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第十五篇 「はるかなる旅路」

 今日は、珍しいお客さまがいらっしゃいました。

 以前、二度もこの地をお踏みになられたドーランさまです。


 何度もいらっしゃっているのなら、別に珍しくないだろう、とお思いですか?


 いえいえ、この魔導図書館において、ここまで何度も足をお運びになるお客さまは、どんなに滑稽な容姿や性格の方よりも珍しゅうございます。

 そんなドーランさまの来訪を楽しみにしているのは、私ではなく、アルビさまのようでございますが。


『ドーランさん! お久しぶりです。絵本作りの方は、順調に進んでいますか?』


 やはり、と言ってはなんですが、アルビさまの筆跡に、いつもとは違うテンションが感じられます。しかし、ドーランさまのお返事を書かれるペン捌きは、どことなく重苦しさを感じざるを得ませんでした。


『ああ、絵本の方はとても順調でね。たくさんの人に読んでもらうことができたんだ。それでね、その中でもひときわ熱心な読者の一人である資産家が、私の絵を気に入ってくれてね。ぜひとも彼の家で専属の画家として働いてくれないかと言う話が来たんだ』


 成る程。

 そのお話をお引き受けになれば、ドーランさまはそのお屋敷からほとんど出られなくなるのでしょう。

 そうなれば、ここに来ることも皆無となりましょうし、絵本の制作も中止、と言うことになってしまいます。

 ですが、わたくしの記憶が正しければ、ドーランさまが目指していらっしゃったのは画家であったはずです。それがうまくいかずに、絵本の挿絵を描こうとしてここに忍び込まれた次第でございましたから。


『……おめでとうございます! すごいじゃないですか、やっと、あなたの才能を認めてくれる人が現れたんです、またとないチャンスですよ』


 アルビさまは、心の底から祝福なっさているでしょうか?

 疑っているわけではありませんが、筆跡だけでは、やはり表に出さない本心を見抜くことはなかなか難しゅうございます。

 特に、アルビさまのように文字を書くことに慣れていらっしゃる方は。


『ありがとう。……しかし、私は今、とても迷っているのだよ。絵を描くことは、物心ついたときから私の生きがいだった。そして、自分の描き上げた絵には、自信と誇りを持っている。だから、自分の絵が認められずに、腹立たしさを覚えることも、昔はしょっちゅうだった。

 だから、今、この時、自分の絵に感動して、仕事まで与えてくれる人に出会えたことは、とんでもなく幸福なんだ。

 だが、私はこうも考えてしまう。

 資産家よりも先に、私の絵本に感動して、仕事を与えてくれた恩人は、アルビ君、他でもない君なんだ。君が私に絵本の題材を提供してくれなかったら、今の私は、ここには存在していない。

 それに、絵本を描いていたこの短い間が、私にとって、とても充実した、楽しい時間だったんだ。だから、どちらかを取れと言われると、私には悩むことしかできない……』


 ドーランさまの筆跡はとても弱々しく、今にも消え入りそうでした。

 この方は、本当にこの場所や、アルビさまの中に安らぎを見出していたのですな。それはとても喜ばしい事でございます。

 もちろん、度合いはともかく、アルビさまだって同じ気持ちなはずです。こんなにもアルビさまと親しく接してくださった方は、初めてなのですから。どう接してよいのか分からない複雑な気持ちと一緒に、ずっとこんな友好な関係が続けばどれだけいいだろうという嬉しさや楽しさが湧き上がってきているに違いないのです。

 そうでなければ、また来るかも分からない無名の絵描き様のために、新しい物語を書こうなんてするわけもないですしな。

 しかし、アルビさまは落ちついた筆圧で、冷静に文字をお綴りになりました。


『今日は、僕の本業の方でいらっしゃったんですね? 迷える人を正しい道へと導くきっかけを与える仕事。僕は、それを生業として、この時を過ごしていますから』

『ああ、そういうことになるね。私は、今まで自分のことばかり考えて、ここへやって来ていたんだなあ。とても、自分が情けなくて、恥ずかしいよ。本当にすまない』

『いいえ、あなたがここに来るたびに、僕は少しずつ、新しい自分になれる気がしました。お礼、と言ってはなんですけど、僕の話、聞いてください。もし次にいらっしゃったら、ドーランさんに渡そうと思って書いた話です。今の状況を考えると、あなたが進むべき未来と、よく似ている気がします。

