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第三篇 「マイケルとチャッピー」

 わたくし、今日も真面目にNO TITLEとしての使命を果たすべく、アルビさまのお膝元におります。

 ところが今、わたくしの近くに、かなりの危機が迫っておるのであります。


 わたくしは、はっきり言ってしまえば本です。紙の束なのです。

 それ故、水や湿気にとても弱いのだと、容易に想像していただけますな?

 他にも、日焼けやシミなどの汚れ、破かれること、火の気を帯びたものも、弱点となります。

 更にいえば、それらの災害から逃げおおせるための手足がない不自由さが、最大の弱点となっているわけです。


 さらに、今まで挙げたもの以外で弱点となるもの。

 ――それは匂いでございます。

 一度、何らかの匂いがついてしまうと、落とす術がないのです。

 他の匂いで紛らす方法もあるでしょうが、強烈な匂いは、どうしても痕が残ってしまいます。もしくは、混ざって、さらなる悪臭を放つ原因にもなりかねませんしな。


 わたくしとしましては、立派に責務を果たし終えた暁には、兄たちみたいに、少し古ぼけた本が発する、独特の香りとやらに包まれてみたいのですが……。


 皆さまにとって、最も匂いのきついものとは、何でしょう?

 わたくしが存じるもの。それは、獣の匂いでございます。

 そのきつい体臭は粘り強く周囲のあらゆる物に染み込み、頑固に落ちない、と伺っております。

 可能であれば、一生、近付きたくない存在です。

 なのに。


 まことに恐ろしい話ですが。

 今、側にいるのです。奴が。



◆ ◆ ◆



『こんなところまで、ひとりできたのかい? なまえは? だれかといっしょじゃないの?』


 アルビさまは、いつも通りに受付の机の上にわたくしを置いて、お客さまを出迎えられました。

 簡単な文字だけで、丁寧にお尋ねになられたアルビさまに応えて、少し型崩れな、でも力強い文字が、わたくしに刻まれます。


『あたし、アルノ。みちにまよったの。おかあさんと、はぐれちゃった』

 今日のお客さまは、文字書きが苦手なのでしょうか。筆跡や内容から察するに、幼年の方かと思われます。

『まいごになったんだね。じゃあ、ぼくが、そとまでおくってあげるよ。……そのねこは、きみのペット?』


 わたくしは文字を疑いましたぞ。

 猫ですと!? 猫といえば、百獣の王ライオンと同じ習性をもつ、爪の鋭い生き物!

