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時刻

作者: 森田 享

   時刻



 小高い丘の上。頂きの大地の一面に渡って、巨大な時計がある。

 上空から見ない限りは、その時計が円形であることが確認できないほどに大きな文字盤で、屋外にあるから、中心に柱でも立ててあって、巨大な日時計なのだろうと思うが、そうではない。

 ちょうど今、時計は真上から、灼熱の激しい光を放つ太陽と垂直に、まともに対峙していた。巨大な円形の一枚岩の文字盤は日光に白く照り映え、その文字盤の上で、見たこともないような巨大な長針と短針が、大きな時計の数字の上に濃い影を落としている。

その大きな文字盤の「6」の数字の下方に、鋼鉄の大きな皿のような仕掛けがある。その仕掛けがあることは、いま世界がここにあることと同じように自明の理なのである。

このことを私たちは、みんな知っている。疑問の余地は無い。それは、まず当然、知っているべきことなのだ。


 時計がある丘のすぐ下には、よく村々の中央にあるような広場がある。村祭りなどが行われる時に、その舞台となるような場所であって、そこでは、時計の仕掛けの皿に向かって一列に人々が並んでいる。一列と言っても蛇行しながら、数えきれない人々が雑多に、広場の外まで連なっていて、ほとんどただの群衆のようにも見える。

しかし、そこには秩序があり、皆しっかりと自分の順番が分かっているから、混乱したり破綻することなく、焼き付くような厳しい太陽の光を浴びながら、黙って並んで立っている。それは、乱れて散漫なようであって、自然に理路整然としている水の流れと、どこか似ている。

その長蛇の列の先頭の人が一人ずつ、大きな金槌を振り上げて、それを力いっぱい時計の鋼鉄の皿に打ち下ろしていく。カーンと重厚だが、甲高く澄んだ金属音が響き渡る。

 金槌を打ち下ろし人は、みんな黙って列の次の人に金槌を手渡したあと、使命を果たし終えて疲れ切った様子で広場から去っていく。

 次に先頭となった人が、大きな金槌を振り上げ、また鉄の皿へ目掛けて力いっぱいに打ち下ろす。カーンという金属音だけが、ほとんど無言の、影のような人々が集っている広場中に響き渡る。

 そして、その鉄皿が打たれる度に、巨大な時計の長針が少しだけ動く。

時が今、そこに集っている人々の手によって刻まれている。

そのようにして時が進んでおり、時空が形作られているのが私たちの世界だ、ということは子供でも理解している。みんな自らの手で、自分の打つべき順番が回ってきたら、時を打たねばならない。


 百年後の一刻は、私の手によって打たれなければならなかった。しかし私は、その私の一生の内で最も大事なときに、世界の時間の維持が懸かっているその瞬間に、遅れてしまった。私は、時を刻むための金槌を打ち下ろすのに、失敗したのだ――。


 その悪夢が訪れようとしているとき、私は時計の広場に早く来過ぎてしまった。

 それから百年もの間、自分の順番が回ってくるのを待っていたから、私は心底うんざりしていた。そして、まだ列の最後尾に近い辺りから、広場で順番を待っている人々の群れを眺めながら、さらにげんなりとした。仕方なしに私は、前の人に話しかけてみた。

「それにしても、あの時計は大き過ぎるし、横から見ていても全く時計としての意味がない代物ですね。鳥のように飛んで空からでも見ないかぎりは、時間が正確には分からないのだから、無意味な時計だ」

「そう言うけれど、でも、あの時計で、この世界の時が正確に刻まれているんだから仕方がないね」

 ――改めて考えてみると、そんな馬鹿な……。

 と私は思った。けれども誰もがみんな、そう言うのだから、やっぱりあの時計は必要なのだと考えるしかなかった。私もまた、しっかりと自分の使命を果たすべく、順番が回って来たら、この手で時を確実に刻まなければならない。その重圧が思わず私の口から洩れて、

「もし時を打ち損じてしまったら……」

「打ち損じる……君が? そうしたら時が止まってしまうじゃないか。君、もしそんなことになったらどうするつもりだ?」

「是非に及ばない。もしそうなってしまったら、すぐに私か、次の人が打ち直しするしかないでしょうね? 時刻は正確ではなくなるかも知れないが」

 と気軽に答えた私に、彼は真剣な顔で、

「時が止まってしまったら君、我々もみんな止まってしまうかも知れないよ。誰も動けず、再び時を打つことができないままになってしまったら? 止まった時を、また我々だけで再び進められると、どうして言いきれる。止まった時の中で、いったい誰が時計の仕掛けの鉄皿を打つことができる? 神でも降りて来て、『人間よ、もう二度と打ち損じてはいけないよ』と言って、止まった時の再開の一打を打ってくれるとでも言うのかい?」

「…………」

 私は返答に困り、人垣の向こうの、時計の鉄皿に視線を移してから言った。

「今までに、あの鉄皿の的を外して、打ち損じた人はいないのかな?」

「だから、そんな大失敗をした人は、いないに決まってるのさ。事実これまでに時が止まったことが君、一度でもあったかね?」

「しかし、そもそも時が止まっても、止まった時が再開されていたとしても、私たちには、それがおよそ分かりそうもないですね」

「まあ、とにかく、あんな女や子供でも、ちゃんとできていることを、成人した男の君が失敗すると言うのかい?」

と彼は、時を確実に打ち終わって広場を去って行く人々を顧みながら、

「自分の順番のとおりに金槌を振り下ろせば、あとは下手でも、響く音がひどくても何でも、鉄皿を外しさえしなければいいのだから君、こんな簡単なことはないよ」

「…………」

 私の頭の中には、緊張で手が滑って打ち損じてしまった自分の無様な姿が浮かんだ。信じられない、という思いと同時に、やっぱりこのような大失態を犯してしまうのは、多くの人間の中で私以外にはいなかった、という悔恨。茫然自失のままに、ただ自分の手元を見つめ続けているという悲惨な妄想だった。私は、他の人々のようには、なかなか楽観的には成れない人間なのだ。


