第四篇 「小人のふるさと」
今日も、魔道図書館は平和そのもの。
それもこれも、アルビさまの厳重な管理体制の賜物であると、わたくしは信じておりますが、実際のところはどうなのでしょうな?
ですが、世界中がどこもかしこも、同じく平和というわけではありませぬご様子。
平和あるところに戦あり。戦の先に待つは平和。
どちらが先にできた言葉かは存じ上げませんが、戦争と平和は表裏一体の関係なのです。
卵と鶏、どちらが先に生まれたのか? という謎かけに、よく似ていますな。
今日、お越しになったお客さまは、己の平和のために戦いに赴こうとしている、勇敢な戦士さまでございます。
◆ ◆ ◆
アルビさまの筆談要求をお飲みになった戦士さま。なんとも美しい達筆でわたくしを彩ってくださいます。
『この場所には、先見の術を使える者が住まうと聞き、はるばる参らせていただいた。拙者はサブロウと申す者。遠い東の島国より、わが国の領土拡大合戦のため、遠征にやって来て、この近くに潜伏して候。
人知れずこっそり抜け出してきたため、拙者が敵地へと馳せ参じた件は、内密にお願い申す』
なんとも、不思議な文法で語られるお方です。
文字も、本来はわたくしたちの使用するものとは、全く異なるものを使用されておりますが、わたくしに宿る魔法の力で、アルビさまにも読める文体に翻訳させていただいております。
アルビさまのお書きになった文字も、サブロウさまに読みやすいよう、わたくしが変換させていただいております。お客様は、必ずしも同じ文明、慣習を持つ世界から来られるとは限りませんので。
こういう事態も想定された上で、NO TITLEは作られているのです。
『もちろん、秘密は厳守します。あなたが黙っていれば、誰もあなたが魔導図書館に来たなんて、知る由もないでしょう。
ところで、先見の術とは、予言でしょうか? たしかに、未来を見据えて人に道を示す所業が、私の趣味であり、仕事となっているわけですが。
あなたは、何をお知りになりたいのですか?』
『実は拙者、殿のご命令で、この戦に狩り出されたが、この土地の侍ども、やたらと身軽な格好はしているくせに、筒から矢よりも早い火の玉を飛ばしてきたり、鉄でできた馬に乗って、押し寄せてくる。
とにかく、予想していた以上に、強いのでござる。
今の戦況を考えると、逃げ腰になってしまっても至極当然。もちろん、我々、最後まで戦い抜く所存ではあるが、どうしても先行き不安や躊躇いは残ってしまう。
もし、この土地で命を落としてしまったら、と考えると、故郷に残してきた女房や子ども達が気懸かりでならぬ。
是非、教えて頂きたい。拙者、無事に祖国へ帰り、元通りの生活に戻れるのであろうか? ついでに言うならば、我が国は戦に勝利し、この地を制すことが出来るだろうか? お教え願いたい』
サブロウさまの祖国は、失礼ですが、あまり文明が発達しておられない様子です。
筒から出る火の玉とは、弾丸のことですな。
鉄でできた馬とは、戦車か何かのことでしょうか?
実に面白い表現でございます。自分の知りうる言葉だけで、新しいものを表現する。未知との遭遇には欠かせない、良いたとえですな。
『……戦いの勝利と、故郷への無事な帰還は、必ずしも同じ意味を持つとは限りません。こんな話を知っているのですが、よろしかったら予言の前に、ひとつお読みになってはみませんか?』
『よかろう。拙者、こう見えて意外と読書家でな。この土地の話も、読んでみたいと思っていたところでござるよ』
即、了承なさったサブロウさまのために、アルビさまはお話を綴られ始めました。
◆ ◆ ◆
高々と鳴り響く、角笛の咆哮。
空では眩しい太陽が、さんさんと地上を照らしていた。
血で所々錆び付いた銀色の鎧が、陽の光を反射させて、周囲は眩しかった。
その眩さに目を細めながらも、大勢の歓声が大空へと舞い上がる。
その日、永きにわたった戦争は、幕を閉じた。
領土拡大を図る大国によって吸収されそうになっていた小国。
領土や国民の数は少ないとはいえ、類稀なる策を講じる有能な軍師の活躍と、確実に成果の発揮できた訓練技術、腕術を誇る有能な兵士たち、そして彼らに先導された活発で精錬された兵士たちの功績により、見事、小国は大国を追い払い、平等な同盟を締結させるに至った。
小さな国は歓喜に沸いた。多くのものが抱き合って泣き叫び、兜鎧を脱ぎ捨てて踊り狂う。
