馬車に揺られてPart.4
雲一つとして存在しない空だろうか。
濁りを一切許さない海だろうか。
明良の目の前に広がったのは、只々一面の蒼。
「……何処?」
目を開くと明良は、あの日と同じ学生服でこの場所に立っていた。
「私、何してるの」
何故ここにいるのか。
此処が何処なのか。
どういった経緯でこの場所に立っているのか。
とにかく、現在目の前で起きてしまっている状況の全てが分からない。
「笠原明良、享年十七歳」
「誰っ!?」
突然背後から聞こえた声に振り向くと、そこには蒼の中で木製の椅子に座り机の上の書類と向き合う一人の女性。
明良より一回り以上年上だろうが、とにかくその女性は美しかった。
今までに見た誰よりも美しく、そして神々しい。
「死因は事故死」
「ちょっと、何勝手に殺してくれて――――」
「私が勝手に殺したんじゃない、お前が勝手に死んだんだ」
「はぁ?」
すると女性は頬杖をついて大きな溜め息を零した。
「ここに来る客はいつだってそうだ、自分の死を受け入れられず自らが生きた世に深い執念を抱いている」
「客って、あんた誰なのよ」
「私は門番、異界の門番」
「いか……はぁ?」
頬杖をついたまま女性は淡々と喋るが、その言葉にも表情にも感情は微塵にもない。
「私の仕事は死んで尚、自らが生きた世にしがみ付こうとする愚かな地縛霊を解放すること」
「地縛霊って、私のことなの?」
「記憶にもあるのではないか」
「記憶、そういえば私、学校でお母さんにメール送って……それから……」
徐々に蘇ってくる記憶の断片。
そしてそれは、一つの真実を照らし出した。
「脇見運転のトラックが横から衝突、その事故は死者二名を出す事故となった」
「その二人の内の一人が私ってこと?」
「如何にも」
「そっか、私……死んだんだ」
じんわりと心の中に受け入れられていく事実。
完全に受け止めるだけの器は彼女の中にはなかったらしく、俯く瞳には涙が浮かんでいた。
「じゃあここは天国か何か?」
「見当違いも程々にしてほしい、お前達が定義する天国なんてものは存在しない」
「存在しない? じゃあ何処なの」
「ここは異界の門、私はその門番……さっきも言ったはずだ」
次から次に飛び出す理解の追いつかない言葉。遂に明良は首を傾げる。
「門? これから私はどうなるの?」
「まずは義務を果たす為、この場所とお前の処遇についての説明を順にしていく」
机の上に散らばった書類を片付け、女性はその冷ややかな瞳で明良を睨みつけた。
「お前は死後、お前の生きた世に対する強い執着からその地に縛られ続ける地縛霊となった」
「執着、なんとなく分かるよ。
まだお母さんからの返信来てなかったし……お母さんに面と向かって謝れてなかったし……。
私死んじゃって、お母さんどうしてるのかな? 悲しんでくれてるといいな」
ふと頭を過ぎったのは母とのことだった。
未だ母からの返事は届いていない。
今度は面と向かって謝りたかったし、細々とやってきた料理も見せてやりたかった。
「成仏、お前達人の子はそう称している行為を執行するのが我々の義務」
「成仏って、私そんな迷惑な地縛霊だった?」
「迷惑も迷惑、大迷惑。
中には三年から五年で自らその地を離れる奴らもいるが、お前があの地にいた期間は十年以上」
「十年!? 私が死んでから十年経ってるってこと!?」
「その期間の記憶が無いのは当然、霊体となっている間は人としての思考も全て失われる」
「でも私、あの日のままだし」
「霊体が老けたり着替えたりするか、少し考えれば分かるだろう」
無表情、無感情、故にその言葉は刺々しいものとなって明良の胸に刺さる。
「本来、魂というものは転生を繰り返すもの、しかし地縛霊となり特定の地にしがみ付くお前のような魂は転生を拒み、世界の摂理にとっては著しく迷惑な存在となる」
「……迷惑」
