『ドングリ池の神様』
ぽちゃん。
可愛らしい音が早朝の森の中で静かに響く。水蒸気が立ち込める寒空の下で、その池の表面は靄がかかったように白一色に染まっていた。
「どうかどうか上手に歌えますように」
口にくわえていたドングリをひとつ投げたらしい。
白く染まった池の周囲。よくよく目を凝らしてみると、すっかり葉が抜け落ちた可哀想な枝に一羽の鳥が止まっている。願い事でもしているのか、綺麗な羽を擦り合わせ、まるで人間のように池に向かって何かをぶつぶつ呟いていた。
「いしし、まーたコマドリのやつ願い事してやがる」
呟きに起こされたのか、鳥を見つめる不穏な気配。そんなことは露知らず、コマドリはまたひとつ、どこからともなく取り出したドングリを池に投げ入れながら小さな願い事を唱えていた。
「どうかどうか上手に歌えますように」
「あーあー。われは池のカミである」
「ピッ!?」
思わず枝から飛び落ちそうになったコマドリは、おそるおそる池の表面を覗き込んだ。朝靄の立ち込める池の表面はまだ白く、声の主は確かめられそうになかった。
「あ、あああ池の神様ですか?」
「そうだ、われは池のカミだ」
いしし、と。どこかで聞いたような笑い声がそのあとに続いたが、噛み殺したようなその声はコマドリまでは届かない。
「ああ、池の神様。私のお願いをどうか叶えてくださいませ」
すっかり声の主を池の神だと信じ込んだコマドリは、またひとつドングリをぽちゃんと落としながら、上手に歌が歌えるようにとつぶやいた。
「おぬしの願い、しかと聞き届けた」
「本当ですか?」
「ためしにひとつ、歌ってみるがいい」
池の神様がそうおっしゃるのなら。コマドリは小さな咳ばらいをひとつして、ついでに佇まいも少し直して、朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そして朝の森に響き渡るほどの美しい声でその鳴き声を響かせる。
ここは逆さ虹の森
今日も変わらぬ朝が来る
誰もかれもがお寝坊さんね
森はとっくに起きているわ
さあさ、みんな朝が来た
夢の中はもうおしまい
優しい寝床にサヨナラ告げて
朝の挨拶交わしましょう
オハヨウ オハヨウ
ここは逆さ虹の森
「歌えたわ、私。間違えずに歌えたのね」
声が出たことに喜んだのか、コマドリは嬉しそうに羽を広げる。
「ありがとう、池の神様。早速、森のみんなに朝を告げにいってくるわ」
そういってコマドリは朝の歌を森に住む動物たちへ届けに行った。その後ろ姿を見つめながら「いしし」と、また聞きなれた笑い声がする。
「いしし、コマドリのやつまた騙されてやんの」
「まったく、毎朝毎朝ご苦労なことですね」
「あ、ヘビ。てめぇ、そのドングリはおいらのだぞ」
「池の神様はもう十分に召し上がられたではないですか」
くすくすと笑いながらドングリを口に運んでいくヘビの姿に、池の神様のふりをした可愛い姿が顔を覗かせる。
「ドングリはおいらの大好物なのに、全部食いやがったな」
「あなたもとても美味しそうですけどね」
ふわふわのフォルム。愛くるしい瞳。その口さえ閉ざしていれば愛玩動物として可愛いのにと、ヘビは残念そうに溜息をつく。それがどこか癇に障ったのか、ふわふわのしっぽを揺らしたリスが、ふんっと鼻を鳴らしながら全身をあらわした。
「おいらを食いやがったら、そのときは腹の中に絵を描いてやる」
「まあ、それは面白そう」
それより、と。ヘビはリスが何かを口にする前に、森中に響き渡るコマドリの歌声に耳を傾ける。
「毎朝、彼女の歌声で目覚める朝は心地いいものですね」
「ああ、あいつ。すっげぇうまいのに、毎朝毎朝ここにドングリを投げ入れるからな。おいらはドングリの音で目覚めちまうよ」
「毎朝ご苦労様です」
ヘビはペコリと形だけのお辞儀をして、またひとりクスクスと笑う。
「毎朝てめぇにおいらのドングリさえ食われなきゃ最高の朝だぜ」
そう言いながら、リスも美しい歌声で始まる森の朝に、どこか嬉しそうな声を滲ませていた。