その壮大な戦いに参加していた、一人の兵士も例外ではなかった。
兵士が出兵してから早一年。生き延びられた奇跡に、心から感謝した。
戦争後半には、長引いた不調や自国の劣勢的状況に見舞われていた。正直、故郷への帰還も、帰郷を待つ許婚との再会も、夢物語へと変わりそうな予感がしていた。
そんな庶民の不安も瞬く間に翻し、最後に見せた快進撃は見事なものだった。実際に勝利の瞬間を垣間見た時には、この素晴らしい戦いを一生忘れまいと思ったものだ。
だがそれも、一晩経てば全てが終わったのだという安堵と、帰郷への胸の高鳴りで、すぐに薄れた。
数日後。出兵していた全ての勇士たちに、指導者によって帰郷令が出された。
旅立ちを明日に控えた夜。兵士も胸を躍らせながら、同期に入団した戦友たちと共に、最後の祝杯を挙げていた。
「ようやく、田舎に帰れるな」
「ああ、胸を張って帰れるよ」
兵士は友に向かって、自身の胸板を叩いて見せた。
「お前の故郷は、ずっと山奥の小さな村だろう? 戦争が終わったことも知らないんじゃないか?」
「ひょっとしたら、敵の敗走兵たちに占拠されているかもな。国の管理が行き届かないところほど、穴場だ」
「おいおい、冗談きついぞ。これから陽気に帰ろうって時に、不吉な話をするな」
「悪い悪い。そう言えばお前、許婚がいるんだろう? 帰ったら、さぞ喜ぶだろうな」
「ああ、ようやく、自信を持って求婚できる」
「もう、新しい男でも見つけているのではないか?」
「だから、冗談きついって」
盛大に飲み、歌い、笑う。
宴は早朝まで続いた。
翌日、太陽も最大にまで昇りきったころ、兵士は他の仲間たちと荷物をまとめ、果てしない山の向こうに住む家族たちの元へと歩みを進めた。
分かれ道が目の前に立ち塞がるたびに、一人、また一人と仲間は道を違い、別れを告げて去って行く。もう二度と会わないだろう者達も、たくさんいた。それでも、いつかの再会を願って、握手と抱擁を交わし、笑顔で手を振り見送った。
一人別れ、また一人別れ。
いつしか、兵士は一人となり、淡々と故郷へ向かって歩みを続けた。
何日もかかる山越えは大変で、来た時よりも数倍、時間がかかっている気がした。足取りは決して重くはない。むしろ軽いくらいなのに。
だが特に気には留めなかった。きっと戦争続きで、身体がくたびれているから歩みが遅いのだろうと、自分自身に言い聞かせて、兵士は淡々と進んだ。
一人で黙々と歩いていると、今までに見てきた、体験してきたいろいろな出来事が思い出される。
生まれてこの方、一度も外へ出た経験のなかった兵士にとって、故郷はとても狭い世界だった。数件しかないが、しっかりとして頑丈な家は、どんなに強風や雨嵐に見舞われても、倒れもしないし雨漏りもない。住んでいる村人は十数人しかいないが、その分、ふれあいの密度は高く、村全体が家族みたいだった。
人口の倍以上はいる家畜たちも、よき遊び仲間であった。牛や山羊の放牧は、ほぼ毎日の日課だったし、家畜たちの面倒を見ている間は、ある程度、自由な時間だった。
歳の近い子供たちと、木の枝を振り回して剣士の真似事をしてみたり、夏に咲き乱れる花畑で眠ったり。
心地よかった。
いつしか大人になり、外への憧れが極限に達し、兵士勧誘の小軍隊が村を訪れた瞬間をきっかけに、村を飛び出した。
初めて村を去り、王都へ着いた時の感動と驚愕は、ひとしおだった。
小国とはいえ、村と比較すれば、その人の多さは半端なかった。同じ国内でも、いろんな格好や話し方も、価値観が人の数だけ存在し、各地から往来する人々も渡り鳥の群れ以上に多く、あまりの群衆に、町中を歩くと眩暈がしたほどだ。
何もかもが新鮮で、その感動に全てを忘れて、浸り込んでしまった時もあった。
戦いに備えての厳しい訓練。その辛さよりも、同年代の大勢の友人が共に励ましあい、共に語り、笑い、泣きあう光景が、何よりも嬉しかった。
この一年で多くを学び、兵士は大きく成長できた。
この短い期間のたくさんの思い出を、村人たちに語り尽くすには、一生かかっても無理ではないだろうか。
でもきっと、話さずにはいられないだろうし、村人たちだって、聞かずにはいられないだろう。
そんな愉快な気持ちが、腹の奥から笑いとなって、こみ上げてくる。
だが、頭の中で何度も繰り返し繰り返し、村人に話を聞かせる己の姿を思い浮かべていると、徐々に飽きがきて、兵士の頭の中では、もう別の未来が広がっていった。
