第二篇 「兵隊のマーチ」
魔導図書館の周りは、いつも強い風が吹き荒れております。
その風は、図書館の本を無断で持ち出そうとする悪人を裁くために、アルビさまがお作りになられた、いわば結界。
ごく普通に訪れるだけならば、何の意味も持たない存在ですが、悪意を持って所蔵する本を盗もうとすれば、たちまち作動してその者を妨害しつつ、管理人にその旨を伝えます。
実は今現在、その結界に引っ掛かっている罪人がいらっしゃるのです。
罪人は厳重な結界をくぐりぬけ、図書館の外に逃げ出そうとしている模様。
なかなか肝の据わった、体力も根性もある略奪者です。
ですが、どれだけ頑張っても、外へは出られないでしょうな。
なんせ、相手がアルビさまですから。
外周を覆う、風の結界とは種類の違う風が、図書館の中に渦巻いている様子が感じとれます。
戦いは、一階のロビーで行われているにも拘らず、その震動や風が吹き抜けを通して二階にまで達し、その場にいないわたくしまでもが、吹き飛ばされそうでございます。
兄たちや、他の書物は大丈夫でしょうか?
罪人を成敗すべく、アルビさまが総攻撃を仕掛けていらっしゃるのです。
ここ最近は、退屈すぎてストレスを溜めておられましたから、その勢いは、普段に増して強烈でございますな。わたくしとの筆談会話も、愚痴が増えていたところですし。
ですが、アルビさま。
あまりお暴れになっては、この図書館ごと、吹き飛ばしかねませんぞ。
……かなり危険な状態までいった気がしますが。
ようやく、図書館もわたくしも無事なまま、ことなきを得ました。
二階にある、アルビさまの自室の卓上に無造作に置かれていたわたくしは、アルビさまが部屋へ戻ってきた気配を感じ取り、タイミングを合わせて自身の身体を開きました。
新しい白いページに、自らの意思を文字化して、お伝えします。
『アルビさま、随分とご派手にやられましたな』
アルビさまは、素早くお返事をお書きになりました。最近では珍しく、何とも軽快な筆捌きです。
『いやー、久しぶりに暴れたんで、気分爽快だよ。さすがに本気で、というわけにはいかなかったけど』
『当たり前でございます。アルビさまに本気で破壊活動をされては、魔導図書館が木っ端微塵になってしまいます』
『んー、悪くないかな。図書館がなくなれば、僕も管理人なんて、やる必要なくなるし。心置きなく、旅にでも出られるよ』
『何を仰いますか! わたくしたちを、ただの紙屑にしてまで、外に出たいと申されますか? ああ、嘆かわしい。わたくしは悲しいですぞ……』
『本気にしないでよ、冗談だから。その気があるなら、もうとっくに、こんなところ破壊して出て行っているだろうしね』
何だか楽しそうなアルビさま、でございます。
生まれてこのかた、外の世界へ出る機会がなかったアルビさまは、来訪されるお客さまの話や、図書館にある膨大な本から得られる想像でしか、世界をご存じないのです。
妄想を膨らませるあまり、ご自身の目で世界を見て、その壮大さを確かめたい、と思ってしまう心境も、理解できます。
ですが、世の中を知らずに一生を過ごす存在は、何もアルビさまだけではないのです。
わたくしなど、ご主人さまの顔すら、一度も見ていないのですぞ……。
『ところで、NO TITLE。僕はさっき暴走した際に、本を盗もうとした人を捕まえたんだ。自白させるから、君の身体を少し借りるよ』
正確には、本を盗もうした人を捕まえるために暴走した、ですがな。
アルビさまは、そうお書きになった後、わたくしを閉じて、そそくさと運び始めました。
辿りついた先は、いつも占い業を勤しんでおられる、一階のロビーにある、貸し出しカウンターの机の上です。
再びわたくしはページを開き、アルビさまの筆を受け止めます。
『さて、この図書館の書物は持ち出し禁止ですが、知った上で犯行に及んだのですか?』
アルビさまの問いかけに対する、犯人の弁論はありませんでした。
少なくとも、わたくしの身体の上でには。
『……すみませんが、私は言葉が話せません。筆記と音声では、会話にズレが生じますので、筆談を希望したいのですが……。え? ああ、そうですね。両腕を縛られていては、文字が書けませんね。失礼しました』
捕らえられた際に、身体の動きを封じられたせいで、お相手の方は口しか動かせなかったそうです。
