二百九十四話 ファーミリア・ラヴァレ・ヴァルマスク・ルグナドのヴァルマスク家
2021/03/30 22:24 修正
2024/03/05 1:35 修正
◇◆◇◆
普段、老獪な吸血鬼が、自室の椅子に座りながら机に両手を乱暴に突ける。漆黒の影が落ちたような表情を曇らせると、
いつもの彼ならば飄逸な笑みを浮かべ、千年の機転と蜜のような弁舌でいかなる窮地も軽やかに脱してみせたであろう。
しかし、現状は彼の老獪さを、まるで古き水晶の如く、完全に打ち砕いていた。
「ふざけるなっ!」
と、血の色を帯びた双眸が闇を切り裂く。
「古き掟を忠実に守る<従者長>たちが……六秘宝の一つを使いこなしているとはいえ、分派の<従者長>に、たかが、三百年程度生きた小娘如きにっ!」
咆哮と共に千年の怒りを込めた拳で机を激しく叩き割った。
その衝撃は、部屋全体を震わせ、壁に掛けられた古き肖像画さえも歪ませるほどであった。
彼の名はルンス・ラヴァレ・ヴァルマスク。
ファーミリアの<筆頭従者>の一人であり、高祖吸血鬼としての誇り高き血法院の重鎮、そして長老的存在である。
吸血鬼のファーミリア一族からは、敬意を込めてルンス卿と呼ばれている。
ルンスは、己が長年の<血魔力>を注ぎ込んで創造した眷族<従者長>ゴルド、ルイ、ナーガを失った。その屈辱は、彼の老獪な器量を遥かに超え、心の奥底に眠っていた獣性を呼び覚ますほどであった。
彼の目の前には、あたかも血の海が広がっているかのように怒りと憎悪が渦巻いていた。その顔は長年の苦労が刻み込まれた皺で更に深く彩られ、憤怒の色を濃くしていた。
高祖吸血鬼としての彼の誇りとプライドは、深く傷つけられた。
この屈辱は、他ならぬルンス自身の妄執が招いた結果であったが、彼はその事実に気づくことなく、禁忌のヴェロニカを追い求める狂気に囚われ続けていた。
これから開かれるであろう大長老会議で、この失態をどのように報告すべきか。そう考えただけで、ルンスの神経は逆撫でされるように苛立った。
ルンスの思考は、禁忌のヴェロニカだけでなく、得体の知れぬ槍使いへと向けられていた。
ルンスは、
禁忌のヴェロニカ、そして……あの槍使い。あの得体の知れぬ強さは一体何なのだ……?
と、自問自答し、深い苦悶の表情を浮かべた。
しかし、この失敗でわたしの立場は失墜した。
今回の失態で、私の立場は大きく揺らいだ。
不名誉は甘んじて受け入れるしかないだろう。アルナードやホフマンは、この機に乗じて私を徹底的に糾弾するに違いない。忌々しいが、会議の間は耐え忍ぶしかない。女帝は、普段は穏健だが、怒らせると手がつけられない。 しかし、必ずや私を弁護してくれるはずだ。会議が終われば、ルイの配下から有能な者を選び、新たな<従者長>として育て上げよう。そのためには、多大な血と魔力が必要となるが、湾岸都市テリアでの密やかな夜の狩りを楽しめば、すぐに取り戻せるだろう……
と、双眸を血色に染めながら考えていた。
◇◇◇◇
ここは千古神韻より静寂を広げる【血法院の大墳墓】。
王都グロムハイムの地下とも地下通路で繋がっている東南のハイム海と面した切り立った断崖が続く海岸線の地下にそれはあった。
黒き環から来訪した魔人千年帝国ハザーンよりも古い歴史を持つ吸血鬼帝国、ヴァルマスク家が存在する。
古代狼族、人族、十二支族たちとの永きに渡る争いにも人知れずに勝利を収めてきた吸血鬼集団。
そして、吸血神ルグナド神殿がある場所で、大長老会議が行われようとしていた。
「では、女帝、ファーミリア様、ヴァルマスク大長老会議を始めます、宜しいですか」
女帝と呼ばれた女性は、永劫の時を支配するかのように静かに頷いた。
