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第一篇 「ガラスの世界」

 今日の夜風は少し湿っぽい様子で、解き放たれた窓際に置かれたままになっているわたくしは、少しふやけてしまいそうですな。

 自分の身体の良し悪しは、自分にしか分からないもの。

 わたくしの今の危機的状態を理解してくださる方は、おそらく誰もいないでしょう。

 かといって、ずっとこのまま放って置かれると、わたくしは使い物にならなくなってしまうのですが……。


 おや。誰かが、わたくしを窓際から遠ざけて下さいました。

 やあ、どなたかと思えば、わたくしの所有者であらせられる、アルビさまではございませんか。

 わたくしの身体を気遣ってくださり、これほどにない幸せを感じております。いやいや、命拾いをしました。


 アルビさまは、わたくしの身体を開き、新しいページに美しい達筆で文字を刻まれました。

『やあ、NO TITLE。もう夜も遅いけれど、お客さんがやってきたよ。少し、君の身体を貸してくれるかな?』

 その返事として、わたくしは自らの意志を表現すべく、身体の上に、文字を浮き上がらせます。

『もちろんですとも。それがわたくしの使命であり、何よりも誇りある仕事ですからな』

『ありがとう。じゃあ早速、行こうか』

 アルビさまは、わたくしを閉じ、持ち上げました。そのまま、部屋の外へと移動を始められたようでございます。


 ◆ ◆ ◆


 紹介が遅れましたな。

 わたくし、『NO TITLE』と申します。

 名前がないのでは、ございません。

 NO TITLEが、わたくしの名前なのです。


 NO TITLEとは、題名のない、白紙の書物の総称を指します。

 つまり、わたくしは生まれたばかりの、本の卵というわけですな。

 わたくしは、自身の身体に文章を刻んでもらうことによって経験値を増やし、いずれはタイトルを持つ一冊の本として認められ、初めて存在を許されるのです。


 わたくしの住むこの館は、『魔導図書館』と呼ばれております。

 わたくしは書物ですから、周囲を見渡すための目がございません。ですから実際に建物の全貌を見た経験がないので想像の域を出ませんが、とにかく広くて大きい建物みたいでございます。

 なんといっても、世界中の価値ある魔術書の多くが、この図書館に保管されており、その蔵書は億単位を超える、とまでいわれておりますから。


 その膨大な書物を、たったお一人で管理していらっしゃるお方が、今、わたくしを手に抱えて館内を移動中の、アルビ・レイヌーン=エスナークさまでございます。

 元々、魔導図書館はアルビさまのお父さまの所有地でございました。お父さま亡き今、その後を継いで、アルビさまが管理をされておいでです。

 わたくしを含め、数々のNO TITLEを生産し、立派な書物へと成長させてこられました。

 大切なご主人さまであり、生みの親でもある偉大なお方なのですぞ。

 先程も申しましたが、わたくし、視力というものを持ち合わせておりませぬゆえ、ご主人さまのお顔を、一度も拝見した経験がございません。

 いったい、どんなお姿をしていらっしゃるのでしょうな。

 多くの知識を欲するわたくしは、興味津々ですぞ。

 まあ、わたくしに書き込んでくださる筆跡から、ある程度の性格や人格は推理できますから、分からなくとも、大きな問題ではありませんがな。


 さて、そのアルビさまが今、わたくしを連れて、いったいどこへ行こうとされているかと申しますと、図書館のロビー、貸し出しカウンターのあるフロアでございます。


 基本的に、魔導図書館の書物は、貸し出し厳禁となっております。


 数多くの魔術が記された書物を、知識のないものが外で開いたり、無闇に読もうとすると、実に危険なのでございます。

 開くだけで、その本に取り込まれたり、内容から得た知識で魔術や呪いを行い、不幸になる方もたくさんおられます。

 呪いをかけられた人だけでなく、かけた本人すら命の危険に晒されてしまう。

 そんな危険な、今となっては一般に禁じられた魔術書が、たくさん眠っているのです。

 したがって、書物は館内でしか、閲覧を許されません。

 もちろん、館内であっても、読む際には命の保障はいたしませんぞ。

 皆さまも、ご自分の身が可愛ければ、お気をつけ下され。

 ……少し怖がらせてしまいましたかな?