 ――ただ、言っておきたいのは、僕が述べるのは僕の中で結論出された真実です。それは、あなたにとって進むべき大切な道ですが、必ずしも、平坦な道のりと言えるものではないと思います。

 時には、その道はふさがっているかもしれません。急な坂道かもしれません。崖かもしれません。雪が降り積もっているかもしれません。この道を選んだのは、失敗だったかもしれない、と思わせてしまう道なのかもしれません。

 だけど、その先には、必ず楽園があることをお約束します。だから、僕の作った、話を聞いてもらえますか?』

『……ぜひ、聞かせてくれ。君の作った、その話を――』



◆ ◆ ◆



 マーチは、広い牧草地の、狭い道を歩いていた。

 小さな石ころの行列と、トラクターの走ったギザギザのタイヤの跡が織り成すその道の両端にはどこまでも道に沿って続くかのような白く塗られた木造の柵が建てられ、牛や馬を緑の原に格納していた。

 その柵の上に座っている誰かを見つけて、マーチは声をかけた。

「こんにちは。こんなところで、何をしているのですか?」

 柵の上に座っている誰かは、小さなマーチに気がつき、うな垂れた首を少しだけ上げた。

 少年だった。

 人形のように整った、きれいな顔をしている。

 しかし、着ている服は、つぎはぎだらけのボロ布だった。

「やあ、君は、人形の姿をしているんだね。うらやましいなあ」

「どういうこと?」

 マーチは首をかしげた。


 自己紹介を済ませる。

 彼は、ピオールという名前で、なんと、ほんの数週間前まで、人形だったと言う。

 ピオールは、ことの経緯を、マーチにゆっくり話してくれた。


「僕を作ってくれたのは、貧しい人形職人のおじいさんだったんだ。ゼブランじいさんは、家族がいなかったから、僕をいつも側において、自分を励ますように、いつも僕に語りかけてたよ。今日も食べるものがない、着る服もままならない、借金も返せないってね。グチばかりだったけど、僕はそれがうれしかった。だから、ゼブランじいさんの役に立てたらって、ずっと思ってたんだよ。

 そんな時、僕の目の前に女神さまがやってきて、僕を動かせるようにしてくれたんだ。僕は喜んだ。ゼブランじいさんも喜んだ。良い行いを続ければ、本当の人間になれると言って、女神さまはいなくなった。僕は、人間になれるように、一生懸命ゼブランじいさんに仕えたよ。

 毎日のようにやってくる借金取りを殺した。僕は人形だから、法律で罰せられることはないからね。食べるものがなくて困っていたから、食べ物を盗んできた。一人分でいいからね。たやすいことだったよ。着る服を剥ぎ取ったり、ゼブランじいさんの気に入らない人をみんな始末したり、すごく頑張った。頑張った分だけ、じいさんは誉めてくれたよ。だから、さらに頑張った。そしてついに、僕は人間になれたんだ。人間になった僕を見て、ゼブランじいさんはとても喜んでくれた。これからも頑張ろうって、そう思った。

 なのにね、ゼブランじいさんは、僕を人買いに売ったんだ。理由を尋ねると、人間は人を殺すと罰せられる。メシ代が倍かかる。今までのように、うまくは行かない。だから、僕は売られたんだ。そのお金で、じいさんは今も楽して暮らしているんだろう。それなら、僕は満足と思って、買い取られた先で仕事に励んだ。

 でも僕って、じっとして黙っていると、やっぱり元が元だから人形みたいに見えるんだ。普通の人より、綺麗なんだよ。僕の買われた先の主人はとんでもない変態でね。毎晩のように僕を裸にして、布団の上で身体を触りたくるんだ。荒い息を立てて、とても気持ちが悪かったよ。だから、主人を殺して逃げ出してきたんだ。そして今、どうしようかここで悩んでいるんだよ」

 マーチに分かったのは、人間でいるよりも、人形でいたほうが、ピオールにとって幸せだったのだろう、ということくらいだった。

 やっぱり、何か違うものに変わるということは、不幸になることと定められているのだろうか。

「ボクもね、良く分からないんだ。いろんな人たちの願いを込められて、こんな風に人間のような命を手に入れることができたけれど、そのせいで多くのものを失ってしまった。何が良くて、何がよくなかったのか。もし、今までの行いが全て悪いものだったのなら、それを清算するためにこれからどうすればいいのか。それを探すために、ボクは旅に出たんだ」

