思わず口を押さえ、息を止める。

バクバクと心臓が暴れはじめる。

彼が戸を掴んだ。

ギィ、と開く音がする。

目があった気がした。

私はすぐさま目をそらし、戸が開かれるたびに増える一幅の明かりを睨みつける。

私に近づいてくる。

もうすぐ私に届く。

歯をくいしばる。

そのとき、階上から怒鳴り声がした。

もう光は動かない。

男は何がまくし立てたあと、上に戻っていったようだ。

まっすぐ覗き見ることなんてできない。

あの男は私に気づいていただろうか? 上で仲間に説明しているだけでは?

私の心臓は早鐘を打ったままだ。

どれくらい時間が経った?

深呼吸をする。

心臓が落ち着くまで、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

この危機を乗り越えたのだという実感が、ゆっくりと湧き上がってくる。

そうして、私は自らを押し込んだクローゼットから、恐る恐る身を乗り出した。

当然、歯切れの良い靴音はもう聞こえない。

地下室にはもう誰もおらず、私の息遣いだけが聞こえる。

つまり、私は、まだ私自身の自由意思に基づいて行動ができるということだ。

私は安堵の溜息をついた。

ちょうど階段からバタバタと忙しい音がして、老婆が降りてきた。

「ごめんなさい。ここまで早く来るとは知らなかったんです。でも、よかった」

老婆がすこし息を荒げながら言った。かなり急いで来たようだ。

「そんなことありません。こちらこそご迷惑をおかけしました。それから、ありがとうございます」

「何を言っているんですか、当然でしょう?」

老婆は笑って言った。

リビングに行くと、好々爺はだいぶくつろいだ様子でソファに座り、なにか暖かい飲み物を飲んでいた。

たぶん、コーヒーか何かだ。

「もう行くつもりですかな?」

私は思わず苦笑いする。こうやって直に見ると、夢で見た老人とは別人に違いなかった。とはいえ、もうあの顔を思い出すことはできなかった。だから、そう感じただけだ。

「そんなに急かなくても良いでしょうに。彼らも今血眼になってここらを探していますよ」

老婆は眉のハの字にしながら言った。

「ええ。ですが、次はないでしょう」

私は、ポケットに挟まっているこの国の紙幣をいくつか渡した。

「こんなもの、もらえませんよ」

「そういうわけにはいきません。シャツの代金だと思ってください」

「そんな、お古のシャツでお金なんて……」

「じゃあ、貸しにしておきますから。きっと、返してくださいね」

老婆は暫く黙っていたが、ついにはそれを受け取った。

「お元気で。いつか、また会いましょう」

「ええ、いつか」

踵を返して、扉を開ける。

夜の世界へ一歩踏み出す。

ジブラルタルへ行かねばならない。

遠くでまだエンジンの音が聞こえる。

煙草を一本取り出した。

私は、落ち着きたい時はいつもこうしている。

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[良い点] こんばんは。 過不足なく、時として独りよがりともとれる戦闘描写。 故に容赦ない現実的な分析。 それを事細かに実況する主人公の判断力。 感動致しました。 未だ半分も読み進めることも出来ませ…
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