 話を戻しましょうか。

 ではなぜ、必要のない貸し出しカウンターが今でも使われているかと申しますと、アルビさまが行っておられる、もう一つの「お仕事」に関係しているのです。

 その仕事とは――。

 説明するより、直に見ていただいたほうが、分かりやすいでしょうな。


◆ ◆ ◆


 アルビさま、カウンターの前に到着した模様です。

 わたくしは、カウンターの上に寝かせられました。アルビさまのお手を煩わせないよう、わたくし自身の意志で、新しいページを開きます。

 開かれた白紙のページに、テンポよく、アルビさまの文字が刻まれます。


『ようこそ、いらっしゃいました。ここは魔導図書館。私は管理人のアルビと申します』


 丁寧な文体で、自己紹介をされます。わたくしに向けた台詞ではないことは、お分かりですな? 

 紹介が必要な方――つまり、初めてこの地へいらっしゃった、お客さまに向けてです。


『そうです。私が、ここで占い業を営んでいる者です。申し訳ありませんが、私は言葉を話せません。よろしければ筆談を希望したいのですが、よろしいでしょうか? ――ありがとうございます』


 そう、アルビさまのもう一つのお仕事とは、この地に彷徨って訪れる、悩める者達に進むべき道を示す、きっかけを作るお仕事なのです。

 簡潔に言ってしまえば占い業なのですが、アルビさまのお仕事内容は、皆様の考えていらっしゃるものとは少し、タイプが違うのではないかと思われます。


 外の世界では、アルビさまのお名前は意外に有名らしく、ちょくちょく、お悩みの方が来訪されます。

 もちろん、相手や内容によって、その方を追い出したり、断ったりする失礼な真似は、決していたしません。


 来るもの拒まず、去るもの追わずが、この魔導図書館の鉄則でございますから。


 それに、膨大な量の書物が集結する図書館です。

 悩む人々全ての求める「答」が、この場所に揃っているといっても、過言ではないでしょう。


 先ほどもお書きになられましたが、アルビさまは幼い頃に原因不明の病によって、言葉を失われてしまいました。そのため、対人との会話の効率化を図るため、筆談で、相手の方のお悩みをお伺いいたします。

 本来は、ただの情報の集約と保存こそがNO TITLEの持つ役目でございますが、アルビさまのように、他者とのコミュニケーションにNO TITLEを使用する方法もあるのです。


 さて、筆談をご了承なさったらしい、お客さま。

 本日は、どのようなお悩みでいらっしゃったのでしょうか?