 もちろん、匂いもかなりしますし、抜けた毛がわたくしに挟まりでもしたら……。

 ああ、想像しただけで恐ろしい。


『さっき、ちかくでみつけたの。かわいいから、もってかえって、かうのよ』

 ならば、早く持って帰ってくだされ。わたくしは切に願いますぞ。

『このねこにも、おとうさんやおかあさんが、いるんじゃないのかな?』

『しらないわ。でもきっと、このこはひとりぼっちなのよ。だから、あたしときたほうが、しあわせなの』

『そう。じゃあ、きみに、こんなはなしをおしえてあげるよ』

 そう書いて、アルビさまは、ある物語をお書きになり始めました。

 わたくし、個人的には迅速に済ませていただきとうございますが……。



◆ ◆ ◆



 猫のマイケルは、妹のチャッピーとはぐれてしまいました。

 チャッピーは泣き虫です。一人きりになると、いつも泣いています。

 早く探さないと。お兄ちゃんとして、マイケルはチャッピーを放ってはおけません。

 森の中を彷徨っていると、泣き声が聞こえてきました。

 きっと、チャッピーです。


 もう心配ないよ。泣かないで、チャッピー。


 マイケルは、チャッピーに駆け寄って、そう言いたかったのですが、近づけませんでした。

 チャッピーは、人間たちに捕まっていたのです。

 チャッピーはニャーニャー泣きました。


 お兄ちゃん助けて。怖いよ、怖いよ。


 鳴き声を聞いて、人間たちはいいました。

「よく鳴く猫だな。おなかがすいてるのかな」

「一人ぼっちで淋しいのよ。うちにつれて帰りましょう。家の中なら、淋しくなんかないわ。私たちに出会えて、何てこの子は幸せなんでしょう」


 違うよ。チャッピーには家族がいる。僕がいるんだ。

 人間と暮らしたって、楽しい出来事は何一つないんだ。


 でも人間に、猫の言葉は通じません。

 人間は、自分たちの言葉に満足して、他の生き物の言葉を聞こうとしなくなったのです。

 猫の言葉が分からない人間に、チャッピーは連れて行かれてしまいました。

 チャッピーの匂いと泣き声を頼りに、マイケルは後をつけ、人間の住む家までやってきました。

 マイケルは、人間の家の中をよく知っていました。

 マイケルとチャッピーは、人間の家で生まれたのです。

 二匹のお母さんは、人間の家の飼い猫でした。

 マイケルとチャッピー、他の兄弟たちが生まれると、すぐに人間たちは仔猫をお母さんから引き離しました。

 世話をするのが大変だから、家に、たくさん猫はいらないのです。

 他の兄弟たちは、次々に別の家へと引き取られていきました。

 もらい手の見つからなかったマイケルとチャッピーは、森の中に捨てられました。

 そう、さっきまでいた森。今は、あの森が二匹のおうちなのです。

 マイケルは、家の窓から、中を覗きました。

 人間たちがくつろぐ暖炉の部屋。暖かいその部屋に、チャッピーがいました。

「さあ、ミルクよ。お飲みなさい」

 人間が、お皿に並々と注がれたミルクを持ってきました。

 チャッピーは震えながら、数回ぺチャぺチャとミルクを舐めました。

 でも、すぐに飲まなくなり、また泣き出しました。


 おいしくないよ。ひとりでご飯を食べても、おいしくないよ。

 お兄ちゃんと食べた、木の実やネズミのほうがおいしいよ。


「どうしたの? おなかがすいてるんじゃないの?」

「あまりうるさくすると、水の中へ放り込むぞ。猫は水が苦手だからなあ」

 人間の残酷な言葉に、マイケルは窓を割って部屋の中に飛び込みました。

 人間の手や顔をひっかき、チャッピーを咥えて、素早く逃げました。

「こら待て! 何をしやがる!」

 人間の怒鳴り声が、後ろで聞こえました。

 マイケルは必死に逃げます。捕まったら、殺されてしまう。

 逃げて逃げて逃げて……。

 森の奥深くにやってきました。ここまでくれば、人間も追ってはきません。


 お兄ちゃん、怖かったよ。

 もう心配ないよ。もう二度と、この森から、出てはいけないよ。また人間に捕まったら、間違いなく殺されてしまう。


 二匹は堅く約束して。森の中へと消えていきました。



◆ ◆ ◆



『ちがうわ! このねこさんたちは、ごかいしてるのよ。あたしは、このねこをいじめたりしないもの。たいせつに、そだててあげるのよ』

 お話を聞いたアルノさまは、怒っていらっしゃいました。

『ぼくたちが、かんがえているしあわせと、ねこたちが、かんがえているしあわせは、おなじとはかぎらないんだ。もし、きみが、ことばのつうじないだれかにつかまって、いえにかえりたいのに、ここでくらすのがいいと、かってにおもわれて、すまわされたら、きみはしあわせかい? いやだとおもうのなら、このねこも、はなしてあげるべきだ』

『ぜったいにいや! あたしは、このこをつれてかえるの!』

 少し強引になってきましたな。

 わたくしとしては、猫を遠ざけていただけるのなら、どちらでもよろしいですが。


『わかったよ。じゃあ、きみのおかあさんのところにいこう。きっと、しんぱいして、さがしているだろうから』

 アルビさまは、アルノさまを送って図書館の出入り口まで行かれた様子。これにてで、危機は去りましたな。

 ですが。


『アルビさま、わたくし、臭くはありませんか?』

 やっぱり心配になって、戻っていらしたアルビさまに尋ねました。

『はあ? 何を言い出すんだい?』

『わたくしに、猫の匂いが移ってはいないでしょうな? もし獣臭を纏っているならば、わたくしの理想の老後が……』

『何を、老け込んだ話をしているのさ。猫の匂いなんて、ほっとけば消えるよ。……今回はどうしても、他の生き物の自由の権利を、あの子に教えてあげたかったんだ。通じなかったけれどね』