アルビさまも、そそっかしいところがありますな。
侵入者の縄を解いているのでしょう。
少しばかり時間が経過した後、再びわたくしの上で、会話が始まりました。
『本当にすまなかった。私はドーラン。絵描きをしている。この魔導図書館なるところには、文字ばかりの本が大量にあると聞き、はるばるやってきたのだ。
最初は、こっそり忍び込んで中身を見るだけにしようと思っていたのだが、読み耽っているうちに、だんだん創作意欲が湧いてきてね。いても立ってもいられなくなり、自分の作業場に少々拝借しようと思い立ってしまったのだ。若き故の過ち。どうか許していただきたい』
たしかに、この魔導図書館の書物には、手に取るだけで精神をかく乱させて、人を魅了する魔力を秘めたものも、数多くあります。
ですが、このドーランさまは、どこか違う視点で、魅力を感じたご様子。
『少々ですか、これが。私にはかなり大量に見えますけどね。でも、絵を描く作業と、図書館の本を持ち出す悪業に、何の関係があるのですか?』
『君は、絵本というものを知っているかい?』
『いいえ。それはどう言ったものですか?』
『私は長年、絵を描く行為によって人に感動を伝え、その絵から連想できる物語を創造したいと考え、修行を積んできた。だが私の絵では、思い通りに私自身の意志を伝えられないと、気付いてしまったのだ。
もっともっと人々に伝えたい情熱があるのに、私の絵では全く伝わらない! その苦悩を、とある絵画評論家に相談したところ、「君の絵は芸術には向いていない。絵本でも描いてみてはどうかね?」といわれた。だから、私は絵本を描こうと、新たな修行の旅に出た。しかしどうだ、今まで絵の勉強しかしてこなかった私には、物語を書く技術がない! やむなく、誰かに頼んで書いてもらおうと思ったのだが、誰に頼んでも条件や注文が大量にあり、私の絵がうまく生かせないのだ。というわけで、流れに流れて、勝手に描いても大丈夫そうな、絵のない本が大量にあると噂の、この図書館へやってきたのだ』
『はあ。そうですか。で、結局、絵本って何ですか?』
いつの間にかご自身の人生について語り始めたドーランさまに、アルビさまは少し呆れ気味ですな。
ですが、ドーランさまの勢いは衰えず、増す一方でございます。
『これほど言っても分からんのか! つまり簡単に話すと、絵本とは文章と絵を融合させ、読み手に話の内容を容易に想像させる狙いを持つ、画期的な書物なのだ。主に、良い子が読む本として出版されているな』
『まあ、分かったような分からないような……。とにかく、ドーランさんは、その絵本にするための物語を探して、魔導図書館へやってきたのですね?』
『その通りだ。この際、ジャンルは問わん。この図書館にある本にぴったりな絵を、何でもいいから描かせてくれ』
なるほど。文章に絵を付けるという発想は、わたくしが存じ上げない、全く新しい書物の形ですな。
アルビさまも、ご存じなくて当然でしょう。この図書館には、絵の入った本など一冊もないのですから。
図形や魔法陣が描かれた書物ならありますが、また絵本とは異なるのでしょうな。
ですが、私個人の意見としては、話のイメージが人の絵によって固まってしまうと、それ以上の想像力が広がらず、文字を読む楽しみが減ってしまうのではと思うのですが……。
アルビさまは、悪くは思わなかったようです。
『面白そうですね。私も、絵で表現された物語というものを、ぜひ読んでみたいです』
『そうだろう、そうだろう! 私も、イメージの掴みやすい話をいくつか集めてみたんだが、この本なんか、どうかね?』
『でも、ここに保管されている本は、ほとんどが強い力を持った魔術書ですし、物語等に関しても著作権がありますから、私が独断で絵をつけてよいと許可できるのかどうか……。って、こ、この本を、どこで見つけてきたんですか!?』
『すぐ側の本棚に挟まっていたぞ。その慌てぶり……、もしや、この本に書かれている話は、君の書いた物語かね? ならば著作権を云々いう必要もないな!』
『ダメです! 僕が遊び半分で書いたものだから、人様に見せられる代物では……』
『なーに、読んでみたが、なかなかよい作品だったと思うぞ。どれどれ、私が音読してあげよう』
『や、やめてー!!』