次から次へと出てくる自分を罵る言葉に明良は反論しようともしてみるが、流石にこれだけのことを一気に叩きつけられたのでは疲れて何も言い返せない。
「そこで我々は諦めの悪い地縛霊を元いた世界とは別の世界に転生させることで、世界全体の循環をより円滑なものにしている」
「元いた世界とは……別の世界……」
「世界の数は神の数、神がたった一人でないように世界もただ一つではない」
「別の世界って、どんな」
「私の説明はこれからお前の渡る世界の説明、そしてその次は転生にあたって要所要所の記憶を削り取る」
だが目の前の女は一向に説明を始める気配はなく、机の上で先ほど綺麗に並べた書類を今度は引き出しに詰め込んでいく。
明良は女の口から出てくるはずの説明を待ち、女は淡々と書類の整理を行う。
――――その間、およそ五分。
「あのっ! 説明は!?」
「私はこの後、彼氏との約束がある」
「はぁ? 彼氏?」
「約束は六時」
刹那、女の手の中に時計が現れ、針の方を明良へ向けて木製の机に叩きつけた。
アナログ時計の黒い針が示す時間は――、
「えーっと、五時十分」
五時十分。
六時まで残り五十分。
「……時間がない」
「知らないわよっ!」
一面蒼の空間に明良の怒号が響き渡る。
「私は門番、醜い地縛霊を異界へ誘う異界の門の番人……その役目はここまでだ」
時計が光の粉となって消えたかと思うと、今度は明良の目の前に本が現れた。
あまりにも唐突な出来事だったので、慌てて目の前の本を手に取ると、まずはその薄さに呆れる。
「薄っ! 何これ、パンフレット?」
「開け」
「はいはい」
女の言葉通り、薄い本を開くとそこには――――、
『異世界の楽しい歩き方』
という見出しに、
『ここは必見! 異世界のチェックポイント!』
なんて見出しもある。
『異世界のノウハウ』
『人気職業ランキング』
『食べ歩きガイド』
次から次にめくるページはそんな見出しばかり。
「観光案内っ!」
パンフレットを叩きつけて怒りを露わにする明良を前に、女はやはり眉一つ動かさなかった。
「説明はそれが補う、続いて記憶の消去は……やめた」
「やめたって」
「何処から何処までを消去しようが我々個人の勝手なら、消去をするかしないかというのも私の勝手だ、現に記憶を一切消さずして異界へ送り出された地縛霊も多くいる」
「まあ、消えない方がありがたいけど」
「これで私の役目は全て終わりだ、最後に一つだけ私からお前に助言をしてやろう」
「……助言?」
妙に上から目線で散々罵ったことに加え、ガサツな対応を見せる彼女のことだ。
どうせ助言どころか最後の悪口でも言ってくるに違いない。
そう明良は心の中で身構えていたのだが、女の艶やかな口から出てきたのは意外な言葉だった。
「お前があの地、あの世界に縛られ続けたのは何も母や家族のことだけではない、そんな理由でしがみ付く地縛霊など吐いて捨てるほど存在する」
「私が縛られ続けた理由?」
「お前にはもう一つだけ、強い感情があった」
「何よ、それ」
その時、女性は初めて口角を吊り上げて笑みを見せた。
――が、明良の意識の向く先は女性の顔でなく自らの足元。
「ちょっ! 何これ!」
蒼しかなかったはずの足元に現れたのは銀色の門。
このまま門が開けば明良は必ず落下してしまう。
「これから行く世界では、精々楽しんでくることだな」
「世界を……楽しむ……」
門の出現に動揺する最中、女から告げられたその一言が明良の心を鷲掴みにした。
「世界を楽しむ」。逆に言えば「世界を楽しんでいなかった」。
楽しくない、そう言うと嘘になってしまう。
だが、満喫していたかと言われると頷けない自分がいた。
自分を隠し、好きなことを好きと言えず、楽しいことを楽しいと言えない。
そんなストレスが心の中でずっと叫んでいた日々。
「時間だ」
冷たく放たれた女の一言と同時に足元の門は開き、明良の体と悲鳴は門の先に広がる闇へ飲み込まれていった。