帰郷を喜んでくれた許婚に求婚する己の姿。都会の垢抜けた娘たちと比べれば、地味で美人とはいえないが、村の中では一番可憐であり、小柄だがよく働き、何より優しい。
あの温かい笑顔が迎えてくれる我が家で、子どもにも恵まれ、毎日を幸せに暮らす。嫌な思い出はすべて忘れて、楽しく、豊かに。
そんな未来の自分像を思い描いては、また顔が綻ぶ。
あれこれと考えを巡らせ、帰郷の辛さと、その後の楽しみを交互に湧き上がらせながら、兵士はできる限り、旅路を急いだ。
長い時間をかけて、険しい山を越え谷を越え。
ついに、懐かしの故郷へ辿り着いた。
はずだったが……。
「どうなっているんだ!? なぜ、何もないんだ……?」
兵士は目を疑った。周囲を大きな山々に抱かれた、空気の綺麗な、広大な平原。
確かに、この場所には村があったはずだ。なのに、視界に映るものは、大きな岩や、青々と茂る、巨大な植物。家のあった形跡すら見当たらない、まるで、今までに誰も住んでいなかったのではと思えるほどの、未開の土地へと変貌を遂げていた。
家族も、家畜も、許婚も。
何もかも、なくなっていた。
兵士の知る生まれ故郷とは、程遠い場所となっていた。
「まさか、戦争のせいか……?こんな田舎の村にまで、戦火の被害が及んだのか?」
兵士は絶望し、地に膝をつく。村のためにと思い、皆の反対を押し切ってまで村を出て、命を懸けて戦ったのに、なんという仕打ちだろう。
仲間の言った通りになってしまった。いくら辺境の小さな村とはいえ、小国の領土には変わらない。敵の大国が目をつけないわけがなかったのか。
それにしたって、家の残骸も、人の亡骸も、何もかもなくなっているなんて、あんまりではないか。
一番守りたいものが守れなかった。こんなことなら、村に残って共に最期を送るべきだった。
村に残って戦い、最後の最後まで抵抗して、皆と同じ末路を辿ったほうが、幸せだったのだろうか。
後悔が、ますます兵士を泥沼にはめ込んでいった。
「あんた。こんなところで何をしてるんだい?」
誰かに声をかけられ、兵士は顔を上げた。
目の前には、不思議な格好をした男が立っていた。身体全体を覆う、赤茶色のローブ、手には杖を持っていて、頭をすっぽり覆ったフードが、鼻の下まで垂れて、口元しか見えない。
国の精鋭部隊に、こんな姿の者がいた気がする。たしか、魔法とかいう奇怪な技を用いて敵を倒す、特殊な者達であった。
彼らの活躍のお陰で、小国は優位に事を運べたわけだが、兵士たちみたいに肉弾戦を行う者達から見ると、胡散臭いし、自らの手を汚さずに功績だけを掻っ攫っていく卑怯なやつら、といった印象が濃く残り、あまり深く関わろうとはしなかった。魔法使いたちも、ただ防具を固めて野蛮な武器を振るい、猿でもできそうな突貫に命を懸ける兵士たちを見下し、馬鹿にしていた。だから、同じ小国の仲間同士にも拘らず、戦争中も、いざこざや言い合いが耐えなかった。
なので、連中については、何一つ分からない。
「何だ、魔法使い。こんな辺境の地にまで、俺を嘲りに来たのか?」
魔法使いに、八つ当たりをした。
魔法使いは、不思議そうに首を傾けた。
「何で、あんたを嘲る必要がある? あんたも、あの戦いを勝ち抜いてきた、勇敢な兵士だろうに。それとも、笑われても当然の存在なのかい? 戦いが恐くなって、逃げ出してきた負け犬なのかい?」
唯一見える、口の端を嫌味そうに吊り上げて笑う。魔法使いの態度に腹が立ち、兵士は立ち上がって怒鳴った。
「馬鹿にするな! おれはあの戦争を、最後の最後まで見届けた。……だが、そうだな、お前のいうとおり、逃げ戻っていたほうが、良かったのかもしれないな。もっと早く戻っていれば、この村の最期くらい、見届けられたかもしれない」
怒りの熱が冷めるに従って、惨めさと情けなさが勝ってきて、兵士は脱力して項垂れた。
通りすがりの魔法使いを責めたてたところで、村が元に戻るわけでもない。魔法使いに罪があるわけでもない。
何もかも、兵士が悪いのだ。戦争が、悪いのだ。
「まあ、そんなに悲観しなさんな。誰しも、一度に多くのものを得るなんて、出来ないんだよ。物質的にも、記憶的にもね。ところで、珍しいね、こんなド田舎からも、兵士は出てくるものなんだね」