『自由、でございますか。ですが、やはりこの世界に君臨する強者は人間。人間に従い生きる道こそ、他の生き物の義務なのではありませんかな?』

 わたくしも、こうしてアルビさまにお遣い申しております理由は、命を授けていただいたご恩や使命といった名目もありますが、自然の摂理だと思っているからです。

『へえ。じゃあもし、「このNO TITLEは火にあぶられたほうが幸せに違いない」と僕が判断すれば、君は大人しく炎の中に身を投じるんだね』

『そ、それとこれとは別ですぞ。そう、別の話でございます』

 アルビさまのお言葉に、わたくしも少し考えさせられてしまいましたな。


『でも、自分の欲求を満たすために誰かを犠牲にする行為と、自分を犠牲にして誰かの欲求を満たそうとする行為は、どちらが正しいのだろう?』

『きっと、人それぞれでございますな。世の中には、自分を犠牲にして、自分の欲求を満たすお方も、いらっしゃるとか』

『成程ね。もっと気楽に考えてもいいのかな』

『さようでございますな』


 とはアルビさまに言ったものの、やはり意志を持つものは、考える試練を放棄しては生きられないみたいでございます。

 その問いかけの答を、最も深刻に考えなければならない時が、すぐそこまで迫っておりました。


 その日の午後の出来事でございます。

 今日はお客様もめっきり来ず、わたくしはのんびりと昼下がりの卓上でくつろいでおりました。

 そこへアルビさまがやって来られ、静かにわたくしの身体を開き、文字を綴られました。


『NO TITLE。君には凶報になってしまうけれど、あの猫が戻ってきたよ。多分、あの女の子が戻しに来たんだろう。親に飼えない、とかいわれてね。

 他人には何をいわれても頑固一徹なのに、親にいわれたらさっさと諦めちゃうなんて、子供心ってのは、気紛れで良く分からないねぇ』

 呆れている場合ではありません、アルビさま。

 気付けば話が変わってしまっていましたが、その率直な冒頭に、わたくしは文字を疑いましたぞ。

『困りますぞアルビさま、獣が図書館の周りをうろついているなんて、とんでもない。早く追い出してください。もし毛が風で飛んで、図書館の中にでも入ってきたら……ああ、何と恐ろしい』

『僕の意思で追い出すなんてできないよ。来るもの拒まず、去るもの追わずが、この図書館の鉄則だからね。それに毛が風で飛んでくる心配は無いよ。猫は玄関に連れて入ってきたから』

 またしても言葉を疑う大事件。アルビさま、あなたという方は……。


『余計に困りますぞ。そんな暴挙が許されるとお思いですか? 館内を獣が好き勝手に闊歩するなど、由々しき事態。

 魔導図書館設立以来の大危機です。ああ、わたくしの代で、かような悲劇的状況に陥ってしまうとは。わたくし、兄たちに顔向けができません』

 きっと、この図書館に保管されている本の全てが動物を嫌悪しているに違いありません。

 獣が本の天敵である事実は、何人なんぴとにも覆せませんからな。


『別に君が責任を負う必要はないだろう? といっても、外は寒いから、こんな小さな猫をほったらかしておくわけにもいかないし、まさか僕が、新しい飼い主か親を探しに行くわけにもいかないよねえ?

 僕は別にいいんだけどね、そのまま宛てのない旅に出ちゃうかもしれないけど』

 なぜかその台詞には、妙に説得力があって困りますな。

 アルビさまのことです、一歩外へ出てしまったら、本当に戻ってこられなさそうなところが怖いのです。

 獣との共存を取るか、主人との今生の別れを取るか……。

 ううむ、究極の選択ですな。


 わたくしの身の安全を第一に考えるならば、猫をどこかへ連れ出してもらう方法が一番よろしいのです。

 ですが、そのお願いをアルビさまに叶えてもらうと、わたくしは、下手をすれば一生、NO TITLEのまま、誰にも触れられずに風化して、不名誉な生涯を終えてしまいそうでございます。

 かといって、猫と暮らせば、タイトルをいただくより先に、ボロボロに汚されて天に召されそうな気もします。

 ああ、困りましたな。わたくしはいったい、どうすればよろしいのでしょうか?