 アルビさまの軽快な文字とは対照的な、重苦しい文字が、わたくしの身体を覆います。

 今日のお客さまは、筆圧が高いですな。ああ、ちょっと、そんなに強くペンを押し付けたら、わたくしが破けてしまいますぞ。


『僕は、ここから山一つ超えたところにある、農村からやってきたものです。名前はイアン。

 つい先月、僕は結婚しました。嫁に来てくれた彼女ともうまくいき、子供を授かったと分かり、とても幸せです。

 しかし、ここ最近の悪天候のせいで、作物の育ちは悪く、今年は特に不作で、僕たちの食糧の確保さえも、危うくなってきています。

 こんな時代に生まれてくる僕の子供は、幸せに暮らしていけるのでしょうか』


 イアンさまは、とてもお悩みになっている様子。こんな夜中にも拘らずご来訪されるくらい、切羽詰っておられるのでしょうな。

 アルビさまが聡明な占い師だと聞いて、はるばる、やってこられたのでしょう。

 その沈痛な訴えに対し、アルビさまが、お返事をお書きになりました。


『もし、幸せに暮らしていけない、と分かった場合、あなたはどんな選択をとるつもりですか?』

 アルビさまの問い掛けは、イアンさまの筆を大きく鈍らせました。

『辛い決断ですが、子供が生まれる前に、命を……』

 次に書かれた文字は、震えていました。

 かなり、追い詰められていらっしゃいますな。

 とはいえ、親となる身分の人間としては、感心できない考えです。

 アルビさまがどう思われたかは、分かりません。依頼者に振り回されて感情的になっていては、務まらないお仕事ですしな。

 怒るでもなく、止めるでもなく、アルビさまは淡々と、筆をお進めになります。


『私は基本的に、あなたのこの先の未来を、事細かに教える真似はしません。未来とは、あなた自身で選択を選び、道を切り拓いていくものだと思いますので。

 代わりといっては何ですが、あなたみたいな悩みを持った人に、ぜひ読んでいただきたいお話を、私は存じております。ひとつ、聞いてみてはいただけませんか?』


 これが、アルビさま独特の、お仕事スタイルなのでございます。

 アルビさまは、悩みを打ち明けに来られた方に助言をする前に、その人の悩みに訴えかける最も適切な物語を、わたくしに刻んで、お見せするのです。

 その結果、ご自身で悩みの答を考えていただいた上で、可能な限りの助言を伝える。

 ただ他人任せに未来を得るよりも、ずっと迷い人のためになるのだそうです。

 お客さまを満足させ、かつ、わたくしの身体を新たな知識で満たすことができる。

 まさに一石二鳥、でございますな。


 アルビ様の問いかけに、わたくしに書き込むほどではない、簡単な承諾があったのでしょう。

 続けて、アルビさまが書き始めました。


『このお話は、私が幼い頃、父の書庫にて見つけた書物の中にありました。

その書物に描かれた世界は、ガラスみたいに脆い世界だったそうです――』



◆ ◆ ◆



 その世界では、生きられる人間の数が、限られていた。

 その上限が何人なのか、真相を知る者は、神のみだった。

 一人死ねば、一人生まれてくる。その繰り返しが秩序であり、当然の流れであった。

 だが、その法則を知る、この世界に住まう者は、意外と少ない。

 だから、この世界に危機が訪れた。

 医学の進歩により高齢化が進み、人があまり死ななくなってしまった。

 それゆえ、生まれた生命の連鎖の崩壊は、望まぬ犠牲を生み出す結果を作り上げた。


 とある小さな町の、小さな病院。

 医者の若者が、働いていた。

 若者の腕はまだまだ未熟で、名医とは言い難い存在ではあったものの、人一倍強い正義感と、全ての人々に分け隔てなく与える優しさを持ち合わせていたため、多くの人々から愛される医者だった。

 入院患者だけにとどまらず、町の人たちからの評判もすこぶるよく、毎日を平和に暮らしていた。

 ある日、若者は運命の女性と巡り会い、結婚を果たした。若者の優しさと、大きな包容力に惹かれた女性も、小柄で優しく、暖かい人だった。

 互いに望みあって結ばれた、理想的で幸福な二人。

 やがて妻は身体に、新たな命を宿した。

 若者はとても喜び、妻を大事に世話し、もうすぐ生まれ出るだろう我が子との出会いを、心待ちにしていた。


 それから、一年が過ぎた。

 なのに、愛を注ぎに注いだ我が子が生まれてくる様子は、ない。

 妻のお腹は、はちきれそうなほど大きくなっていた。時々、つわりとは違う苦しみ方もする。

 若者は不安になり、自分の師匠である高齢の医者の下へ、相談に行った。

 師は話を聞き、こう告げた。

「お前の子供は、今も母親の胎内で苦しんでおる。生まれたいのに、生まれて来られないのだ」

「なぜですか? なぜ、生まれて来られないのですか? 私の努力が足りないからですか?」

 若者は問うた。師は首を横に振った。

「……お前のせいではない。この世界は今、飽和しておる。

 人間は、生きられる人数が定められておる種族。この世に生を受けたものが定員となり、新たな命が生まれて来られなくなっておるのじゃ。おそらく、お前の子供だけではないだろう。このままでは、古い命だけが生き延び、新しい命が生まれなくなってしまう。