筆談にも拘らず、この勢いあるやりとり。アルビさまは、かなり焦っておいでです。
自分の作品を誰かに読まれるなんて、ある程度の覚悟がないと、けっこう恥かしいものかもしれません。
アルビさまは覚悟のないお方らしく、その自作物語の存在の片鱗すら、わたくしに知られぬよう、隠し通していたくらいです。
でも、わたくしは、この図書館の中での出来事ならば、たとえ自力で把握できない内容であっても、大抵の知識は持っているのでございますよ。類まれなる情報網を味方につけていますから。
アルビさまは、お気付きにはなっていない様子ですがな。
あの話は確か、アルビさまが、まだこの図書館の管理人となられて間もない頃、暇つぶしに書かれたものである、と兄たちから伺っております。
それは童話仕立ての物語で、その頃のアルビさまの、心中の不安や緊張、複雑な願いや、強い想いが込められた作品なのだそうです。
NO TITLE同士の意志の疎通が容易にできると、私の知らない過去の話まで、手に取るように分かって、便利ですな。
ドーランさまはアルビさまから逃げ回りながら、遊び半分に音読をなされているみたいなので、どれ、わたくしは皆さまに、このお話をこっそり、教えて差し上げましょうか。
もちろん、アルビさまには内緒ですぞ。
◆ ◆ ◆
赤茶けた、レンガ造りの家が広がる街並み。
円形に設計された街の中央広場には、大きな噴水が一つ。
獅子をかたどった石像が大きく口を開き、中から清き水が流れ出る。
その弾ける水飛沫の冷たさと透明感が、老人は大好きだった。
老人は噴水の水受けに凭れ掛かり、いつも座っていた。
いつから座っているのか、分からないほどの長い時間、座り続けていた。
老人の周りを取り囲むものは、家具など、老人のたくさんの所有物たち。レンガの上に敷かれた絨毯の上に、陳列されていた。
街の人たちは、老人の物には見向きもせず、たまにちらりと横目に見て、通り過ぎて行く。その人たちを呼び止めるわけでもなく、老人は座り続けていた。
時折、老人の所有物に心を引かれて、商品を譲って欲しいと声をかける旅人が、稀にいるくらいだ。
その情景が、この街の日課。
ただ、その場にいる老人の存在が、当然の如く、風景に溶け込んでいた。
まるで、一枚の絵画みたいに。
今、老人の周りには、大きな壁掛時計、食器が数枚、そして、兵隊を想像させる、木でできた小さな人形が陳列されていた。
人形が身につけているものは、黒い長丸型の大きな帽子。金ボタンのついた赤と黒の制服に、肩からかけた、黄色のタスキ。
両肩には、瓶ビールの王冠で作られた、肩当てが付けられている。
肩や腕や膝は、関節が動かせる細工がされていて、自在に体勢を変えられた。
その手には、黒い鉄砲を、肩で支えて持っていた。
他の物は、みんな売られていった。老人の生きる糧となるため、代金と引き換えに。
たくさんいたはずの共に生きる仲間たちは、散り散りになってしまった。
売れ残りに囲まれて、すっかり侘しくなった老人の目の前に、一人の紳士が立ち止まった。
「おじいさん。素敵な人形を持っていますね。娘のお土産に丁度いい。売っていただけませんか? いくらです?」
老人は微動だにしない。死んでいるのではないかと、紳士が疑ったほどに。
だが、動かないまでも、老人は弱々しく口を開いた。
「すみません。この人形は、売り物ではないのです。大切な思い出の品ですから、値段がつけられないのです」
「値段がつけられない? それほどまでに値打ちのあるものなのですか。だが、私に買えない物はない。いくらでも出しましょう。人形を譲ってください」
紳士は必死だ。大富豪に、手に入れられないものは何もない。土地でも別荘でも、高級馬車でも。
逆に、手に入らないと分かると、何が何でも自分のものにしたくなる。
「こいつは、あなたが持っていても、何の価値もないものですじゃ。どうか、お引取りください」
老人は断固として、この人形を譲ろうとはしない。
埒が明かないと思い、紳士は舌打ちをし、一旦引き下がった。
ボーン ボーン。
大時計が時を告げる。夕日が噴水を真っ赤に染める時刻。
「おじいさん、お花はいりませんか?」
花売りの少女が、老人に話しかけた。
老人は顔を上げる。格好はみすぼらしいが、清楚で可愛らしい少女だった。
花がよく似合う。思わず顔が綻んでしまうくらいに。