「国民なんだ、当然の義務だろう。勧誘に来た騎士達は、無理にとはいわなかったが、俺にだって男の意地くらいある。いつまでも、こんな山奥で農民としてくすぶっていたくなかったしな。だから、俺は先の戦争に参加するため王都まで行き、戦いが終わったんで、戻ってきたんだ」
「なるほどね。で、この長閑そうな土地が、あんたの故郷だと」
魔法使いは、何もない周囲を見渡して「いい場所だねぇ」と、笑った。
「……ふざけるな、何がいいんだ。どこが長閑だ。ここは俺の生まれた故郷だったんだ。平和だけが取り得の、穏やかな村だった。なのに、戦でこんな荒れ果てた姿に……」
兵士は言葉を詰まらせ、涙を滴り落とした。
それを見た魔法使いは、頭に疑問符を浮かべる。
「何を言ってるんだい? 私の見る限りでは、この辺りは戦争が続こうと終わろうと、平和そのもの。大体、攻撃を受けたのなら、相応の戦いの跡が残るものだろう?」
確かに。戦火に焼かれたのならば、燃えたものの残骸が残るだろうし、家畜の骨の一本や二本、転がっていてもおかしくない。
なのに、この場所には本当に、何もない。まるで、初めから何も存在していなかったみたいに。
「じゃあ、村はどこへ行ったんだ、村のみんなは、家は、家畜や畑は!?」
「あんたは、何をしに都会へ飛び出して行ったんだ? 狭い田舎を離れて、広い世界に触れて見識を深めるためではないのかね。何も身についていないんじゃないかい? ほら見ろ、あの向こうに、家が建っているだろう」
「何だと!? ……家なんてないだろうが。からかわないでくれ」
魔法使いの指差す先には、巨大な木の柱が伸びていた。形の整った四角柱であったが、それ以外何も見えない。
人の手の加わったものである事は間違いない。だが、村にはあんな大きな建造物はなかった。
敵兵たちが造って行ったのだろうか。だとすれば、やっぱりこの辺りに、敵の侵略があったのだろう。
ますます、絶望的な気分に陥った。
「その上も、見てごらんよ。もう少し離れた方がいいかな」
魔法使いは兵士を引っ張って、謎の巨柱から遠ざけた。
視界が広がっていくと共に、柱が、何か大きなものを支えている、ほんの一部分であると、兵士は気付いた。
家だ。巨大な柱は、更に巨大な家を支えるための、支柱の一つに過ぎなかった。
「な、あれは家!? 何て大きな家なんだ。……いや待てよ、見覚えのある色と形だ……あ、あれは俺の家!」
兵士は目を擦った。だが何度見ても、目の前の、巨人でも住んでいそうな建物は、記憶に残っている、兵士が慣れ親しんだ我が家と同じ形だった。
「いったい、どうなっているんだ? なぜ、あんなに家が大きく……」
「お前さん、ひょっとして気付いてないのかい? 別に、家が大きくなったわけではない。あんたが小さくなったんだよ」
「何? どういう意味だ、説明しろ!」
兵士は魔法使いを睨みつけた。魔法使いはケケケと笑いながら、兵士を巨大な植物が繁る、密林の奥へ誘った。
密林が開けると、大きな広場に出た。
かつて兵士が戦いに赴いた広大な合戦場よりも、更に広い。
「そういえばあんた、さっき通ってきた場所に生えていたものが、ただの雑草だって知っていたかい?」
魔法使いが話を振ってきた。兵士は胡散臭く思い、睨み返す。
「雑草? あんな大きな雑草があるものか。いい加減、人をたぶらかす言動はやめろ。魔法使いなんて、もう共に戦う仲間でも何でもないんだ、この場で叩き切ってやってもいいんだぞ」
「おお、おお、恐いねぇ。別に構わないけれどね。お前さんが困るだけだろうから」
ケケケと、魔法使いは不気味に笑う。その真意が理解できず、我慢ならなくなった兵士は腰につけていた両刃の剣を抜き取る。正直、ほとんど使わなかったが、手入れは怠らなかった。切れ味は健在のはずだ。
「純粋だねえ。でも、前ばかり見ていると、ろくな目に遭わないよ。基本は下を見ること。お金とか落ちてるかもね。さらに、時には、上もチェックしないとね」
何かの挑発か。そう思って少し警戒していると、突然頭上に影が射した。驚いて上を見上げると、黒い、巨大な化け物が見下ろしていた。身体を覆う外角は黒光りをし、とても硬そうだ。胴体からたくさん生えた、節くれ立った触手は、硬い針みたいな突起物に覆われて、あれで触れられれば八つ裂きにされそうなほど鋭利そうだった。
「うっ、うわあああ! なんだ、こいつは!」
叫び、魔法使いに答を求めようとしたが、魔法使いはもう駆け出していた。