 それだけではない。腹の中で子供が死んでしまうとなると、母親の命も危うい。

 ――全ては、我々、医者の責任かも知れんな」

 若者は青褪めた。医者として、人の命を救う行為が、己の最も愛する者達の存在を脅かし、死へと至らしめようとしている。

 ずっと望んでいた、人々が長く生きられる平和な世界。そんな世の中を作るために、貢献できる人間になろうと決意して、若者は医者になった。

 だがそれは、自然の摂理に反した、ただの自己満足に過ぎなかったのか。

「しゅ、手術をして、お腹の子を取り出しましょう。そうすれば……」

「そうすれば、母親は助かる。だが、子供はどうやっても、この世界では生きられん。死ぬしかない。

 お前の望みは、妻を生かすことだけか? ならば、切開を行っても構わんだろうが」

 違う。

 若者は、心の中で首を左右に振った。

「望むものを全て得るなど、できないんじゃよ。不思議なものじゃな、何不自由なく暮らせる世の中になったにも拘らず、本当に大切なものが手に入らんとは……。本当に幸せな世界とは、いったい、どんなものなのじゃろう」

 師の言葉が、その最も正しい意見が、若者の頭の中で激しく渦を巻く。

 若者は考えた。

 今、子供が生まれて来れない原因は、この世界が人間で満たされているからだ。

 なら、世界を飽和してしまっている人間を少しでも消せば、新たな命は、その空いた席に着くことができる。

 若者の目の色が変わった。

「先生、ありがとうございました。自分のやるべきことが、分かりました」

 若者は立ち上がり、部屋を出ようと、ドアノブを握った。

 黙したままだった師が、この時、口を開く。

「お前のやるべきことは決まったと? ならばなぜ、目の前にいる、この老いぼれを始末せん? 一番簡単ではないか?」

 若者の手は震えていた。振り返ることなく、はっきりと告げた。

「恩人を殺すことなど、私にはできません」

 返答を聞くまでもなく、若者は闇の路へと、足を踏み入れた。

 この時の判断が、既に彼の命運を物語っていたのかもしれない。


 その後、若者の足は、自然といつも勤務している病院へやってきた。

 敷地の外れにある離れ病棟。もう治療する術もなく、ただ死を待つばかりの末期病人たちや、目覚める見込みのほとんどない、植物人間になってしまった患者が、生命維持装置に支えられて、何とか生きている。

 この装置の電源を切れば、機械に縋って生きているこの人たちは、あっという間に死ぬ。

 だが、それも、少し死期が早まるというだけだ、新しく生まれてくる我が子のために、その命の器を明け渡してくれ。

 そう無理に自身を納得させ、若者は生命維持装置の電源コンセントに手をかけた。

 一気に引き抜こうとしたが、その手には全く力が入らない。

 その代わり、頭の中にたくさんの、笑顔が浮かんだ。

 ここにいる患者たちが、まだ各自の意志で動けるくらい元気だった頃。患者たちの世話は、全て若者がしていた。

 診察をしたり、体を拭いてあげたり、時間がある時は、食事も共にした。

 まだ今ほど医者としての地位もなく、目の前で苦しんでいる人がいれば、とにかく一生懸命診るべきだと、真剣に考えて仕事に従事した。

 そんな青かった頃に任せられた、大切な患者たち。

 目の前で眠る、年老いた人は、昔、しわがれた声で言った。

「あんたは、ええお医者さんじゃ。わしは名医と呼ばれた人たちの間を転々と渡ってきたが、あんたほど親身になってくれる人は、初めてじゃったよ。

 あんたは心の優しいお方じゃから、心配でのう。きっと悩み事ができたら、全てを一人で背負い込んで、解決しようとするじゃろう。

 いかんよ、それはいかん。もし困ったら、いつでもわしらに相談しておくれな。約束じゃよ」

 自然と、若者の目からは涙がこぼれ、口からは弱々しい声が洩れた。

「……おじいさん、私はどうすればいいでしょうか。どうすればこの地獄から、抜け出せるでしょうか。

 このままでは、私は大切な人を全て失ってしまう。私たちが幸せになるためには、どうすれば……」

 老人からの返事はない。ただ、老人の命を必死で繋ぎ止める機械の音だけが、耳に入っては抜けていった。

 若者は立ち上がる。この人たちを手にかけるなんて、できない。

 若者が救い続けてきた命。若者の心を今まで支えてくれた命。どうやって奪えるというのか?