「綺麗な花だ。一束もらおうか」
老人は銀貨を一枚渡し、花を一束受け取った。黄色い大きな花びらが五枚ついた花が際立つ、小さな花束だった。
「ありがとう。お花を買ってくれたお礼に、私もおじいさんの売り物を買いたいわ。今日、お給料が入ったの。そのお人形を頂けるかしら」
まだ年半ばもいかない、幼さの残る少女は目を輝かせ、微笑んで兵隊の人形を指差した。
「すまないね、お嬢ちゃん。こいつは、わしの思い出の品なんじゃ。値段がつけられない、大切なものなんじゃよ」
「そう……。私の安いお給料では、とても買えないものなのね。このお人形は、幸せものだわ。この子の中には、どれだけの素晴らしい思い出が詰まっているのかしら」
人形の頭を、少女はそっと撫でる。
少女を見ていると、今は亡き妻を思い出す。
老人の、石ころみたいに濁っていた瞳に、宝石にも似た光沢が蘇った。
「その人形はな、わしが作ったんじゃ。わしの妻が嫁に来た時、贈り物として渡した」
老人は前触れもなく話し始めた。
老人自身と、妻だった女性の話を。
「妻は、人形にマーチと名前をつけ、とても可愛がっていた。妻は体が弱く、わしらには子供ができんかったからね。代わりになるものとしては、丁度良かったのだろう。
だが、妻があまりにマーチを可愛がるものだから、近所に住んでいた金持ちの伯爵とその夫人が、マーチはとても高価なものではないかと目をつけ始めた。そして、わしが出稼ぎに出ている間に、伯爵たちは、わしの妻に詰め寄った。
彼女はもちろん、マーチを手放そうとはしなかった。大事な息子を金に換える母親が、何処にいる? 拒んだ末、無理矢理奪われ、取り返そうとして、殺された。
わしが戻った時には、妻の死体と、価値がないものと分かったのか、伯爵によって無造作に捨てられたマーチが、並んで横たわっていた。金を使い、事実をもみ消した伯爵たちを、罪には問えない。わしはどうすることもできずに、荷物をまとめて旅に出た。
マーチは唯一、生き残った、わしの家族じゃ。息子に、値段をつける父親が何処にいる? だから、売れないのだよ。すまないね」
一人で黙々と話していた老人が面を上げると、少女は温かな涙を流していた。
可哀想、と泣いてくれているのだ。
初めてだった。マーチを買いたいと言ってくる者はいくらでもいたが、売らない理由に興味を持ってくれた者、理由を聞いてくれて、さらに泣いてくれた者。
今まで、誰一人としていなかった。
「おお、マーチ。わしらのために泣いてくれる人がおるぞ。可哀想と同情してくれる、心優しい人がここにおるぞ。お前は幸せ者じゃ。やっと、素晴らしい居場所を手に入れられたのだから。お嬢さん、マーチを貰ってやってはくれませんか? 心優しいあなたになら、マーチを任せられる」
老人はマーチを差し出した。
涙を拭った少女は、頭を横に振る。
「私には、貰えません。この子や、おじいさんの苦しみを抱くには、私の腕の力は弱すぎます」
「いいや、あなたは素晴らしい心を持っておられる。もう後のない、わしの側で、心無い誰かに拾われる時を待つよりも、あなたみたいな人の側にいられたほうが、マーチにとって幸せではないだろうか。マーチの気持ちが分かればいいのだが、今は良いだろうと思う考えを持って、行動するしかないのじゃ」
老人は頭を下げた。少女は躊躇いながらも頷き、マーチを手に取った。
重い。
乾いた木の本体に、さほどの質量はないはずが、人形に込められた想いは、少女にはとても、ずっしりと感じた。
「ありがとう。マーチを、大切にしておくれ」
「私のほうこそ、ありがとう。……また明日、連れて来ます。きっと、マーチもおじいさんに会いたいだろうから」
少女は、薄暗がりの街角に、姿を消していった。
本当に幸運であったと、老人は思う。
今、この時、この場所で、あの少女に出会えて。
夜、街灯さえない照らさない、噴水のある広場。
照らしてくれる明かりは、月光だけだった。
「やあ、おじいさん。品物は売れていますか?」
昼間きた紳士は、再びこの場に舞い戻った。
「すみません。何度来ていただいても、人形はお売りできません」
老人は、速やかに応対した。
まるで、紳士がこの時、この場に来ると知っていたかのように。
「ええ。購入は諦めました。この通り、お金も持ち合わせていないのでね。代わりといっちゃあ何ですが、こんなものを用意させていただきました」