「君と僕とは、境遇が違うけれど、よく似ている気がするね。どうだい、僕と一緒に女神さまを探さないかい?」

「女神さまって、君を人間にしてくれたって言う?」

「そう、人形を人間にする力を持っているのなら、人間を人形にする力だって持っているはずだよ。僕はもう疲れた。だから、元の人形に戻してもらうんだ。

 マーチ、君だって考えは違っても、きっと女神さまに会えば、それなりに答が出てくると思うよ」

「そうだなあ。他に行く宛てもないし、せっかくだから一緒に行こうかな」

 そして、二人は同じ道を歩みだした。


 道中、立ち寄った村で色々と情報を集める事にした。

 マーチは人形のフリをして、ピオールの荷物に紛れて話を伺った。ピオールは人間の姿をしているがその容姿は美しすぎて目立つので、大きなマントで覆い隠した。

 少し怪しい風体だが、旅人には見えなくない。

 そこで道行く人たちに話を聞いた。人形を人間に変えてしまう不思議な女神さまのことを知りませんかと。

 人々は不審げにピオールを見るが、とりあえず「知らない」と答えてくれた。中には、人形に命を与える魔女の噂も聞こえたが、その正体と末路をよく知るマーチは、その旨をピオールに伝えて、可能性を除外した。

 そして街に滞在して三日目。不思議な話を耳にすることになった。

「ここからずっと西に向かった場所に、世界で最も大きいといわれる巨木が立っているそうだよ。巨木はもう何千年も生きて、成長を続けてきたから、意志を持って言葉を話せる。そして木に集まってくる多くの鳥や動物、はたまた風や雨たちから多くの情報を教えてもらい、その場にいて知らない事は何もないという。まあ噂だし、本当にそんなものがあるかどうかなんて、分からないけれどね」

 不思議な木。そこへたどり着けたならば、きっと女神さまの居場所もつかめる。いや、そんな回りくどい事をしなくても、その木ならば元の人形に戻れる方法を知っているんじゃないだろうか。

 マーチとピオールは喜んだ。情報を提供してくれた人にお礼を告げ、真っ先に街を出た。

 ただひたすらに、西に向かって進む。この辺りはあまり街や村が多くなく、整備もされていない道路とも言いがたい獣道が、木々に紛れて分かりにくく続いていた。そこを抜けるのも至難の業だ。

 特に、ピオールは人間だから、飛び出た枝や硬い葉があると肌が擦り切られて、血が滲む。とても痛そうだとマーチは思ってみたが、痛いという感情が分からないから、今のピオールの気持ちに同感する事はできなかった。

 でも、ピオールはそんな自分を呪うように愚痴る。

「まったく、人間になんかならなければ、こんな思い、しなくてもよかっただろうに」

 この道の先に、本当に巨大な木があるのかも分からない。もしそこへたどり着いたとしても、本当に望みが叶うとは限らない。

 こんなに頑張ってまで進む意味なんてあるのかな?

 マーチは一人で考えた。でも、今の段階では答は出なかった。

 途中、大きな川が見えてきた。辺りを見渡したが、橋もないし船も出ていない。ただ、流れは穏やかでそれ程深くもないので、通行したい人や動物は、歩いて渡っていた。

 ピオールもそれを見習って、歩いて渡る事にした。

「こういうときは、人間って便利だと思うね。人形だったら、水を吸ってしまって大変なことになるし、乾きも遅い」

 そういうものだろうか。マーチはピオールの懐の中でじっとしている事しかできなかったが、ただ考えていた。さっきと言っていることが違うなと。

 そのとき、ピオールが水底の岩にけ躓いて倒れた。大きな音と水しぶき、大々的に転んだピオールだが、水深は浅いので溺れる事はなかった。しかし、その衝撃で放り出されたマーチは、自分の身長よりも深い水の中に放り出された。

 地上でもそんなに素早く動けないマーチが、この水の中で自由に行動できる訳がない。

 マーチは溺れた。立派な布で作られた軍服は、驚くくらい水を吸う。身体が木でできているため、多少浮力はあるものの、服の重みには敵わない。息ができなくて苦しいという感覚はなかったにせよ、とてつもない恐怖がマーチを襲った。