『……随分、悩んでるみたいだね、NO TITLE。今日は他にお客さんも来ないし、僕が君の悩み相談をしてあげようか?』

 親切そうに仰ってはくれますが、悩みを与えてくる張本人に救いの手を差し伸べられましても。

 とは、文字には出しませんがな、流石に。


『さっき、アルノちゃんにしてあげた話。実は続きがあるんだよ。それが結構、今の君の境遇に似ている気がするんだ。どうだろう?』

 ようするに、お客様がこられなくて暇なのでしょうな。

 わたくしとしては、暇つぶしに付き合っている、呑気な場合ではないのですが。


『よろしいでしょう、アルビさまのお考えもお聞きいたします。ですが、その後には、きっちりとけじめはつけていただきますぞ。あの猫について!』

『はいはい、分かったよ。じゃあ始めようか。楽しい物語のはじまりはじまりー』

 アルビさま、よっぽど退屈されていらっしゃったのでしょうか。



◆ ◆ ◆



 暗い、深い森の中。

 マイケルとチャッピーは、今日も仲良く、楽しく暮らしています。

 森の中には二匹を虐める人間がいません。

 食べ物もたくさんあります、何不自由することなく、生活していたのでした。

 そんな森の中へ、一匹の子犬が迷い込んで来ました。

 子犬はロナルドという名前で、人間に捨てられてこの森へやってきたそうです。


 僕たちと、おんなじだ。


 種族が違うけれど、境遇は同じ。マイケルとチャッピーは、ロナルドを歓迎しました。

 ロナルドは三匹の中で、一番ちびっ子です。マイケルは新しく出来た弟に大喜び。面倒を見るために大忙しです。

 でもチャッピーは、マイケルがロナルドばかり可愛がるので、つまらなく思っていました。


 ほら、ロナルド、ネズミを取ってきてあげたよ。木の実もあるよ、たくさんお食べ。

 お兄ちゃん、私のごはんは?

 ごめんよ、お兄ちゃんはロナルドの世話で精一杯なんだ。チャッピーは、もうお姉ちゃんになったんだ、自分でごはんを探せるよね?


 チャッピーの心は、重く沈みました。

 だけれど、辛い気持ちは誰にも伝わりません。我慢して、餌を探して食べました。

 捕まえたネズミを口に咥え、チャッピーは木に登りました。木の幹では、マイケルがロナルドに、ネズミを食べさせてあげています。

 その様子を見下ろしながら、チャッピーは一匹で寂しく、ネズミを食べました。

 何の味もしませんでした。


 次の日も、チャッピーは一人ぼっちで森の中を歩いていました。

 マイケルは相変わらず、ロナルドにつきっきりです。

 ロナルドはマイケルに甘えて、何もしようとしません。

 寝るか食べるか、はたまた寝るか。

 森に住むからには、それなりに掟というものがあります。

 食事をした後は、食べ物を与えてくれた森に感謝し、落ち葉を掃除したり、新しい木の実を植えたり。

 寝床になってくれている木々についた、汚れたコケを落としてあげたり、木を食べて枯らしてしまう害虫を駆除したり。

 マイケルとチャッピーは、もともと、この森の仲間ではありません。だから他の動物よりも、たくさんたくさん、森のために頑張りました。

 初めてここへ来た頃、今のロナルドよりも小さかったチャッピーも、マイケルの真似をして、一生懸命お手伝いをしました。

 なのにロナルドは、森の資源を使うばかりです。恩返しする気なんて、微塵もありません。


 ねえロナルド、森の食べ物をもらったのだから、その分、森に恩返しをしなきゃ。


 チャッピーは出来るだけ怒りたい気持ちを殺して、優しく話しかけました。

 ロナルドは目を細め、見下す視線で、チャッピーを横目に睨みつけました。


 そんなものは、やりたい奴だけがやればいいだろう? 前に僕が住んでいた家では、恩返しなんて、誰もしていなかった。

 ここは森の中なのよ、人間の家とは違うの。森で生活をさせてもらっているんだから、やるべきことはやらなくちゃ。でないと、いつかこの森から追い出されてしまうわ。

 ここで暮らしたい者に、そんな残酷な言葉を掛けるんだね。君はひどい猫だなあ。


 ロナルドはそこまで言って口を噤み、しばらく黙りました。

 その後、急に大声で泣き出しました。


 わおーん、わおーん。

 どしたんだい、ロナルド?


 チャッピーの後ろから、マイケルがやってきました。ロナルドはマイケルの姿に、気付いていたのです。


 お姉ちゃんがいじめるよう、この森から出て行けっていうよう。


 その言葉に、マイケルはとても怒りました。


 チャッピー、お前は何をいうんだ! ロナルドは僕たちの弟なんだぞ、なのにどうして?