ガチャリと音を立て、冷たいものが老人の額に触れる。
「一発、金貨三十枚で買える鉛玉です。あなたには、この程度で充分だと判断しました。いや、これでも、もったいないくらいだ」
拳銃の引き金に指をかけ、紳士は笑う。
「大富豪の私に、手に入れられないものは何もない。土地でも別荘でも、高級車でも。ましてや、人の命でさえも」
「あの人形は、もうないよ。夕方、花売りの娘さんに譲ってしまった」
「私にも売れないほど大切で高価なものを、たかが貧乏娘にくれてやっただと? 何を考えているのか、分からないな。老いぼれて、頭がおかしくなったのではないか? まあいい。お前を始末した後、娘から奪えばいいだけだからな」
嫌な笑みを見せる紳士。
老人は、震える手に力を込め、側に積んであった食器を倒し、割った。
そのひとかけらを掴むが、紳士は気付かない。
「どうした、恐怖で身体もうまく動かせないのか?」
「わしは、こうなるだろうと分かっておった。あんたの、その金に目の眩んだ姿を見た時からな。あの伯爵と瓜二つだよ。まるで親子かと思えるほどだ。じゃが、瓜二つだったのは、あんただけではないよ。あの娘さんも、妻にそっくりじゃった。二度も、彼女を死なせるわけにはいかんのだよ。マーチのためにもな!」
老人は先の尖った割れた食器を、勢いよく紳士の胸に差し込んだ。
その衝動で、紳士の指は引き金を引く。
銃声が響き渡った。辺りの民家にも聞こえただろうが、それに反応するものは、誰一人としていなかった。
縦断を受け、老人は横たわる。霞んで見えるレンガの地面が、赤い液体に塗られていく様子が見えた。
頭の中に走馬灯が浮かび、静かに過去の記憶を投影する。
懐かしい、妻の笑顔を蘇らせる。
ああ、もうすぐ、お前のところへ逝けるよ。
大丈夫、マーチは、わしがいなくても平気だ。
大切にしてくれる人が、ちゃんと見つかったからね。
暗い夜。照らすは優しい月の光だけ。
月の晴れ舞台はやがて太陽に奪われ、何もなかったかの如く、朝が訪れた。
次の日、少女は再び噴水の前にやって来た。
兵隊のマーチを連れて。
頭に小さな穴を開けた老人に、出迎えられた。
動かない。
共に生きてきた、側に聳える大時計も、別れの時を悟ったのか、針の動きを止めていた。振り子も鳴らない。
食器は粉々に割れ、持ち物はみんな、老人と一緒に天国へと旅立った。
街の人たちは、密かに噂する。
――この街一番のお金持ちが、亡くなったらしいよ。
あの噴水の前のおじいさんが死んだのと、同じ頃らしい。
昨夜、銃声がしたって?
たとえしたとしても、誰が撃ったかなんて分からないんだから、考えるだけ無駄さ。
紳士の死体は、人知れず持ち去られていた。
いたか、いなかったかも分からない目撃者も、金に物をいわせて完璧に抹消され、事実を知る者は、この街には誰一人として存在しなかった。
だが、そんな事実は、誰も気にしていなかった。誰にとっても、どうでもよかった。
富豪が死んだ事実。
老いぼれが一人、死んだ事実。
結果だけあれば、歴史は流れる。
そのどちらも、少女にはどうにもできない運命だった。
身寄りのいない老人は教会に引き取られ、墓地の一角にひっそりと埋葬された。
葬儀の立会い者は、少女一人だけだ。
真っ白の墓石。「名も知らぬ老人よ、安らかに」と彫られていた。
墓前に、少女は花を供えた。
老人が綺麗だと買ってくれた、小さな黄色い花を、たくさん。
そしてマーチを、墓の前に立たせた。
最後のお別れをさせてあげるために。
少女は歩き出した。レンガの壁を横切り、街の外へ。
手に持つものはただ一つ、やけに重い兵隊の人形――。
◆ ◆ ◆
『おおう、トレビアーン! こんなにも絵にしやすい話が他にあるだろうか! 誰が何といおうと、私はこの話を絵本にするぞー! 素晴らしい絵本に仕上げて、世界中のたくさんの人々に読んでもらうのだ!』
ちょうど、あちらも音読が終わった様子です。
感動を声だけでは表しきれなかったのでしょう。ドーランさまは、わたくしの身体に思いの丈を殴り書き始めました。
興奮は嫌というほど伝わってきますが、少々乱暴ですな。
『アルビ君、と言ったな。恥ずかしがらなくていい、私が君の作品を、立派な絵本に仕立ててあげよう。なに、遠慮はいらない。ついでに、文句もいわせない。これは私の絵と共に、外に飛び出すべき本なのだー!』