 力の抜けた身体を何とか引きずりながら、若者は病院を後にした。


 夜の大通り。

 この世界に増加する老人達は、夜になると集団で散歩に出る。

 昼間は賑やかで、眩しすぎて、外に出たくないそうだ。

 その老人達が、若者の次なるターゲットとなった。

(もう、充分に生きたんだ。俺の子供のために、死んでくれ)

 他人であれば、きっと何の感慨もなく殺せるに違いない。そう自分に言い聞かせ、物陰で機会を待つ。

 数人の老婆が、楽しそうな会話をしながら散歩をしている。

 勢いよく、老婆達に立ち塞がった、一つの影。

 若者の心臓は高鳴る。

「オラァ、ババアども。有り金、全部置いてとっとと失せな! さもねえと、ぶっ殺すぞ!」

 ナイフを手に持った黒ずくめの男が、老婆たちに怒鳴りつけた。

 だが、老婆たちは慌てふためくばかりで、男の脅しをほとんど耳に入れてない様子だ。

「きいてんのかコラ! さっさと金を出せってんだよ!」

 男は怒鳴る。

(そうだ。俺の変わりに、あいつらを殺してくれ)

 足が竦んで動けなくなっていた若者は、あの誰だか知らない男を、心の中で応援し始めていた。

 動かない老婆たち。キレる男。瞬きもせずに、見守る若者。

「よっぽど死にてえらしいな。じゃあ、お望みどおり、やってやるぜ」

 男は老婆にナイフを向け、飛び掛った。

 悲鳴も上げず。目を閉じる老婆たち。

 しかし、老婆たちの息は絶えなかった。

 老婆たちを庇い、両者の間に割り込んだ者がいた。

 警官ではない。医者だ。

(何をやっているんだ、俺は……)