 違うわお兄ちゃん、私はそんな意味で言ったんじゃ……。

 もうお前の顔なんて、見たくもない。あっちに行っていてくれ。


 チャッピーはショックを受けました。拒絶されたからではありません、マイケルが、チャッピーの言い分を、何一つ聞いてはくれなかったからです。

 実の妹のチャッピーよりも、ロナルドに味方しているからです。

 チャッピーはとぼとぼと、その場を去りました。

 背中から、ロナルドとマイケルの楽しそうな声が聞こえてきます。

 チャッピーは辛くて、逃げました。笑い声が聞こえなくなるほど、遠くまで来ました。

 森の奥でチャッピーは、滅多に食べられない、甘い苺を見つけました。

 いつもは偶然、一つ見つけると、マイケルと半分こして、一緒に食べていました。

 甘いね、おいしいね、と笑いあいながら。

 今日はその苺を、チャッピーは一人で食べました。


 あれ、甘くない。


 苺は、しょっぱい味がしました。

 苺を食べ始めてから、妙に顔が濡れます。


 雨でも降ってきたのかな。あれ、この雨もしょっぱいな。

 それに、何だか息苦しい。


 おいしい、大好きな苺のはずなのに、チャッピーの咽をうまく通ってくれません。

 結局半分しか食べられず、チャッピーは残してしまいました。

 

 数日たったある日。

 チャッピーは相変わらず一人ぼっちで、森の中を彷徨っていました。

 怒られて以来、マイケルにもロナルドにも会っていません。

 暗い森の中を歩いていると、とても怖い気がしました。

 マイケルと一緒だった頃は、とても明るくて綺麗で、楽しい場所だと思っていたのに、いまはお化けでも出てきそうです。

 ふらふらと歩いているうちに、チャッピーはいつもマイケルと一緒に遊んだ広場へ戻ってきていました。

 今、その場所にマイケルはいません。代わりに、子犬のロナルドがいました。

 チャッピーは見つかるまいと、慌てて茂みの中に隠れました。

 ロナルドは珍しく、昼寝も食事もしていませんでした。

 ひとりで、木に向かってじゃれています。

 その光景を見て、チャッピーは愕然としました。

 その木は、まだ芽が出て数年しかたっていない、小さな木なのです。マイケルとチャッピーは、ここへ来た時から、その木の成長を見守ってきました。大切な、森の友達です。

 その友達の皮を、ロナルドは笑いながら噛み千切っていたのです。

 枝は容易くへし折れ、ロナルドの牙でこま切りにされてしまい、もう見る影もありません。


 やめて! 木を傷つけないで!


 思わず、チャッピーは茂みから飛び出し、ロナルドを押し飛ばしました。

 小さく悲鳴を上げて地面を滑り、ロナルドは転がります。

 息を切らして、その様子を見つめるチャッピーを、蔑んだ目で見ました。

 今度は、チャッピーも負けてはいません。思いっきりロナルドを睨み返しました。

 やがて、ロナルドの表情は見る見る間に曇り、ついには大声で泣き出したのです。

 その声に慌てて、マイケルが飛んできました。


 どうしたんだい、ロナルド!


 尋ねますが、ロナルドが何かいう前に、辺りを見渡したマイケルは何かを悟ったようでした。


 木が、大切な木が……。チャッピー、いったい、どうしたんだ?


 悲しそうな瞳で、マイケルはチャッピーを見つめます。


 ロナルドがやったの。私は、止めようとして……。


 ひ弱な声で、チャッピーは必死に真実を訴えます。でも、マイケルの視線が胸を締め付け、やがて口が閉じてしまいました。

 その隙を突いて、ロナルドが大きな声を張り上げました。


 お姉ちゃんだよ、お姉ちゃんが木を滅茶苦茶にしちゃったんだ! 僕は止めようとしたんだよ、なのに邪魔だって、僕を押し飛ばしたんだ!

 嘘よ、嘘つき! あなたはお兄ちゃんを騙しているだけよ! どうして私にばかり意地悪するの? 私はお兄ちゃんと一緒にいたいだけなのに、どうして邪魔するの?

 ほら、お兄ちゃん。お姉ちゃんの本音が出たよ。お姉ちゃんはね、お兄ちゃんが僕にばかり構うから面白くなくて、影でずっと僕に嫌がらせをしていたんだ。お兄ちゃんの気を引きたくて、僕や木に八つ当たりをしたんだよ。最低だよね。


 ロナルドは笑っていました。チャッピーはもう、我慢の限界です。


 全部、あなたの仕業でしょう? 私に押し付けるなんて、最低よ。あなたなんて、さっさと森から出て行けばいいんだわ。早く出て行って!