「マーチ! 大丈夫かい?」

 体制を整えたピオールが、慌ててマーチを助け出した。マーチを掴んで、急いで川の向こう岸に向かう。

 数分ぶりの乾いた地面の感触に、マーチもピオールも安堵した。

「はあ、結構危ない旅だね。ちょっと無謀だったかな?」

「まあ、引き返したくなるのも分かるけどさ、戻らずに進もう。ボクはもう嫌だよ、川を渡るのは」

 マーチは疲れきった風に、息をついた。

 暖かな太陽の光で身体を乾かし、そこで一晩を明かした。そして夜明けと共に、川の水を汲んだり支度を整えて、また木を探して旅に出た。


 何日も何日も歩くうちに、いつしか道はなくなっていた。道なき道を、ただひたすらに歩いていく。

 太陽の動きだけが、何とか西の方角を教えてくれて、道にだけは迷わず済んだ。

 しかし、道のない所で道に迷うというのは、無理じゃないかともマーチは思う。でも、疲れていてそれどころではないピオールには、あえて口を挟まなかった。

「……おなかが空いたなあ。咽もからからだよ」

 川で汲んだ水は、もうすっかりなくなってしまった。食事も、ここ二、三日は草の根や野草を食べていたが、飢えを凌ぐにはあまりにも少なすぎた。

「人間って言うのは、大変な生き物だね。確かに、他の生き物と比べると多くの自由とゆとりがあるけれど、その分、制約も多い。たくさん悩まなくてはいけないし、たくさん得なければいけない」

「そうだね。でも、人間はそんな自分たちを責めない。むしろ誇りに思っている。だから制約も受け入れる。バランスは整っていると思うね」

「結局のところ、バランスが悪いのは僕たちのような存在だけなのか……」

 また少し、歩いた。

 すると、徐々に道らしき細い線が足元に続くようになっていた。

 坂道になっている、その道のついた丘の上から、何かがコロコロと転がってくる。

 それが真っ赤な果実だと気づいた。

「林檎だ、林檎が転がってきた!」

 ピオールはそれを拾い勢いよくかぶりついた。その様子をマーチはじっと見ていたが、その林檎は新鮮そうで、ピオールも実においしそうに食べていた。

「はあ、甘くておいしい。生き返ったよ。なんだか、ここまでこれてよかった気がする」

 結構現金だな、ピオールって奴は。

 マーチは思う。ピオールはひょっとしたら、人間よりも人間らしいかもしれない。

「でも、この林檎はどこから転がってきたんだろう」

 よく辺りを見渡せば、林檎はあちこちに落ちている。それを求めて、草食の動物たちが集まってきていた。

「あの丘の上に行ってみよう」

 ピオールはマーチを抱え、丘を駆け出した。

 丘の上には、それはそれは立派な巨木が根を張っていた。巨大な傘のように枝が広がり、青葉がたくさん茂って木陰を作る。そこには輝くような林檎がたくさん実っていた。

 その大きさに、偉大さに思わず息を飲んだ。油断したら、その圧倒的な存在に押し潰されてしまいそうだ。

《おやおや、お客さんとは珍しい》

 どこかから声がした。辺りを見渡しても、誰もいない。

《わしはここにおるよ。ずっとここで、何百年も立ち続けておる》

 その声の主が木である事を知り、ピオールは目を丸くした。

「本当にいたんだ、言葉を話す巨木……。あの、あなたはとても長く生きていて、ここにいながら世界のことを何でも知っていると聞きました」

《ああ、大抵の事なら知っているよ。渡りで飛んでくる鳥や、ここへ通りかかった旅の者、動物たちが色々教えてくれるからね》

「じゃあ、教えてください。僕を人間の姿にした女神さまが、今どこにいるのか」

《女神が今どこにいるのか、それはわしにも分からない。だが、わしの力を以って、お前さんを人形に戻してやることはできるよ、ピオール》

「どうして、僕の名前を?」

《わしは何でも知っておる。お前さんたちがどういった経緯でここまでやってきたのかも、元は何者で、どんな想いを背負っているのかも、お見通しじゃよ》

「なら話は早い。お願いします、僕はもう疲れてしまったんです、人形の姿に戻してください」

《わしの身体になっておる林檎の中に、黄色いものがある。それを食べれば、お前さんの望みは叶う》

 ピオールは上を見上げた。すると、その視線に気づいたかのように、黄色い林檎が上から降ってきた。

 それを手に取り、ピオールは息を飲む。

「これを食べれば……」

《人形に戻れる。じゃが、もう二度と、人間になることはできないよ。よく考えてからお食べ、なぜ女神はお前さんを人間にしたのか、そしてかつてお前さんが人形だった時、どんな気持ちだったのか》