彼女の頭上には、星々を閉じ込めたかのような白銀色のティアラが輝き、太陽の光を集めたような金色の長髪が幽玄な微風に揺れ、その超越的な美しさを際立たせていた。
細く優雅な柳眉は月の弧を描き、長く豊かな睫毛に縁取られた碧眼は深海の秘密を宿し、高く通った鼻梁は彫像のごとく完璧で、そして小さく形の良い唇は血の誓いを封じていた。彼女の雪のような白い肌の下には、青白い血管が透けて見え、永遠の生と死の狭間を漂う神秘的な美しさを物語っていた。
女帝と呼ばれずとも、女帝と分かる存在。
数千年を生きた吸血鬼でありながら世に稀な悪魔のごとき美しさを持つ。
永らく一緒に居る眷属たちの全員が、毎回の如くはっと心を奪われるのも仕方がないだろう。
それほどに完成された美。圧倒的に際立っていた。
彼女に仕える眷属たちは、その美しさに毎度のように息を呑む。それほどまでに、彼女の美は完成されており、圧倒的な存在感を放っていた。
その女帝の名はファーミリア・ラヴァレ・ヴァルマスク・ルグナド。
吸血神ルグナドの惑星セラ側の<筆頭従者長>の一人。
ファーミリアは吸血神ルグナドの<筆頭従者長>。
最も強くその恩恵を受けた女性であり、十二支族の始祖の一人でもあった。
<血道第二・開門>を一つ取っても、彼女は多岐にわたる系統のスキルを所有していた。
<血篭手>、<血剣>、<血槍>、<血鴉>、<血鳩>。
これらのスキルは、まるで複雑に枝分かれした樹木のように、多種多様な能力を彼女に与えていた。彼女の美貌は、人外の中でもトップクラスの実力と並び称されるものであった。
その女帝ファーミリアに向けて<筆頭従者>の男が
「……それでは報告します」
と声を発した。
<筆頭従者>の彼は海草に似た黒髪を持つ。
そして、端正な顔立ちだ。
名は、アルナード・ラヴァレ・ヴァルマスク。
そのアルナードから……。
王都グロムハイム、各都市、オセベリア王国、レフテン王国、サーマリア王国、ラドフォード帝国、セブンフォリア王国、群島国家、血の情報を含めた闇ギルドの情報が語られていく。
「……戦争に紛れた血の供給は順調です」
「近場で争いがあると、やはり比較的に楽ですわね。血銀行も数千年は持つでしょう」
血銀行とは、吸血神ルグナドの祝福が一つ。
血法院の大墳墓の地下広場に備えられた硝子で囲われた魔道具部屋のことだ。
その特殊な広大な部屋に新鮮な血の海が広がっている。
海に通じ、地下水脈にも通じている、吸血鬼たちが自由に使える血の保管庫、血の研究室でもあった。
しかし、この血の保管庫も問題がある。
ここから手に負えない怪物が生まれる可能性があるからだ。
ルグナドの神性、土地の魔力、迷宮と化せる魔力集まりが重なった所以でもある。
ファーミリア自身は、良い戦いの訓練になりますわね。
と、軽快な口調でその怪物と戦い毎回勝利を収めているが、<従者長>以下の下級吸血鬼たちにとって、血の海から誕生する怪物は恐怖でしかなかった。また底には、吸血神ルグナドの祠なども存在していたが……ファーミリア・ラヴァレ・ヴァルマスク・ルグナドでさえ手が付けられない状況が進行中でもあり、ファーミリアの悩みの種でもある。
「はい、しかし、ララーブイン山の血の実験場が錬金術師に潰されてしまいました……」
「あの古い施設はまだ稼働中でしたの? ホフマン、貴方はララーブインに詳しかったはず」
ファーミリアは<筆頭従者>のホフマンへ視線を向けた。
ホフマンは恭しく頷いてから口を動かす。
「ララーブインの施設は黒髪のマコトとその部下から襲撃を受けました。<従者長>トイズは無事です。戦いで血をかなり消費したようですが撃退に成功。相手が人族と侮ったようで逃げられたようです。更に、施設も破壊されてしまったので、現在は東のとある村へ血の実験場を移しました」