『で、ですから、こんな話は、絵本にするには、向いてないと思うんです。絵本って、良い子が読むための本なんでしょう? こんな荒みきった話を、子どもに読ませられるわけないですよ!』
筆の進みが、いつもより遅うございます。
アルビさまは、少しお疲れのご様子。おそらく、ドーラン様の音読を阻止しようと、必死で走り回っていらっしゃったのでしょうな。
『その辺りは心配ない、私がちゃんと編集するから! 必ず良い本にして世に送り出す』
『ですが、本として世の中に出すのであれば、読ませる代わりに代金を請求するのでしょう?』
『まあ、私にも生活があるからね。多く売れるとありがたいが。もちろん、君は文章の原作者なのだから、売り上げの半分は間違いなく支払わせてもらうが』
『いえ、僕はお金なんて、要らないんです。ただ、いくらあなたの絵を加えるとはいえ、そんな僕の駄作に、お金を払ってまで読んでもらう価値があるのかどうか……。それに、多くの人の手に渡れば渡るほど、更に価値が落ちていくのではと思って……。
できれば、僕の胸のうちにだけ、しまっておきたい。特別な話でもあるんです』
初めてかもしれません。アルビさまがこんなにも、一生懸命に自己主張なさるなんて。
アルビさまの心からの訴え。ドーランさまは、どうお受け止めになってくださるのでしょうか?
『……この話を読めば、君が伝えたがっている特別な感情は、よく分かる。心配しなくてもいい。決して、悪い扱いはしないよ。私は本当に、この話が好きになったんだ。だからどうしても、君の強い気持ちがこもった物語を、多くの人に読んでもらいたい。
お願いだ、どうか、この本を、私に預けてくれ!』
アルビさまのお気持ち、ドーランさまにも伝わっていましたな。理解した上で、ドーランさまはさらに、お願いを続けられます。
ドーランさまの必死の説得に、渋々ながらも、アルビさまは応じられました。
『分かりました。あなたに、その本を差し上げます。でも、条件があります。いくら昔に書いた駄作であっても、その時の僕の気持ちが浮き彫りになっている、いわば僕の心境を描いた、大事な話なんです。
生活費は必要でしょうから、値段をつけて売っていただいても構いませんが、どうか、お金儲け目当てに、大量に増やしてばら撒く真似だけは、しないで欲しい』
『もちろんだ。こんなに君の想いが詰め込まれた話を、くだらん商売道具にしようものなら、バチが当たってしまう。絵本は芸術なんだ。価値を認めてくれる人にこそ、渡す価値がある。
完成したら、一番に君のところへ持ってこよう。約束する』
それだけ書き込んで、ドーランさまはお帰りになられました。
嵐が去った後の如く、魔導図書館には再び、今までと同じ静寂が訪れました。
少し、淋しいくらいです。
それにしても今日は、アルビさまにとって本当にいろんな出来事があった日でしたな。
アルビさま自身も、こんなに騒ぎ立てた日は、生まれて初めてではないでしょうか。もちろん、騒ぐといってもアルビさまは言葉が話せませんから、わたくしの上で、ですが。
派手で賑やかな筆談もまた、わたくし的には新鮮な経験でした。本に関わる物事が、必ずしも静かで落ち着いたものだけではないのだと、学ばせていただきましたから。
アルビさまの気持ちを察してくださる斬新な方が、泥棒とはいえ来客であって、わたくしは嬉しいですぞ。
多くの来訪者は『占い師』であるアルビさまを頼ってやってこられますから、それ以上の関係を築く機会は、ほとんどございません。
アルビさま自身が望んだ形式なのですから、不満はないでしょう。それでも、やはり時には、ああ言った、深く関わりを持てる方が迷い込んでこられても、新鮮でよろしゅうございます。
わたくしも、このアルビさまの書かれた作品を改めて見直してみて、アルビさまの心の底にある強い想いが、今も昔も変わっていないのだと、学ばせていただきました。
わたくしの兄の身体の一部分に書かれていた、幼い頃のアルビさまの日記でございます。
△月×日 天気 タヌキ30ぴき。
きょうは ちちうえの でしである けんじゃさまが あそびにきてくれた。
あたらしく はっけんされた こうかな あいてむを くれた。