 チャッピーが怒鳴ると、ロナルドは目に涙を溜めて身体を震わせました。

 二匹のやり取りを見ていたマイケルは、静かにいいました。


 僕にはもう、何が正しいのか分からないよ。でも、最近のチャッピーは変だ、どこかおかしくなってしまったのかもしれない。今のチャッピーは、森の秩序を乱す危険な存在だ。森が壊れてしまわないうちに、出て行ってくれないかな。

 そんな――。


 チャッピーは泣きました。泣きながら、駆け出しました。

 森の出口へ向けてまっすぐ、とにかく真っ直ぐ走りました。

 後ろで、ロナルドのものでしょう、大きな遠吠えが聞こえ、森中に響き渡りました。

 まるでチャッピーを馬鹿にしている鳴き声に聞こえました。チャッピーは遠吠えを振り切って、更にスピードを上げました。


 やがてチャッピーは、森の外に出ました。前に迷い出てから、一度も出ていない、まだまだ未知の、外の世界。

 でもそこは明るく、景色は綺麗で、青い空が清々しく感じました。

 薄暗い森の中で、一人ぼっちでいるより、何だかとても気分が楽です。


 森は追い出されたけれど、外でなら暮らせるかな。

 誰か、一緒に遊んでくれる人はいるかな。


 チャッピーは辺りを探検しました。

 ふと、茂みの中に丸いものを見つけました。

 丸いものが大好きなチャッピーは、目を凝らして、よく見てみました。

 小さな丸いものは黒くて、太陽の光で妖しく輝いていました。

 よく見ると、球体ではなく、細長い筒の形をして、茂みの奥から地面と並行に伸びていました。


 この棒は、いったい、なんだろう?

 

 チャッピーが歩み寄ろうとしたその時。

 ズギュン!

 突然筒の中から熱い、光るものが飛び出し、チャッピーにぶつかってきました。

 身体がカーッと熱くなり、頭が真っ白になりました。

 それ以上、何も考えられなくなり、チャッピーは目を閉じました。



 今の音は、鉄砲の音だ。


 銃声を聞いた覚えのあるマイケルは、慌てて音のした方へ向かいました。ロナルドも後をついてきます。


 ロナルド、危ないから森の中にいるんだ。

 僕は大丈夫。鼻が利くから、火薬の臭いもかぎ分けられるよ。……こっちだよお兄ちゃん、僕についてきて!


 ロナルドが先導して走ります。マイケルはその後に続いて走りました。

 やがて森を抜け、広い野原に出ました。

 目の前に広がる光景を目の当たりにし、マイケルは固まってしまいます。

 野原は赤く染まっていました。その真ん中には、小さな子猫が横たわっていたのです。


 ああ、チャッピー。どうしてチャッピーが、鉄砲の犠牲に……。


 チャッピーはピクリとも動きません。その側には、長い鉄砲を持った猟師が立っていました。

「ご苦労だったな、ロナルド。さあ、戻っておいで」

 猟師は笑顔でマイケルたちを見ています。隣にいたロナルドが、嬉しそうに猟師に向かって駆けていきました。

 マイケルは、何が何だか分かりません。


 いったい、どうなっているんだ、ロナルド?


 猟師に頭を撫でられ、幸せ一杯といった顔のロナルドは、マイケルを見下した目で見つめ、いいました。


 僕はこの人の飼い犬なのさ。最近、この森を荒らす野良猫が住み着いたって苦情があってね、君たちをおびき出すために、僕が中に入って、君たちを騙したのさ。まだ気付いてなかったのかい? お兄ちゃんは本当にお人よしだね、いや、お猫よし?