報告を聞いた女帝は奥歯を噛んだようにイラついた表情を浮かべると、碧眼の瞳を細める。
ホフマンは冷や汗を掻いた。
「そう……アルナード、続きを」
「……はい、依然として月の残骸はペルネーテの闇社会で最大勢力。総長の槍使いは姿を消すように突然に消える場合があり、行動パターンの把握は非常に難しいです。最後に、そのペルネーテで毎年開催される地下オークションの時期が迫ってきました」
「最後のそんな当たり前の事はもういいですわ、次の報告を頂戴、ルンス卿?」
つまらない答えね。と、考えたファーミリア。
彼女はアルナードから、同じ<筆頭従者>の顔に皺が多いルンスへ視線を移す。
「はい……」
ルンス卿は口を開く。
「分派、禁忌のヴェロニカの追撃に失敗。わたしの<従者長>三人と<従者>が多数殺されました……」
「ルンス卿、それは痛手ね……ですが、禁忌の側に前々から「槍使いと、黒猫」の存在が居ると教えていましたことよ?」
ファーミリアは睨みながら口調を強めてルンスを責める。
女帝が語るように、槍使いのことは知っている。
アルナードの<従者長>たちからの報告以外にも、実は本人が隠れながら観察を数回行っていたからだ。
当然それは、魔界の吸血神ルグナドにも情報として少しだけ伝わっている。
魔界の吸血神ルグナドも独自の血の支配を持つと呼ばれる槍使いに注目を始めていた。
覚えのない自らの血の支配を知らずに抜けた未知な槍使い。
興味、怒り、様々な葛藤を生み出した未知の感情を爆発させる。魔界の吸血神ルグナドは、欲望の王ザンスイン、恐王ノクターに喧嘩を仕掛けては、ヴァーミナとメリアディを嘲笑し、キュルハの根を切り取っては、それを破壊の王ラシーンズ・レビオダに投げつけて鬱憤を晴らしていた。
その結果、未知の植物系眷属を魔界の大地に誕生させることとなり、新たな信仰を魔界に生む切っ掛けとなる。
「……その通り、この、ルンス、最大の失策です……」
皺が多い表情を醜く歪めながら語るルンス卿。
普段、老獪な表情を持つ長老とは思えない。
悔しさがありありと表に出ていた。
「……言って下されば、わたしもお手伝いをしたのですが」
ルンス卿の隣に座る<筆頭従者>が語る。
彼はホフマン・ラヴァレ・ヴァルマスク。
スロトの代わりに<筆頭従者>になった吸血鬼だ。
彼はスロトの<従者長>たちサイファーとシンユィンを謀殺してのし上がった。
それはスロトを失った当時の中で一番力を持っていた証しでもあったため、選出されていた。
その事実は禁忌と蔑まれている<従者長>だったヴェロニカも知らない。
「闇ギルド三つ巴戦争の結果、混沌の槍使いの部下になった禁忌の情報は共有しているはず……ルンス卿は血迷われたか?」
海草に似た黒髪を持つアルナードが嘲笑しながら語る。
彼の背後に立つ<従者長>たちも当然に冷たい眼差しでルンス卿を眺めていた。
<従者長>フィゴラン。
<従者長>アーグ。
<従者長>エリーゼ。
この三人だ。
フィゴランとエリーゼは、ペルネーテで偵察活動を無事に行い成果を収めていた。
「……姿を消したと情報があったのだ。だから、襲撃の許可を出した」
ルンス卿の言葉を聞いたホフマン。
頬をぴくりと動かして、あまりに拙い言い訳に時局が悪い判断。
突然に、嘲笑するように目を細めながら、
「あの槍使いは独自の血の匂いを放つ者でありながら、光の勢力教会騎士を屠る強者、その未知な者と、我らヴァルマスク家を敵対関係に誘導するとは……」
ルンスを馬鹿にするように喋る。
「……我らは陰を歩く者だったからこその繁栄だということを忘れたようだな。ルンス卿」
ホフマンに続き、アルナードも辛辣な言葉をルンスへ続ける。
最近のルンスは掟に縛られすぎている。
時の流れに遅れた吸血鬼の宿命なのかもしれないが、掟に固執しすぎて増長し尊大な態度になっている事に気付いていない。