 死に逝く人間を、みすみす見殺しにはできない。

 若者の医者としての本能が、体を勝手に動かしたのかもしれない。

 若者は男を突き飛ばした。分が悪いと思ったのか、男はそのまま逃げて行ってしまった。

「ありがとうございます。お陰で、命拾いしました」

 老婆たちは口々にお礼をいい、再び暗闇の中に消えていった。

 違うだろう。命を拾われちゃ困るんだよ。

 若者は自分の意思と意志との間の葛藤に苦しんだ。

 だが、納得できる答は出てはこなかった。

 大切な人のために他人を始末しようとする意思。

 医者として、生きとし生けるもの全ての命を守る手助けをしたいという、強い意志。

 噛み合わない二つ思いを複雑に絡め合わせながら、若者はその場から去っていった。


 次の日の朝。人通りの少ない通学路には、小学生達が賑やかに登校していた。

 少子化が進んでいる証拠だろう。若者が子供だった頃よりも、子供の数は圧倒的に減っていた。

 この現実も、世界の秩序を乱した行いのせいなのか。

 若者は再び悔やむが、今は罪の意識を背負っている場合ではない。

 年寄りが無理なら、少し気が引けるが、幼い子供を……。

 しつこく高鳴る心臓を押さえつけ、若者は子供たちの姿をじっと見つめていた。

 ふと、そこを見覚えのある子供が通った。

 赤いランドセルを背負った、おかっぱ頭の小さな女の子だ。

 その子と若者は、面識があった。たしか女の子の母親は精神的疲労で病に侵され、若者の勤務する病院に入院していたはずだ。

 その子は背を丸め、足取りも重そうに校門をくぐろうとしていた。何だかとても、思い詰めている風にも見える。

 学校へ行きたくないのだろうか。

 その理由は、若者の目の前で露となった。

「やーい、人殺しの子供!」

「何しに学校に来たんだよ、お前も誰かを捕まえて殺すのかー?」

「人殺しの子どもは、人殺しにしかならないもんなー!」

 いかにも悪餓鬼といった感じの少年たちが寄ってきて、女の子を取り巻き、口々に罵詈雑言を吐きたてる。

 女の子は俯いていた頭を上げ、少年たちを睨み付けた。

「うわっ、怖ぇ~!」

「気をつけろ、目ぇつけられたら殺されるぞ!」

「いやー、逃げろー!」

 逃げていく少年たちの背中を、女の子は見つめていた。しばらく立ち止まっていたが、また俯いて、静かに歩き出す。

 まるで影みたいに。誰にも見つからず、隠れるように、ひっそりと。

 その行動が余計に目立っている事実に、きっと気付いていないだろう。

 そんな女の子に、他に声をかけるものは誰もいない。

 遠くでひそひそと陰口を叩く、子供たちがいるだけ。

 ささやかな悪口の内容は、女の子の耳には届かないだろう。

 だが、その微かな音と、自身が見られている、何かいわれている、という空気は全て伝わって、心を攻撃する。

 実際には関係ない、回りの他愛ない会話や、そよ風が揺らす若葉の擦れる音にさえ、女の子は怯えた素振りを見せた。

 まるでその子は、この世の音という音、全てが敵意を持っていると思い込んでいるみたいだ。

 若者は少し考える。

 あの子がどうして虐められているのかは分からないが、あの子のために、何かできないだろうかと。

 あの子を虐げる全てのものを消してしまえば、あの子は平穏を取り戻せるのだろうか。

 それとも、あの子の命を奪えば、楽になれるのだろうか。

 悶々と考えながら、若者は学校の側の雑木林に入っていった。

 そこで時間の許す限り考え続けたが、やはり、いい答は浮かんでこなかった。


 放課後。

 茂みの影で息を潜めていた若者は、帰宅の徒につこうとしていた、さっきの女の子を見つけ、声を掛けた。

 女の子は立ち止まり、怯えた目でこちらを見上げた。

 まるで、この世の全てのものに恐れを持っていそうな眼差しに、若者は妙に心が痛んだ。

「怖がらなくてもいいんだよ。先生は別に、君を虐めに来たわけじゃない」

 若者は今朝の出来事を見ていたと素直に話した。更に素直に、何か力になりたいと意志を伝えた。

 でも、それを聞いた少女は、首を否定的に振る。

「先生には無理だよ。だって先生、あたしや、あたしを虐める子達を殺そうって考えてるでしょう?」

 若者の心臓は飛び跳ねた。

「何を言っているんだ。どうして、先生が君達を殺すんだい?」

「理由は分からないけど、先生、お父さんと同じ眼をしているから。あたしのお父さんはね、どこかよその子を監禁して、殺してしまったの。今、警察に捕まってる。お母さんは、そのせいで入院しちゃったの」

 報道沙汰にもなった、近所で起こった事件。

 若者の記憶にもまだ新しかったが、その事件と、この子との関連性を悟れなかった。

「あたしが虐められるのも、人を殺したお父さんのせい。だから、先生の考えている方法じゃ、何も解決しないの。

 だからあたしは、何もいわないの。何もいわず、ただ我慢していれば、きっといつか、今までどおりの生活に戻れるんじゃないかって。ううん、戻れなくても、今よりマシな生活が送れると思うから。あたしは他に何もできないから、一生懸命、耐えるの。

 でもね、死にたいとは思わないよ。だって、まだお母さんもいるし、お父さんだって、いつかはまた優しいお父さんに戻ってくれるかもしれないし、だからあたしは、その時まで待つの。

 あたしが大きくなって、大人になったら、今度はお父さんやお母さんを悪くいう人たちから守ってあげるの。大人になれば、何でもできるんでしょう? ならあたしは、大切な人を守れる人になりたい」