「そらそら、逃げるが勝ちさ! あんたも食われたくなきゃ、とっとと走るんだね!」
「まっ、待て、俺を置いていくな!」
兵士も慌てて、後を追った。
何とか化け物を撒き、息を切らしながら岩の影に隠れた。
「何だったんだ、今の奴は……」
こめかみから流れ、顎を伝う汗を拭いながら、兵士は底知れぬ恐怖と不安に駆られた。その様子を見て、魔法使いは大々的に笑った。
「いやー、お兄さん、リアクションが面白い! いくら現状を知らないとはいえ、そこまで盛り上がってくれると、私も楽しみ甲斐があるよ!」
「何を言っているんだ、お前、あいつが何か知ってるのか!?」
「もちろん知っているよ」
「何なんだ、教えろ。気になって夜も眠れん」
「でもねー、世の中には知らないほうがいいって話も、山ほどあるしねー。まあ、どうしてもっていうなら、教えてあげてもいいけれど」
「いいから、教えろ」
「教えてください、ね」
魔法使いの口調が変わった。兵士は一瞬、言葉に詰まる。
「言葉遣いには気をつけな。さっきの経験からも、充分に分かったろう? 今、この場で私を始末しても構わないが、もしあんた一人になって、さっきみたいな化け物に出くわして、助かる保障なんて、爪の先ほども無いんだよ。生きて故郷に、元の平穏な生活に戻りたいならさ、もうちっと利口になるべきだよね。そう思わないかい?」
「くっ……」
悔しい。しかし、魔法使いの言い分は尤もだった。何も知らない、こんな密林で一人生き抜いていくなんて、兵士には不可能だ。この魔法使いは慣れているのか、意外と平気そうに、ありえない事態に順応している。むしろ、危機的状況を楽しんでさえいた。
今は怒らせず、魔法使いに黙ってついて行くべきが、賢い選択だ。
「……お願いします。教えてください」
兵士は己のプライドを押し殺し、頭を下げた。しかも土下座だ。
魔法使いは機嫌を直し、うんうんと頷いていた。
「そんなに畏まらなくても。分かってくれればいいんだよ、共に戦火を潜り抜けてきた戦友でしょう? 仲良くやっていこうよ。
でね、君が知りたい、あの化け物の正体だけれど。あれは蟻だよ。蟻んこ」
「……お前、いい加減にしろよ! 人が下手に出ているからって、馬鹿にするのも大概にしろ! あんな大きな蟻がいるわけないだろうが、家くらいの大きさがあったぞ、あんな蟻がその辺に歩き回っていたら、人類はどうなる? もう滅亡の道を辿るしかないだろうが! 少なくとも、俺は生まれてこの方、あんな蟻に出くわした経験は一度もない!」
魔法使いの胸倉を掴み。顔を真っ赤にして怒る兵士。魔法使いは首を絞められながらも余裕の表情で、「まあまあ」、と兵士を宥める。
「落ち着きなさいって。世の中ってのはね、常識で測ってちゃ、きりがないの。そういうもんなの。さっきも言ったけれどさ、蟻とか草とかが大きくなったんじゃなくてね、あんたが小さくなったの。分かるかな?」
魔法使いの言い分がくだらなく思え、興醒めした兵士は魔法使いを解放する。だが憤りは治まる気配もなく、兵士はとにかく魔法使いを困らせてやろうと、疑問を連発してぶつけた。
「分かるか、そんなもん! 俺が小さくなったとは、どういう訳だ。現に、俺は目の前にいる、お前と同じ大きさをしているんだぞ。まさか、お前は小人だ、とでも言うのではないだろうな? 大体、さっき国を出て仲間と別れるまで、俺は普通の大きさの人間だったんだ、それが何で、村に着いた途端に小さくならなきゃならないんだ!」
「この世界には、不思議な出来事が溢れている。あんたは、なぜ戦に出たんだ?」
話をそらす魔法使い。腹が立つ。
文句の一つも言ってやりたかったが、話を早く進めるほうがいいと思い、返事をした。
「村を脅威から救うためだ。戦争さえなくなれば、村を脅かすものは、何もなくなるからな」
「果たして、どうかな? この村に戦争の被害があった例が、一度でもあったのか? 本当に村を脅かすものは、戦争なんて呼ばれるものだけなのか? さらにいわせてもらえば、お前の出兵を、この村の人々は、快く見送ってくれたのか?」
魔法使いの、まるで兵士の心中の不安を全て言葉に表したかに思える問い掛けに、兵士は唇を噛み締めた。
「この村は、どちらかというと、戦火より洪水や日照りに壊されそうなところだね。そういう自然の驚異から身を守るためには、男手が欠かせなかったのではないかな?