とアルナードは考えていた。
この機会を利用して徹底的にルンスを叩く算段だった。
「何も言うことはない」
ルンスはアルナードの叱責を受けて顔を醜く歪ませるが、すぐに冷静な顔を取り戻していた。
アルナードは女帝ファーミリアに顔を向ける。
「女帝、この失策と危険を齎したルンスをどういたしますか?」
「アルナード。もうきつく当たるのは止しなさい。ルンス卿もこれで学んだでしょう?」
ファーミリアは先ほど浮かべていた表情を一転させる。
春の海を感じさせる穏やかな表情。
花が咲いたような笑顔を作る。
しかし、美しい双眸は真っ赤に燃えて背中からは血色の魔力が噴出中。
ファーミリア・ラヴァレ・ヴァルマスク・ルグナドは女帝としての力を示す。
周囲の大気が震えるほどの濃厚な血の魔力。
そう<血魔力>だ。
実際の鮮血が、肩、頭から迸って見えるほどに、女帝の<血魔力>は強力だった。
「……はい」
ルンスは女帝ファーミリアに恐怖を感じながら返事を出す。
女帝を怒らせてしまった。
しかし、諦めんぞ。諦めんが……今は沈静の時間だ。幸い時間は無限、標的の禁忌も無限。
いずれはチャンスも来よう。
わたし自身も強さを極めて、力を蓄え<従者長>を再度揃えてからでも遅くはあるまいて。
数を揃えたところで、わたしも不退転の覚悟で自ら出向く。
禁忌、わたしに恥をかかせた槍使いを仕留めてやる。
ルンスは視線を鋭くさせながらそんなことを考えていた。
一方、真っ赤な双眸で涼しげに見つめていた女帝ファーミリアも懸案の槍使いについて思考していた。
勿論、女帝ファーミリアに、槍使いに対する敵対の意思はない。
ファーミリアの物事を穏便に進めようとする知恵の思考だ。
女帝ファーミリアは双眸を元の碧眼に戻した。
そして、長老会議の席を立ち、
「これで会議は終了よ」
と一方的に閉会の宣言を行う。
そのまま血の海を囲う硝子の壁に向かった。
硝子が魅せる部屋は特別、時間さえも凍り付いたような異界。
ファーミリアは血の保管庫の硝子のような壁に繊細な指先を当てて血の海を眺めていく。
生命の源である血の保管庫、永遠を約束する血の銀行。
その血の銀行の血の液体は穏やかに血の波が立ち、赤い月光の如く揺らめいていた。
ファーミリアは深淵の碧眼を鮮烈な血色に変えた。
すると、静かだった血の海が主人の呼びかけに応えるかのように獣のごとく暴れ出す。
荒波と化した血の波はファーミリアの中に入ろうとして硝子の壁へと押し寄せる。
咆哮するような荒波の血の海は硝子の壁を咬むように二度三度と硝子の壁と衝突していく。
弾けた血飛沫は血の霧となって消失。
硝子の壁は分厚いが血が衝突する度、空気の音が振動を起こす。
同時に女帝ファーミリア・ラヴァレ・ヴァルマスク・ルグナドの耳には虫の音として響いていた。
そのファーミリアは血の海を見ながら……。
光の勢力の教会騎士を退けた槍使いと、その重要なパートナーの黒猫は素晴らしいわ、彼、王都に来ないのかしら? 特にあの夜を感じさせる黒い瞳は間近で見たいのですけれど……無理かもしれないですわね。
ペルネーテは遠い、ベンラックの村に、古代狼族が棲む十二樹海に近いですから……本当、使い道のありそうな者を一本釣りにするには難易度が高いですわ。そして、ハルゼルマの放浪者を含めて樹海で飛び火する炎を一つ一つ消していくのは難しく……あらゆる意味でリスクが大きいですわ。
この間も、ペルネーテからの帰りに吸血鬼ハンターや古代狼族に見つかってしまいましたし。
と、槍使いに想いを募らせる。
HJノベルス様より「槍使いと、黒猫。1」書籍発売中。
現在20巻まで発売中。2021年4月19日に14巻が発売予定。
コミックス版1巻~3巻発売中。