「うん……。でも、考えても埒が明かないや。面倒臭いし。もう食べるよ。ありがとう、木のおじいさん、マーチ」

 ピオールは黄色い林檎をかじった。するとピオールの身体は黄色の光に包まれ、次に姿が見えた時には、小さな人形になっていた。

 毛糸で作られた、マーチと同じくらいの大きさの人形。これが、ピオールの本当の姿なのか。

「よかったね、ピオール。願いが叶ったね」

《さて、マーチ。お前さんはどうする? お前さんも、ただの人形に戻りたいのかい?》

「でもボクは、意思を持っているというだけの、ただの人形なんだよ。これ以上、どう戻ったらいいのか分からない。ピオールのように林檎を食べられるわけでもないしね。それに、ボクはまだ、これからどうすればいいのか考えがまとまらないんだ」

《考えるのは自由だ。お前さんには時間はいくらでもある。ゆっくり考えなさい》

「うん、ありがとう」

 マーチはしばらく、木の下で暮らすことにした。時にはぎこちない動きで動物たちと戯れてみたり、時には人形に戻ったピオールと肩を並べて人形ごっこをしてみたり。ピオールはもう言葉を話せないけれど、何を考えているのか、マーチには良く分かった。彼はとても退屈しているようだ。

 そうして自分のことを考えながら、木とも色々会話した。

「木のおじいさんは、どうして植物なのに言葉が話せるの?」

《さあねえ、長い間生きていると、こういう力がついてしまうものなのかもしれない。ある日突然、何もかもが分かってしまった気がしたんだよ》

「何もかもが分かって、嬉しい?」

《そうだね、嬉しい時もあるし、悲しいときもある。外の世界に、見たこともないものがたくさんあって、それを知る事ができるのはとても楽しいが、未知のものを自分の目で見に行けない事は、とても悲しい》

「じゃあ、こんな力、ないほうが良かった?」

《いいや、そうは思わんよ。全てを知らなければ、確かにただの一本の木として幸せに暮らせただろう。じゃが、知ってしまったからには、それを後悔するわけにはいかない。結果には必ず、過程がついてくる。きっと今わしがこんな姿になったのは、今まで生きてきた中で、こうなりたい、と望んだ事があったからなんじゃろう。それを無下にしてはいけない。それに、言葉を話せたから、今のように楽しい時間もあるんじゃから、慣れれば意外と楽しいものよ》

「ボクと話しているの、楽しい?」

《ああ、話し相手になりそうな者は、滅多にここを通らんからな》

「えへへ、良かった」

 マーチは少し幸せな気分になり、木の幹に腰掛けた。

 隣に座ったままのピオールは、話をしたくてうずうずしているようだった。


 ここで生活を始めて、少し経ったある日、マーチは巨木の上に小さな鳥の巣があることを知った。そこで生まれた雛たちはもう大きく成長し、元気に巣立っていったが、一羽だけ、未だに飛び出せない臆病な雛がいることを教えてもらった。

「どうして、あの子は飛べないのかなあ」

《迷っておるのだよ。このまま飛んでいいものなのかどうか》

 巨木は、この雛を最後まで飛び立たない居残りだから、ラストと名づけて呼んでいた。

 ラストは他の兄弟たちと比べて好奇心が強く、やんちゃな性格だった。だから巨木ともすぐに親しくなり、いろんなことを話してくれたという。

《あの子は鳥としては少し特異な考え方を持っておるようでな。知能が高い、その分不器用になる。立ちはだかる壁も大きいんじゃ。

 ラストは、わしを――この木を愛してくれておる。もちろん、他の子も愛してくれておるが、ラストだけは、そのことについて大きな罪悪感を持ってしまったんじゃ。

 わしや母親が、こんなにも良くして自分を育ててきてくれたのに、それに対して恩返しもしないまま、どこか遠くへ旅立ってしまってもいいのだろうかと。

 その中にはもちろん旅立つ事への恐怖もあるじゃろう。じゃがそれ以上に、いま自分にできる事が何なのか、本当にこれだけなのか、何か他の形できちんとした恩返しができるのではないか。