でも こんなものは なんのやくにもたたない。
かちがなくてもいいから ひとつだけでいいから たいせつなものがほしい。
と書かれておりました。
この情報をわたくしが教えたことは、アルビさまには内緒ですぞ。
お金を払うまでもない、くだらないもの。
他人にはそう見えても、自分にとってそれが宝物なら、充分価値のあるものとなるのですな。その逆もまた、然りでございます。
ものに価値を定める行為は、時として、とても難しい判断を迫られるものです。
アルビさまは、きっとずっと、たった一つの、アルビさまだけに価値が見出せる宝物を、探し続けているのかもしれません。この先も、この限られた空間で、探し続けるのでしょう。
長い、密室の旅路でございます。
◆ ◆ ◆
あれから、一週間が経ちました。
『やあ、久しぶり。元気にしていたかい? 絵本が完成したから、第一号を君に持ってきたぞ』
軽快にやって来られたドーランさまは、馴れた手つきで受付に広げられていたわたくしに喜びの知らせをお書きになりました。
その後、アルビさまに絵本をお渡しになった模様です。
『この本は、私が旅をして回って、本当にこの話を読みたいと言ってくれる人にだけ、売って行こうと思うのだが、君はどう思う? せっかく作ったのだから、やはり作品の価値を認めてくれる人には、進んで読んでもらうべきだと思うのだが』
『まずは、完成品を読ませていただいてから、考えさせてください』
『分かった。朝まで待とう。すまないが、宿を提供してもらえるかな? 夜風を防げるところなら、どこでもいい』
『来客用の寝室はないのですが、この図書館の中なら、どこで寝てくださってもかまいません。でも、本を枕にして寝ないでくださいね。悪夢を見ますよ』
『ああ、気をつけよう』
今日はお仕事を休止されて、わたくしを連れたアルビさまは自室に戻り、早速、絵本を読み始められました。
絵本とは、やはり絵が入っている分だけ、読み易いのでしょうか。内容は薄くならないのでしょうか? 物語を絵で表現すると、何がどう変わるのでしょう?
わたくしには一生かかってもお目にかかれない新種の仲間です。その興味も関心も、尽きそうにありません。
新しいものに対する出会いへの期待感と、絵付きの本は受け容れ難いと思う抵抗感が、わたくしの中でぶつかり合っておりました。やはり、後者のほうが大きいですがな。
本なりに、色々と考えを巡らせていると、アルビさまが絵本を読んでいる時間も、あっという間でした。
わたくしを開いたアルビさまから、読み終わった、と報告が書き込まれました。
『いかがでしたか? 満足のいく仕上がりでございましたか?』
わたくしの好奇心溢れる問いかけに、軽いペン捌きで、アルビさまはお答えくださいました。
その文字からは、とめどない興奮と感動が、インクと一緒に滲み出ております。
『素晴らしいよ。僕が書いた話とは思えない。何て言うんだろう。ドーランさんの描いた挿絵がとても綺麗で、暖かくて。何の見栄えもない話なのに、絵がついただけで、とても感動的な話に思えてくるんだ。挿絵の力って、すごいんだな』
『よろしゅうございましたな。わたくしは、文字だけ派でございますが、それ程までに素晴らしい絵なら、どこか一部分に、ちょこっと描いていただいても良いかも、と思ってしまいます』
『この本なら、他人に読んでもらっても、問題ないよ。立派な、価値のあるドーランさんの絵本だ』
アルビさまがご満足ならば、挿絵なるものに抵抗のあるわたくしも、幸せなのでございます。
ご主人様の幸せな様子を側で感じられる。
NO TITLEにとって、最高の幸せです。
そのあと、小さな文字で、
『続きを書いてみようかな』
とお書きになってすぐにお消しになったのを、わたくしは見逃しませんでしたぞ。
次の日の早朝。
アルビさまは、図書館で一夜を明かしたドーランさまの元へ向かい、私を広げて見せました。
わたくしのページには、両開きのページいっぱいに、大きな字で〝YES〟と刻まれておりました。
さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけをつくりに来てくださるのでしょうか?
皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。