 何て強い子なんだろう。

 まだ幼い、こんな子供でさえ、必死で精一杯、生きている。

 本当は泣きたいだろう、叫びたいだろう。自分は悪くないのに、どうしてこんな目に遭わないといけないのかと。

 辛さを押し殺して、ひたすら我慢する。

 強いこの子だからできる、精一杯の努力だ。

「一度、〝りゅうちじょ〟っていうところに、お父さんに会いに行ったけど、今の先生と同じ目をしてた。先生も、人を殺すの? どうして? 殺さなければならないから?」

 女の子の、何もかもを悟ったかに見える眼差しが、若者の穢れた心を壊していった。強く張り詰められた、頭の中の何かが、悲鳴を上げていた。

 若者は悟った。その父親の目が、人殺しの目ではなく、後悔に苛まれた目であると。

「先生も、もうすぐ赤ちゃんが生まれるんでしょう? 赤ちゃんやお母さんに、あたしと同じ思いをさせちゃ嫌だよ。赤ちゃんが、あたしみたいになっちゃったら、先生のせいだよ」

 少女は泣きそうな顔をしていた。

 こんなに小さい子供が、父親のせいで苦しんでいる。

 母親も、倒れるほどの苦しみを……。

 もし、若者が人を殺して犯罪者となれば、子供が生まれてきても、その子供は一生、〝罪人の子〟のレッテルを貼られて生きていかなくてはならない。

 その現実は、このまま生まれてこないよりも、苦しいのではないだろうか?

 妻も、きっと無事で済むはずがない。

 俺には、人は殺せない。

 だが、誰かを殺さなければ、子どもが死ぬ。誰かの死を、順番を待っている時間はない。

 ならば、どうすればいい? 

 答は出ていた。残された道は、一つだ。

 最初に子供のために、人を殺そうと決意した時、最も簡潔な方法を採れなかった。

 いざ決心して、その方法を実行に移そうとしても、弱者を手にかける手段しか思いつかなかった。

 非力で卑怯な己を憎む。

 そんな愚かな若者にも、まだ道は残されている。

 そうだ、大人は何でもできる。思うがままに、自身の選んだ道を進めばいい。

 望んだ未来を確実にするために、俺は何を犠牲にすべきか。

 若者の頭の中で、何かがぷつりと、途切れた気がした。

 悲しげな表情を見せる少女の頭を撫で、若者は笑った。

「大丈夫。君はきっと幸せになれる。先生の子供もね」

 その後、若者は小さな町から姿を消した。


 それから、約一週間後。

 小さな町の小さな病院で、大きな産声が上がった。

 この町にふさわしい、小さな女の子だった。

「うむ。母子共に健康状態もすこぶる良い。うまくいってよかったの」

 赤子を取り上げた年老いた医者は、満足気に言った。

 母親も、嬉しそうにしていたが、何処か暗い影を落としていた。

 この喜びを、一番最初に分かち合いたい最愛の人が、側にいない。

「……先生、この子の父親は、どこへ行ってしまったのでしょう? 先生に会うと言って出掛けたその日から、家にも戻らず、いなくなってしまいました」

 妻は夫の師に尋ねた。医者は応える。

「この子が生まれるために、最善の努力を尽くしたのじゃよ。なに、どこかでお前達の幸せを喜んでいるさ。どこかでな……」

 妻は頷いた。いつか夫が戻ってきた時に、さらに喜んでもらうために、この子を立派に育てよう。

 全ての人を思いやれる、心優しい、あの人みたいに――。


 時を同じくして。

 若者の身体は、広い海原にあった。

 海面に白衣を纏った背が、静かに漂っていた。

 発見され、引き上げられた時、事切れたそのふやけ顔は、どことなく幸せに満ちた表情をしていたという。

 自分の意思と意志を繋ぎ合わせた結果。

 若い医者に、不満はないだろう。



◆ ◆ ◆



 アルビさまの書かれたお話を、イアン様はお読みになったのでしょう。

 ですが、一言もわたくしの身体に、感想をお書きにはなりません。

 おそらく、わたくしの知りえない外の会話でも、沈黙を保っていらっしゃるのでしょう。

 沈黙を破ったアルビさまは、淡々と、助言をお綴りになりました。


『生まれてくる子供が幸せになるかどうかなんて、実際に生まれて、人生を歩んでみなければ、本人にすら分かりません。

 あなたが考えるべきは、「子供が幸せになれるかどうか」ではなく、「どうすれば子供を幸せにできるか」ではないでしょうか?