 と、考えているうちに戸惑いばかりが大きくなってしまったんじゃろう》

「何だか、人間みたいだね」

 マーチは思った。人間は互いの関係を重んじる事が多い。

 誰かに感謝を伝えるために、全てを円満にしようとするあまり自らを犠牲にしてきた人たちを、マーチはたくさん見てきた。

 人形の目線から見たから、何となく分かる。

 その人たちは、大切なものを手に入れるために大切なものを捨てようとする。

 もう、何が本当に大切なのか分からなくなるくらい、一生懸命に。

 でも、マーチはそんな人間を愚かだとは思ったことはない。むしろ、そんなに一生懸命になれる彼らが大好きだった。

 だから、ラストのことだって馬鹿にしない。

 この巨木も、そう思っているだろう。

「なら、ボクみたいに待てばいいよ。自分で決められるまで、ゆっくりここで考えればいいんだよ」

《それは無理なんじゃよ、マーチ》

「どうして?」

《渡りの季節が、もうすぐ終わってしまう。巣立った雛たちは他の場所からも飛び立った多くの仲間たちと共に、これから南へ向かわなくてはいかん。遅れて一羽だけ、後から飛び出しても、彼らに追いつく事はできない。たった一羽で海を越えるのは不可能じゃ、すぐに天敵や厳しい環境に飲まれて死んでしまう。

 かといって、ここでまた一年を越してしまえば、唯一の機会を失ったラストはもう二度と、ここから離れられなくなる。それは避けなければならない。じゃから、今しかないんじゃよ》

 マーチは上を見上げた。大きな緑の中に、小さな鳥の巣がある。母親は先に巣立った子供たちと一緒に、外の枝でじっと待っている。

 巣の中で、一羽だけ震える声を出すのは、ラストだ。

「おじいさん、ラストたちは南へ飛んでいったら、その後はそこで暮らすの?」

《しばらくはな。ここにもやがて冬が訪れる。その間は暖かい南の国で生活するんじゃ。そして、こちらに春が訪れたら、またここへ帰ってくる。新しい命を宿しにな》

「その事を、ラストは知っているの?」

《もちろん知っているはずさ、鳥は生まれたときから、そういう習性を身体に染み込ませて生まれてくる。長い間先祖から受け継がれた記憶が、体の中で生きているんだから》

「でも、ラストは他の鳥とは違うんでしょう? 不器用で、人間みたいだ。ひょっとしたら、普通の鳥なら当たり前に知っている事を、ラストは知らないのかもしれないよ。だから、真っ直ぐ自分の道を進めないのかもしれない」

《なるほど。だとしたら、もうラストには海を渡る事はできないという事か。このままここで冬を越せば、確実に寒さで死んでしまう。そう運命付けられた子だと、そういうことなのかな》

「そんなことはないよ。だって、ラストは頭がいいんでしょう? だから、色々悩んでいる。なら、教えてあげれば、きっとすぐに理解できるはずさ。おじいさんなら、ラストに教えてあげられるでしょう、なぜ羽ばたかないといけないのか、ここから出て行かないといけないのか。元気に飛び立ってまたここへ戻ってくる事が、おじいさんたちにとってすばらしい恩返しになるんだって、おじいさんは教えてあげられるじゃないか。きっとおじいさんは、そのためにここにずっといて、話ができて、何でも知っているんだよ。そうに違いないよ」

《ああ、そうなのか。そのために、わしは今、こうして意志を持って立っていられるのか。……なるほど、そう考えると、自分の中にあった悲しさが消えていくようだ。ありがとうマーチ、わしはやっと、自分の存在について少し理解できた気がするよ》