その貴重な労働者を、蚊帳の外の戦争だか何だかに持っていかれちゃあ、村人はいい迷惑だろうね」
「うるさい! 言われなくたって、分かってるんだよ!」
魔法使いに言いたい放題の図星を付かれ、兵士は耐えられずに怒鳴り声を上げた。
「そうさ、長老達も同じ意見を主張して、俺が戦争のために村を出るというと、反対した。でも俺は、戦場で戦って、功績を挙げて認めてもらい、村のために役立てる人間になりたかったんだ。だから、黙って村を出て……。戻ってきたら、ちゃんと謝って、村への貢献を頑張ろうと思っていたんだ。なのに、何でこんな訳の分からない事態になっているんだ!」
今までの不満、困惑、全てを吐き出してぶつけた。
不安定な今の気持ちを、誰でも良いから分かってもらいたかった。
魔法使いは、黙って兵士の言葉を聞いていた。同情するでもなく、淡々と話を受け入れていた。
やがて、何もかもを悟りきった口調で、語り始めた。
「あんた、忘れられたんだよ。この村の人たちや、今までに言葉を交わして来た、全ての人に。
人ってのはね、誰かに存在を認知されて、初めてこの世に存在していられるんだ。あんたがこんなに小さくなっちまった原因は、あんたの存在を認めてくれるものが、限りなく少なくなっちまったからなんだよ」
「そんなことが有り得るのか!? 忘れられたなんて、どうして……」
「人の想いって、大切なんだよ。だから人付き合いは慎重に、丁寧に行わないといけないんだね。あんたは、この村の人たちの大きな期待を裏切って外に出てきた。自分自身では、さほど気にしてはいなかったんだろう。戦争で勝ち星を挙げて帰ってくれば、今まで以上に認めてもらえると思っていたんだろう。
でも、それ以前の問題だよね。本当に村人たちに認めてもらいたかったのなら、村の発展のために、村に残って頑張るべきだった。選択する方向とタイミングを誤ったんだ。まあ、それも人生の一環なんだから、何を責めても意味がないけれどね」
「そんな……。せっかく戻ってきたっていうのに、皆、俺の存在を忘れてしまったのか? 今までだって、村のみんなとも、仲間の兵士たちとも、上手くやってこれたと思っていたのに……」
「時間が経てば、顔を合わさなくなった相手の記憶なんて、だんだん薄くなる。僅かな間、寝食戦を共にした、他人である戦友たちなんていうまでもないし、長らく会っていない故郷の人々だって、例外ではない。
ついでにいえば、君は村人の期待を裏切って逃走したんだから、尚のこと忘れられやすいよね。あいつはもう出て行ったんだ、死んだも同じだと、思い込めば思い込むほど、日々の生活に存在はかき消されて、過去のものとなっていく。結果、いてもいなくても一緒の人間になっていったのさ」
「…………」
兵士は膝をついた。己の思うが侭に行動しているうちに、自分自身の存在が、今まで出会ってきた人々にとって、価値がないほどに小さくなっていたなんて……。
絶望に喘ぎながらも、兵士はふと、魔法使いを見た。
「あんたも、俺と同じ大きさってことは、みんなに忘れられちまったのか?」
同じ境遇の仲間がいるだけでも、かなり心強いものだ。少しだけ、救われそうな気もした。
だが、魔法使いは無残に首を横に振る。ついでに肩もすくめる。
「いんや。私は趣味でね。俗世間を離れて、こういう狭い土地でも楽しめるスリリングを味わっているのさ。魔法を使うと、そんな遊びもできるんだよ。
そうだねえ。私も小人になれたらいい、と思った時は、たくさんあるよ。でも、都会には私のファンとか、私の存在を忘れたくても忘れられない人たちが、沢山いるからね、早々簡単に姿をくらませるなんて、できないんだよ。そういう意味では、そんなに簡単に人の心から消えて、小さくなれちまったあんたが、羨ましい」
周囲への影響力のない、影の薄い兵士を、魔法使いは馬鹿にしてくる。
「余計なお世話だ! でも待て、お前が簡単に小さくなれるなら、魔法を使えば、俺だって元の姿に戻れるのではないのか!?」
「とんでもない。あんた、自然に小さくなっちゃったんだから、元凶を取り除かない限り、元になんか戻れやしないよ」
冷たくあしらわれ、兵士はさらに肩を落とす。
絶望的な兵士を少し見かねて、魔法使いは肩に手を置き、言った。
「まあ、そんなに落ち込みなさんな。小さくとも、まだ、あんたはこの世界に存在できている。
少なくとも、一人くらいは、あんたの記憶を忘れずに、想ってくれている人がいるわけだよ。その人に気付いてもらえば、みんなにお前さんの存在を思い出してもらえるように手を貸してもらえれば、あるいは元の大きさに戻れるかもしれないよ?」
