1.「わたしは、主による約束の地に旅立つ」
その断末魔は、どこまで響き渡ったのだろう。あの山の、母の墓標まで届いていますようにと、わたくしは思っていた。
暗殺の定法としては、その口はあらかじめ塞いでおくべきだったのかもしれない。けれどわたくしはあえてそうせず、その絶叫にむしろ傾聴した。
扉の向こう、ずっと遠くから、ガシャガシャと鎧の鳴る音が聞こえてきた。
「あなたはいつも、寝所から衛兵を遠ざけておいているようね。まあ、女を呼び入れるにはなかなかの心遣いといえるでしょうね―――でも、その女が暗殺者かもしれない、とは考えなかったかしら」
わたくしは握ったままの剣の柄を引き抜いた。刃は男の心臓を貫通し、その向こうのベッドにまで深々と穴をうがっていた。
噴き上がる血飛沫が、わたくしのドレスを染め上げた。金糸銀糸で目に痛いほど豪勢に織り上げ、宝石だのレースだのと、無駄な装飾だらけの趣味の悪いドレスだ。
「まったく、この美的感覚の悪さが受け継がれなくて救われたわ」
最期に教えておこう。冥土の土産に。
「あなたの時代は終わりよ―――お父様」
ヴァンパイアの王の目が、最期の最後に驚愕に見開かれる。その目には、凄惨に嗤う女が映っていた。
それは、わたくしだった。
「さようなら、また会いましょうね。……今度は、地獄で」
わたくしは逆手に握り直した剣を、また、振りおろした。
***
わたくしのせいなのだわ。母はいつもそう言って、ほろほろと涙をこぼしていた。
山の中腹の、切り立った崖にわたしたち母娘の家は建っていて、母の寝室の窓からは郷のほぼすべてと、高くそびえる王城がよく見渡せた。
わたしを孕んだ頃から患っている病弱な母は、一日のほとんどをベッドの上で、王城を見ては泣きながら過ごしていた。笑ったことなど、一度でもあったかしら。
今日もまた、郷の一角に火の手があがる。燃え盛る業火。狂王による、いわれのない粛清の焔。
「わたくしのせいで、王は変わってしまった……」
最期まで、母はそう言って、萎れる花のように逝った。
そうしてわたしは―――いいえ、「わたくし」は、家を出て王城へ向かった。
***
―――二十年前。
黄昏のなか、今まさに一台の馬車が城門から出てゆこうとしていた。そこに、城から飛び出してきたひとりの男がすがりつき、その馬車を止めさせた。
「マリア、頼む、行かないでくれ」
男の呼びかけに、馬車の窓からひとりの美しい女性が顔を覗かせた。やつれて青ざめた顔を、それでも精一杯微笑ませて、マリアは馬車から手を伸ばして彼の手を取った。
「陛下、大丈夫。わたくしはきっと、この病を治して帰ってまいりますわ」
マリアは宥めるように、王の手の甲をさすった。
だが王は、「駄目だ」と何かに脅えているように青ざめて、首を振った。
「儂にはそなたが必要なのだ。そなたがいなければ儂は壊れてしまう。狂ってしまうぞ」
マリアに病があることが分かってから、王は何千何百回とそう繰り返してきた。
マリアはそれを、実家に療養に下がろうとする自分を引きとめるための脅し文句でしかないと思っていて、ほほ、と口元を隠して笑った。
「あなたほどにご立派なお方が、いかように狂うと申すのです?」
「しかし、マリア……」
「陛下。わたくしを想ってくださるのなら、わたくしの為にいつまでも待っていてくださいますでしょう?」
マリアの真紅の瞳に真っすぐ見つめられ、王の目が揺れ動いた。
ややあって王は、苦渋の色を浮かべてマリアの手を離し、馬車からも離れた。それを合図に、馬車はゆっくりと動きを再開する。
「ごきげんよう、愛しい陛下」
がた、ごと。馬車は城門を出て、通りを遠ざかっていく。その影が宵闇の向こうに閉ざされて見えなくなってもまだ、王はそこから動こうとしなかった。
誰が思えただろうか。
王の言葉が、まぎれもない真実であったことなど。
***
「―――いやッ! 餌には、餌になるのだけは許してください! お願いしますなんでもします! なんでもしますから! お願いだから離してッ、離してよぉ―――!」
必死の懇願も虚しく、その両腕をそれぞれ兵士に掴まれて、女性は扉の向こうへと引きずられていった。
重々しい音を立てて、扉が再び閉ざされる。
「ああ、神よ……神よ……」
暗澹の石牢の中には、老若男女問わず数多くの人間が閉じ込められていた。明日は我が身、救いなどありはしない。恐怖に竦みながら、ただひたすら闇の中で、十字架を握りしめ続ける日々だった。
石牢から出された女性は、そのちょうど真上にあたる、玉座の間へと連れて来られた。
「跪け。王の御前なるぞ」
「あっ」
兵士に脚を払われ、女性は倒れ込むように、真紅の絨毯の上に跪いた。それと共に、強く掴まれていた腕も解放され、兵士は後ろへ下がった。
これで逃げられる―――女性は希望に顔を上げた。
だがすぐに、それはかき消される。
女性の目の前には数段の階があり、豪奢な玉座があった。そしてそこには、一人の男が、ゆったりと頬杖をついて腰かけていた。
禍々しい真紅の満月を背に、にぃっと嗤った。それはさながら、絶対という概念が形をもった存在のようだった。
「……ヴァン、パイ、ア……」
女性は震える吐息で呟いた。逃げなければ。早く、逃げ出さなければ! けれど、腰が抜けて力が入らない。
「おお、今日の晩餐はなんと美味そうな」
月明かりが遮られる。
女性の瞬きのうちに、音もなく、男は眼前に立ち塞がっていた。
「あ……」
その一息が、女性の最後の吐息だった。
『新約聖書』民数記/ 10章 29節
モーセは、義兄に当たるミディアン人レウエルの子ホバブに言った。「わたしたちは、主が与えると約束してくださった場所に旅立ちます。一緒に行きましょう。わたしたちはあなたを幸せにします。主がイスラエルの幸せを約束しておられます。」