 ロナルドは嫌味っぽく笑います。マイケルは身体の震えが止まりませんでした。


 僕は、とんだ間違いを犯してしまったんだ。大切な妹の言葉を何一つ信じてやれずに、こんな嘘付きに騙されるなんて……。


 とても後悔しました。ですが、もう何も戻ってこないのです。

 楽しかった日常も、大切な家族も。

「さて、残るはこいつ一匹だな」

 猟師はマイケルに銃口を向けました。逃げる間もなく、引き金は、何の躊躇いもなく引かれました。


 バイバイ、お兄ちゃん。


 マイケルの頭の中で、ロナルドの声がずっと響いていました。



◆ ◆ ◆



 静かに、アルビさまは筆を置かれました。

 しばらくの沈黙の後、アルビさまはわたくしに、こんな疑問を投げかけます。

『優先順位っていうものは、どうやって決めればいいと思う? 人によって正しい事象や大切なものは様々だけれど、全ては手に入れられないんだ。そんな時、何を優先して手持ちにするか、その決断で、これから先の未来が大きく変わってくる。

 今の君なら、僕も猫もいる生活をとるか、僕も猫もいない生活をとるか。NO TITLEである君がどっちをとったほうが幸せかなんて、僕には分からないけどね』

『何とも難しいですな。選択を間違えれば何もかもが終わってしまう。うーむ、ダメです、やっぱりわたくしには決めかねません』

『頭が固いなあ、NO TITLEは』


『では、アルビさまならどうされます? 私たちとともに、一生この地でで閉鎖的に暮らすか、全てを捨てて外に飛び出すか。どちらを選択されますか?』

『僕はもし外へ出られるなら、君を連れて行って、世界の素晴らしさを書き記すよ。で、最終的にこの場所へ戻ってくる』

『な、なんと。何だか、ずるい答ではないですか?』

『本当に頭が固いなあ。答えは二択だけなんて、誰が決めたのさ。人生はテストとは違うんだ、模範ではない、全く違う答えを出したって、不正解にはならないさ』

 つまり、屁理屈ですかな?

 上手い具合に、アルビさまにしてやられましたな。


『ならば、わたくしの悩みにも、第三の選択があってもよいのですな。単純に考えれば、猫を追い出せばよいだけの話。全てが円満に解決いたします。さあ、アルビさま。是非、実行してくだされ』

『ああ、猫? あれ、嘘』

『嘘?』

『うん。本当は猫なんて、いないよ。当たり前だろう? 大事な書物がたくさんあるこの図書館に、本を汚したり破いたりするかもしれない動物を、僕が入れるわけがない。少し考えれば、分かると思うけれど。

 まだまだ精進が足りないよ、NO TITLE』


 なんと、どうやらわたくしは、騙されていたのですな。

 周囲の状況が素早く把握できないとこういう目に遭ってしまう。NO TITLEとしての、致命的な欠点です。改善の余地はありませんが。


『一本、取られましたな。ですが、なぜ、わたくしに嘘を?』

『うーん、暇だったからかな。君をからかってみると、意外と面白いかなって思ったんだよ』

 左様ですか。ならば、わたくしにも考えがございますぞ。


『わたくし、嘘付きのご主人様はいりません。旅に出て、新しい主を探しに行こうと思います』

『またまた。君一人で、どうやって移動するっていうんだい?』

『甘いですな、アルビさま。魔法とは常に進化を繰り返すもの。あなたの知らない間に、わたくしは刻々と力をつけ、実はもう、自分の意志で移動する力も会得しているのでございます。今までお世話になりました。今夜にでも出て行こうと思います』

『え、ちょ、ちょっと待ってよ。分かった、僕が悪かったよ。機嫌直して』

『そこまで仰るなら、承知いたしました。というより、わたくし、移動する力など持っておりませんから、どの道、無理ですが』

『…………』

『普通に考えれば分かりますぞ。アルビさまによって作られた書物であるわたくしが、作り主の予想を超える力を手にするなど、不可能に決まっています。まだまだ精進が足りませぬぞ、アルビさま』


 ふふ、言ってやりましたぞ。アルビさまに一矢報いてやりました。

 ですが、わたくしの返答に対して、アルビさまは、やたらと深刻になってしまわれて。


『……いいや、世の中、何があるか分からない。ひょっとしたら、君は僕の予想の範疇を超えて、知らない間に進化してしまったのかもしれない。

 きっとそうだ。だって普通のNO TITLEなら、僕にこんな口答えをするわけがないもの。大変だ、きっとこの本は、呪われているんだ。さっさと焼き払ってしまわないと』

『何と!? お待ちくだされ、ご勘弁ください。わたくしが悪うございました』

『ふん、僕に盾突こうなんて、一万年早いよ。NO TITLE』

 仰る通りですな。アルビさまはとことん、根に持つタイプらしいですから。

 今後は、アルビさまを怒らせぬよう、気をつけて過ごしましょう。


 さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけをつくりに来てくださるのでしょうか?

 皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。

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