 巨木は、ラストに言って聞かせた。

 自然の流れを。今までラストがしてきたこと、考えてきた事は決して無駄にはならないと。

 そして、羽ばたける翼を持つ鳥として、最も大切なことを。

 でも別に強制はしない。ずっとここにいるという選択肢も、残っているのだから。最後に決めるのは、ラスト自身だということを。

 それをラストは理解した。すぐにとは行かなかったが、巣の端で足を踏ん張り、何度も何度も翼を動かすようになった。

 本当は飛びたかったのだ。引っかかっていた何かが、少しずつはがれて、体が軽くなっているように思えた。

「頑張ってラスト! もう少しだよ!」

 やがて、その足は巣を蹴り。

 その身体は見事に空へと舞い上がった。

「やったね、ちゃんと飛べたよ!」

《よかった。また、次の春に大きくなって、帰っておいで》

 ラストは仲間たちと一緒に、南の空へと飛んで行った。

 必ず戻ってくる事を、硬く約束して。

「これで、一安心だね」

《ああ、肩の荷が下りた気分だよ。そして、これから先もわしが何をするべきか、分かった気がする。わしの上で育まれる、たくさんの命を見守り、道を示して、背を押してやらねばいかんな》

「うん、よかったね。これでみんな幸せだ。ねえ、ピオール?」

 興奮し疲れたマーチは、ピオールの側に戻って休もうと思った。

 しかし、ピオールの姿はどこにもなく、いたはずの場所には、毛糸と綿の残骸が無残に散らばっていた。

「ピオール? どうしたの、一体何があったの?」

 残骸に語りかける。しかし、もうなんの気配もなかった。

「おじいさん、ピオールが動かないよ。死んでしまったの? どうして」

《ピオールは、自分で道を選んだ。その結果じゃよ。人間でいる時は、人形に戻りたくて戻りたくて、仕方が無かった。それで慌てて人形に戻ってみたが、おそらく今度は人間のように動いたりしゃべったりしてみたくて、たまらなくなってしまったんじゃろう。その気持ちを抑えきれず、身が引き裂かれてしまった。

 確かに、あのまま人間でいる事が良かったわけじゃないだろう。じゃが、もう少し人間でいる時の自分と向き合ってみるべきじゃったのかも知れん。それを教えてやれなかった、わしも悪いが……」

「…………」

 マーチは、巨木の根元に小さな穴を掘った。柔らかい土だったが、難航し、何日もかけて掘り抜いた。そこへピオールだったものをかき集めて入れて、土をかけた。

 ふっくら盛り上がった土の山に、木の棒を差した。

 そして、黄色い林檎を一つ、置いてあげた。

「おじいさん、ボクはもう少し、このままで考えてみるよ。何が正しいのか分かるまで、一人で歩いてみるよ」

《そうか。長い旅になるな。また気が向いたら、ここにもおいで。たまには話し相手もほしいものだ》

「うん、今までありがとう」

 マーチは歩き出した。

 どこへ行くかは、まだ決めていない。

 ただ、小さな身体は風に流されて進路が変わっていく。逆らって進めないので、風の吹くままに。

 正しい事なんて、あるのかどうか分からない。でも、考える事にきっと意味があるはずだから。

 やり直しは聞かないけれど、また初心に帰った気持ちで。

 一から出直そう。



◆ ◆ ◆



『……あなたが旅の道中で自分の才能を認められたとき、喜びに負けてすぐに了承を取らなかったこと、そして、悩んでわざわざ僕のところまで会いに来てくださったこと。僕はそれがとても嬉しかった。それでも、いつまでも迷いが消えないと言うのなら、それはやっぱりいけないことです。絵の好きなドーランさんは、その道へ戻るべきです。僕の感じた、ドーランさんの未来も、そちらの道へと進路は向いています。

 過去の重みを精一杯に背負って歩いてきたドーランさんなら、どんな道であっても必ず進めます、自信を持ってください、あなたの瞳の先は、必ず正しい道へと繋がっています』

『……そうか。君が言うのなら、間違いないだろう。気持ちの整理がついたよ。私は、再び画家になろう。そして、一から出直そう。

 ありがとう、アルビ君。君には、とても迷惑をかけた。だからこそ、君への感謝の気持ちを返すためにも、私は信じる道を進むよ。ありがとう、ありがとう』


 わたくしの上に幾粒かの滴が落ち、お書きになった文字のインクが滲みました。


『でも、いくら自分の道を真っ直ぐ進むとはいえ、やっぱり迷ってしまう事もあるだろう。そんな時は、君に会いに来てもいいだろうか?』

『もちろん、歓迎しますよ。魔導図書館は、来るものを拒みません。悩める人のためならば、入り口はいつでも空いています。僕も、ずっとここにいます。またぜひ、いらしてください』