 空には、熱で融けた鉄のような色をした太陽が、辺りを朱に染めて昇っては沈み、卵の黄身のような満月や、白い爪あとのような三日月が昇っては沈んでいった。時計の広場の列に並んで、自分の順番を待ち続けている私は、たしかに少しずつ列の先頭に近づいてはいるようだった。

それにしても遅い。遅すぎる。さらに百年くらいの間は、こうして並んでいただろうか。時計の鉄皿を打ち終わった人々は、列を離れ広場から去って行き、私の前の人数は確実に減っているはずである。しかし逆に、増えてもいるのではないか、と疑いたくなるほどに、その減り方は奇妙に遅いのだった。

 時を、自らの手で刻もうとしているのに、不思議と時間の感覚がまったく無いままに、それまで並んでいた年月も、また後どれくらいの月日で、自分の順番が回って来るのかも皆目、見当がつかないという状態だった。

ずっとただ、ぼんやりと先頭の人が金槌を振り下ろして、鉄皿を打つのを見続けてきた気がする。その、カーンという金属音の等間隔の連続を耳にしながら、あり得ないほどに自分の順番が回ってくるのが遅いことも、いつしか忘れ去っていた。砂時計の砂が、下へ流れて行って、上の砂が、どんどん減っていく速度と、時が過ぎることには、実際には何の関係もないのではないか、などと考えるようになった。これは全て夢なのか?


 ついに、自分の順番が間近に迫ってきたとき、不意に私は、みんなと同じ金槌ではなく、自分の使い慣れた金槌で時を打とうと決めていたことを思い出した。せっかく準備していたのに、その金槌を家に忘れて来たことを後悔し始めたのだ。思い切って私は列を離れて一旦、家へ帰ることにした。自分の順番が回ってくるまでには、あんなに時間が掛かったのだから、家へ金槌を取りに行って戻って来ても、遅れることはあるまい。絶対に間に合うはずだ、と私は思った。


 そんな訳で、私は自分の使命を果たすべきその時に、すっかり遅れてしまった。

自分の金槌を携えて、家から広場の列に戻って来てみると、大変な状況だった。

私の前に並んでいた男が、金槌を振り下ろしたところだったのだ。キーンという甲高い金属音に、私は全身の血潮が一瞬で沸き立ったかのように総毛立ち、事の重大さに動転した。惑乱しながら、大声を張り上げて人波を掻き分け掻き分け、やっと私は時計の鉄皿の前に辿り着いた。

初めて間近に仕掛けの鉄皿を見てみると、意外に大きく、これならば杵で臼の餅をつくよりも余程た易いので、その点だけは大いに安心した。

しかし今、打ち終わったばかりの男、私の前の順番だったその男が、金槌の頭を引き揚げて振り返り、その柄を後方に差し出すと、列の先頭の女が、その柄を受けて握り締めた。その女は、女性らしい厚みのある丸い腰を屈めてから、早くも金槌の頭を大きく振り上げてしまった。

「待て。次は私の番だ!」

 私は、金槌を大きく振り被っている女を押し退けて、自分の金槌を大きく振り上げた。

 群衆の間に、驚嘆のどよめきが広がっていく。

 私の頭上に高く振り上げられた金槌の頭が、空一面に、いつもよりも激しく白い閃光を放ち大きく輝いている日輪に重なった。その金槌の真っ黒い影は、私の眼下の鉄皿に張り付いたように落ちている。影になっている私の黒い顔の中で白眼だけが光り、確実に的を捉えている。あとは、ただ一撃を繰り出すだけだった。

私は、自らに課せられた使命を果たす安堵と充足感に浸りながら、すっと力を抜いた。あとは重力に身を任せて、この手の金槌を、天からの雷が空を貫くように、真っ直ぐ地上の鉄皿を目掛けて、ほんの少し力を入れるだけ。

 ――ここまできて、もし打ち損じたら。

 ふと、最後の懸念が浮かぶ。いや、落ち着け、外すはずがない。ここまでくれば、ただ金槌の頭を下に落とすだけだと勇気を奮い起した。それでも、手や指の先まで激しく脈動していて感覚が危うい。握った金槌の柄の木肌が汗で滑る。額や脇の下に一瞬で、じわっと冷や汗が吹き出た。緊張で下半身が震え、地を踏む足が、わなわなと浮いているようだった。血が昇った頭は、ぼうっと熱いだけで体の制御を完全に失っている。

 ――早く終わらせるしかない。

 私は、必死に力を込めた。もう緊張はとれない。硬直した体のまま、力の限りに金槌を鉄皿へ目掛けて叩きつけるしかないのだ。

「おまえの順番ではない!」

 その刹那、私は、そう聞いたかも知れない。

「おまえの順番は次だぞ!」

 そんな叫び声が聞こえたのかも知れない。

 既に放たれてしまった金槌は、鉄皿に向かって、唸りを上げ落ちていく。そして、私の手によって打たれた時計の鉄皿は、澄み切った高音の破裂音を残して、粉々に砕け散った。

 時は、私のせいで永久に止まってしまった。


「なんてことをするんだ!」

 最後の一瞬に私は、それだけは、たしかに聞いた――。



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