その言葉を聞くや否や、兵士は腰を上げ、駆け出した。
まさに俊足だ。
果てしない雑草の密林を駆け抜ける。
さっきみたいな巨大蟻にも遭遇した。
また別の場所では、巨大なダンゴムシやテントウムシが静かに営みを続けていた。その姿がとても大きな生命のうねりに感じられ、兵士は時折立ち止まり、息を飲む。
襲ってくる様子はないものの、今まで兵士が、自身の足や手で蹴散らしたり弄んだり、いとも容易く命を奪ってきた昆虫たちが、すぐ側で巨体を唸らせている。
その姿が恐くもあり、罪悪感に見舞われる瞬間もあり。
何より、羨ましかった。
こんな、生きていても何の役にも立たない、鬱陶しいだけの存在価値すら疑われそうな小さな生き物が、今となっては自分よりも大きいなんて。
奴らは、この世界で生きるために、必死で存在している。ただ、それだけ。それ以上の欲も不満も、何も持っていない。
比べて、俺はどうだ。無駄にあがいて、生きるために一番大切なものを見失って道を外れ、今となっては何の役にも立たない、不要な存在へと変わりつつある。
こんな惨めな俺を罵ってくれ、馬鹿だと笑ってくれ。忘れられるくらいなら、貶されるほうが、断然ましだ。
今のこの姿を見て、声を掛けてくれるものなんて、もう誰もいない。誰も、俺が存在しているなんて、気付いてもくれない。
ただ無駄に存在しているからといって、煩わしさを感じてくれる人さえ、いない。
なんて苦しいのだろう。
こんな状態になるまで気づかなかったなんて。もう、落ちるところまで落ちてしまった。
もう底は見えている。もう落ちる場所はないだろう。
ならば、もう一度、底から這い上がっていけるだろうか?
後は、よじ登るだけだ。
少しでも可能性がある限り、諦めなければ、きっと道は開ける。
兵士は、自分の家である巨大な建物の全貌が見える場所まで、戻ってきた。
普段なら少し歩くだけで辿り着ける場所が、果てしない地平線の彼方にある。
息を切らし、玄関のまでやってくると、誰かが腰掛けていた。
憂鬱そうに息をつく少女。
――兵士の許婚だ。
俯く表情はとても暗く、最後に会った時に比べると、幾分、やつれた感じもする。
きっと、兵士を心配して、思ってくれているのだ。ずっと忘れずに、待っていてくれていたのだ。きっと、兵士の存在が消えずに残っていられる理由は、少女の想いのお陰だ。
だから、俺はここにいられる。
兵士は嬉しかった。少女だけが、兵士の存在を引き止めてくれている。その事実に、とても救われた。
心が、とても温かく感じた。
少女の足元に近づき、大声で叫ぶ。
「おおい! 俺だ、今帰ったんだよ! みんなに知らせてくれないか。すぐに結婚式を挙げよう! 君を幸せにする。だから……」
許婚は反応しない。蟻んこ以下の大きさの兵士の声など、聞こえはしなかった。
すると遠くから、少女を呼ぶ騒音みたいな声が聞こえた。おそらく、彼女の親だろう。その声に返事をした少女の声が、衝撃波みたいに辺りを震わせ、兵士を襲う。
頭がガンガンして。兵士はよろめいた。
その瞬間。立ち上がり、歩き出した許婚の足の影が、兵士を覆い……。
「うわああああああああ!!」
グシャリ。
音にならない音を聞き届けた者は、魔法使いだけだった。
「すみません、お嬢さん。この村で、兵士として遠征なされた方がおられますね?」
元の大きさに戻った魔法使いは、兵士の許婚の少女に声をかけた。
「え、ええ……一人おりますが」
少女は不安そうな表情で、魔法使いを見つめる。
「実はその方、名誉の戦死を遂げましてな。死体も残っておりません。村全員で弔ってやってください」
「そ、そんな……」
唯一、兵士の生存を信じていた少女は、涙を流して悲しんだ。彼女によって、村人達の記憶が思い出され、骨さえも眠らぬ、見た目だけの墓が建てられた。
村人たちの中に、兵士の記憶が蘇っても、兵士はもう、元の大きさには戻れない――。
◆ ◆ ◆
『……なんとも、奇妙奇天烈摩訶不思議。変わった伝記のある国ですな』
サブロウさまは、とても感心なさっているご様子。ここまで熱心に読んでいただけますと、書く側のアルビさまも、書かれる側のわたくしも、嬉しいというものです。
『何が重要かと申し上げますと、戦争をして、勝ったとして、本当に喜ぶ者は誰なのか、というところなのです。