『ああ、ありがとう。私はもう君に何もしてあげられないけれど、感謝だけはさせておくれ』


 なら一つ、とアルビさまはドーランさまにお願いをされました。


『この本、ずっとこんな場所にいるものですから、絵と言うものを知る機会がないんですよ。よろしかったら、彼の身体に、ドーランさんの素晴らしい絵を描いていただけないでしょうか? そうすれば彼にも絵の素晴らしさが分かりますし、僕やドーランさんにとってもいい思い出になる』

『ああ、いいとも。それくらいならお安い御用さ』


 アルビさまは次のページを魔法で状態変化させ、厚紙のような、硬い布に似た材質へと変換されました。

 ドーランさまは、そこへ黒鉛で素早く下書きをされます。デッサンと言うものらしいですが、下書きとは思えないほど丁寧で、もう完成だと言ってもおかしくないのではないかと思う状態でした。

 その絵に更に、油絵の具で色をつけてくださいました。セピア色、呼ばれるものでしょうか、一色でまとめられているのに、明暗がはっきりしていて、とても彩りが感じられます。

 わたくし、獣の臭いは嫌いでございますが、油の香りは意外と本と相性がよいと聞きます、多少きつくても歓迎いたしますぞ。

 そうして、でき上がった一枚の絵。

 わたくしが生み出されたとき、アルビさまに最初にいただいた魔力と、僅かな印象の記憶で、それが何だかよく分かります。


 そこに描かれていたのは、二人の人間の姿でした。

 一人は緩やかに伸びる長い髪を一つにまとめた、眼鏡をかけた女の人。少しお年を召されているのでしょう、口元や目尻に皺が見られますが、それは老いと言うよりも、溢れんばかりの笑顔がもたらした素敵な産物なのでしょう。

 初めて見る、ドーランさまのお姿です。


 そして、その人の腕に肩を抱かれ、幸せそうな表情を浮かべている、若い男の人――。

 真っ直ぐな髪は長すぎず短すぎず、かといって綺麗に整っているわけではありませんが、それでも違和感のない、不思議な雰囲気の人でした。この独特な感覚をここまで忠実に表現できるのは、ドーランさまの類まれなる才能、としか言えませんな。


 ああ、これが、わたくしのご主人様のお姿なのですね。

 今までもこれからも、決してお目にかかることはできないだろうと思っておりましたが、わたくしはとんでもなく幸福なNO TITLEでございます。

 幸せすぎて、逆に恐いくらいですな。


『ありがとうございます。これは、一生の宝物ですよ』


 それからは、わたくしの上には何もお書きにならず、動きと、表情の別れを惜しんでいらっしゃったのでしょう。


 そしてドーランさまは、お帰りになられたようです。

 やはり、別れとは時間が経てば経つほど惜しくなるものです。とても簡潔に、別れを告げられたみたいですな。


『アルビさま、気を落とされてはなりませぬぞ。別れの後には、新しい出会いがあるものです。それに期待を膨らませれば、寂しさなんて何のその!』

『そうだね。ありがとう、NO TITLE。こうしている間にも、時間は刻々と流れているんだから』


 アルビさまは、思っていたよりお元気そうでした。

 しかしやはり、何度も言うようですが、筆跡では人の心は分かりづらいものです。

 わたくしの努力が足りないせいもあるのでしょうか?


『ところでNO TOTLE。もう気付いているかもしれないけど……』

『何でございましょう?』


 アルビさまの持ち出したお話は、わたくしにとってはとてもショックなような、念願のような、不思議な感覚にさせてくれました。


『実は、君、もうページがないんだよ』

『と、言いますと?』

『書く場所がなくなれば、もう引退だ。君もやっと、憧れの隠居生活が送れるということだよ。次のお客さんで、たぶん最後かな』


 なんと!

 いつの間にか、わたくしのページは最後のほうまで、色々な物語や、会話で埋め尽くされていたようです。

 わたくしも、飽和される時が迫っていると言うことです。

 不安でもありますし、期待もあります。

 一生で一度のことですからな。


 さて、どのようなお客さまが、わたくしの最後を彩りに来てくださるのでしょうか?

 皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。

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