 子供が飢えに苦しむのでは、と危惧するのなら、あなたの食い扶持を分け与えれば良いだけです。

 作物の不作にしても、永久に続くものではありません。本当に危険になれば、環境の変化に順応して、新しい方法を導き出していけるのが、人間という生き物です。人間は常に、そうやって進歩してきたのですから。

 ずっと同じ状態なんて、長くは続きません。根拠のない未来の不安に怯えている暇があるなら、悪い現状を改善する努力をしてください。

 あなたに足りないものは、未来を見透かす知識ではなく、今を耐える忍耐力です』


 相変わらず、アルビさまの一人語りですが。

 それは言い換えれば、相手にしっかりと気持ちが伝わっている証拠です。


『あなたには、幸せな未来を得るために、現在いまの苦しみを乗り越える覚悟がありますか?』


 アルビ様は、しばらくして、わたくしをお閉じになりました。

 お仕事は、おしまいです。


 アルビさまの自室に戻されたわたくしは、自らを開き、自分の意思を身体に浮き上がらせて、アルビさまに尋ねました。

『アルビさま、イアンさまはご満足してお帰りになられましたかな?』

 アルビさまは、お返事を書いてくださいました。

『満足したかどうかは、表情からは読み取れなかったけれど、彼はきっと、いい父親になれると思うよ。何が一番、子供のためになるのか、考えるきっかけができたんだから。

 一時の不幸に負けて大切なものを犠牲にしようなんて、愚かな話なのさ』


 アルビさまの筆跡には、誰か特定の人物に対する皮肉が込められている気がしました。


 そういえばアルビさまのお父さまは、大切なものを守りきれずに、未来に絶望して命を絶たれたと、この図書館にある他の書物――わたくしの兄たちにあたる、かつてNO TITLEであったものたちです――に教えていただいた記憶がございます。


 どうやって教えてもらったのか、ですって?


 わたくしたち兄弟は、アルビさまの魔力によって精神が繋がっておりますから、時々ですが、意思の疎通ができるのでございますよ。


 その結果が、お父様がご自身の選択を見誤った結果かどうかは、わたくしには知る由もないのですが。

 アルビさまは、どう考えておいででしょうか?

 道を誤った親を持つ子供の理不尽さは、アルビさまが一番、分かっておられるのかもしれませんね。

 

 そんなアルビさまも、わたくしたち書物にとっては、生みの親でございます。

 もし、わたくしたちに危機が訪れた時、いったい何を犠牲にして、救い出してくださるのか。少し興味がありますな。

 ですが、その辺りは、あまり深く考えずにおきましょう。


 その逆で、アルビさまが大変な事態に陥ってしまった時、わたくしは何もしてあげられないのですから……。


 さて、もうすぐ夜が明けそうです。

『徹夜作業になっちゃたね。僕は今から、少し眠るよ』

『お休みなさいませ、アルビさま。良い夢を』

 挨拶の後。再びわたくしは閉じられ、アルビさまの寝室にある、卓上に収まることとなりました。


 わたくしやアルビさまの日常生活、少しは分かっていただけたでしょうか?

 大抵は、この静かな図書館の中で占いをしたり、本の整理や管理をしながら、至って地味な生活をしておいでですが。

 だからその分、頭の中には、蓄えられた素晴らしい話の数々が満ち溢れておられます。

 悩める人々との出会いを通して、わたくしの身体を美しく彩っていただける。

 そうやってわたくしの身体には、たくさんの物語が刻まれ、どんどん一人前の書物に近付けるのです。

 光栄でございます。

 わたくしも、生まれてきた甲斐があるというものです。


 では、わたくしも、しばしの休息をとるといたしますか。

 いつか、一人前の書物となれる日を、こっそり夢見ながら。


 さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけを作りに来てくださるのでしょうか?

 皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。

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