私が思うに、領土が広がって嬉しい人は、その殿さまとやらであって、あなたや、あなたの家族ではないのではありませんか? 最終的に何を得たいのか、残したいのか。それは時と場合、あなたの努力次第で変わってきます。今が大博打を打てる状態なのかどうかも、重要になってきます。確実な答えはなく、未来は誰にも分からない。
でも確実に迷いを払拭したければ、今を大事に生きる道を、私はお奨めします』
『確かに。だがしかし、拙者は御国のために命を懸けてでも、戦わねばならぬ使命を帯びておる身。その境遇に誇りを持つことこそが、我らの正義でござる。信念を踏み躙ってでも今を大事に生きるとなると、如何様な覚悟が必要か……』
『深く悩めば悩むだけ、あなたなりに納得のいく答はでるでしょうが、煮詰まっては、意味がない。
あなたにとって正しいと思える真実は何か。信念を貫き通せるならば、他のものは失っても良いと思えるほどの覚悟があるのか。大事な部分は、その辺りかと思いますけれど』
普段は飄々と、相手の考えを尊重なさいますが、今回のアルビさまは、少し押し気味ですな。それだけ、お客様が頑固な方向に優柔不断だという証拠でもありますが、やはりアルビさまなりに、多かれ少なかれ、押したい意図があるのかもしれません。
白黒はっきりつけるだけが、常に正しい決断ではありません。ですが、人間、時には必ず、決断しなければならない瞬間が訪れるのです。
いや、本のわたくしが熱く語っても、あまり説得力がありませんがな。
アルビさまの助言を、サブロウさまは今、一生懸命に噛みしめて、心の中でけじめをつけようとなさっていらっしゃるのでしょう。
『むむ、なるほど……。昔の拙者ならば、きっと妻子の命を花と散らせてでも、戦いに身を投じたでござろう。
だが、この地へ来て、先見殿の話を伺い、少し考えが変わり候。よし、拙者、村へ帰るでござる。戻って、妻子たちと幸せに畑でもいじりながら穏便に暮らすため、殿と話をつけてこよう。礼を申す。かたじけない』
迷いを振り切り、サブロウさまは去って行かれました。
数日後。
アルビさまは、サブロウさまが士道不届きにより打ち首になった件、さらにサブロウさまの国の軍が、敵の軍に大々的に破れ、壊滅した事実を教えてくださいました。
『この辺りの土地を好き勝手に侵略されたくなかったから、国に帰らせる方向で、ちょっと強引に説得しすぎたかな。でも、できるだけ自力で選択できるように配慮して、話は進めてみたつもりだったんだけど。
選択を誤らせてしまったみたいだ。何か、悪いことしちゃったな。
けれど、あの手の頭が固そうな人たちには、意外と何を助言しても、聞いてもらえないんだよね。サブロウさんだって、もし「この戦は負けますから退いてください」、なんて事実を教えたって、信用しなかっただろうし。むしろ、迷いを残したままムキになって、意地でも死地へ突っ走っていたかもね。そんな結果じゃ、僕らも後味が悪い』
『確かに、それを考えるとサブロウ様の選択は、迷いがなかった分、あながち理不尽ではなかったかもしれませんな。所詮は、たった一人の意見だけでは、大勢の人間の気持ちを変えるなんて不可能でございます。だから戦争が、いつでもどこでも、何度も繰り返されるのでしょう。一つ、勉強になりましたな』
『そうだね。そういう結果にしておこうか。これ以上考えても、埒が明かないし』
『ですが、サブロウさまはお堅いですが、独特の考えを持っていらっしゃるお方でしたな。あの思想は、いつまでも失っていただきたくない、貴重なものでございました』
『確かにね。あの頑固さと忠実さは、僕らには無い新種の宝だ。領土を広げなくてもいいから、その文化と誇りを周りに害されないように、あの人たちの国の中で、末永く貫いてもらいたいものだね』
アルビさまはそれだけ書いて、わたくしをお閉じになりました。
でもわたくしは、アルビさまも結構、頑固者だと思いますぞ。内緒ですがな。
弱くたって、強いものに敵わなくたって、自分が唯一守り抜ける正しき信念があれば、死んだって本望。
と思われる方が、世の中にどれくらいいらっしゃるのかなど、本であるわたくしに知る術は皆無ですが。
何の志もなく、何かに流されてただ生きているだけよりは、はるかに素晴らしい人生が送れるのではないか、とも思えるのです。
さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけをつくりに来てくださるのでしょうか?
皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。