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第十四篇 「SANAMI」

『私はニマール。世界中の動物という動物、全てを愛する生物学者です。

 実は今、犬の研究を重ねているのですが、犬についてはご存知でしょうか?』

『ええ、もちろん存じております。犬といえば、飼い主に忠実で、人懐っこくて、猟にも適していて、肉食で……とにかく可愛いですよね』


 アルビさまは幼少の頃、お父様に内緒で、図書館の裏にて、こっそり子犬を飼っていたのだそうです。

 子犬と言っても、世界で一番大きいとされるジャイアント・ヘルハウンドの子犬ですので、その大きさは今のアルビさまよりも、はるかに大きかったはずですが。

 そんな巨犬が幼いアルビさまに跳びついて、噛み付かんばかりに顔を舐めまわす姿を想像すると。

 ………ああ、考えただけでもゾッといたします。


 もちろん、そんなものを図書館に入れたら、蔵書が痛んで、とんでもない事態になりますが。

 わたくしにとっても例外なく、あの毛や涎や足跡はかなりの天敵でございますから、もしアルビさまが、また犬を飼いたい、なんて仰られたら、断固反対させていただく所存であります。


 兎にも角にも、アルビさまは結構、犬がお好きの様子です。

『本当に、犬は可愛いですね。ですが、やはり一般人にとっての犬の知識とは、可愛いや癒されるなど、その程度のもの。私は学者として、更に詳しく犬の能力を見定めたいと、日々研究を続けているのです』

『へえ、それは素晴らしい。私も興味がありますね。

 ぜひ、一般人の知識しか持たない私にも、その功績をお教えいただきたいものです』

『いやいや、これは失礼しました。あなたみたいな聡明なお方に、嫌味たらしい薀蓄うんちくを垂れるなんて、面目ない。

 お教えしたいのですが、正直なところ、少し行き詰っているのですよ。

 今、私が研究しているテーマは、犬の帰巣能力の限界についてです。

 どういう話かと申しますと、犬は遠くの町や山に捨てられたり迷い込んでも、長い時間をかけて必ず住んでいた場所へと帰ってくる忠実さを兼ね備えているのです。

 その能力自体は、かなり研究が進んで、メカニズムは明らかにはなってきているのです。でも最終的なところ、どの程度まで遠くの距離ならば、戻って来れるのか。その限界は、まだ分からない。

 今までの最高記録は、アメリカン大陸の南北横断ですとか、エベレストン頂上から麓までですとか、すごい犬は大海原を渡って、島国に住む飼い主の下へ戻って行きました』

『はあ、そりゃあすごい。ど根性ですね』

『そう、ど根性なのです。それほどまでに、飼い主を愛しているのですね。

 犬にそこまで愛されて、人間とは、幸せな生き物だ。

 次に、私の最愛の犬、ジョゼといいますが、そいつを使って最後の実験を執り行いました』

『それは、どういったものですか?』

『私は北極に近い地に住んでいるのですが、この世界で自宅から最も離れた場所、すなわち南極にジョゼを置いてきました。

 それからもう、かれこれ5年は経ちますが、ジョゼは帰ってきません』

『………………』


 最早、死んでいるのではないでしょうか?

 わたくしは思いましたが、あえて文字を挟む失礼な真似はいたしませんでした。

 ニマールさま本人も、誰かに訊ねる必要などなく、もうとっくに自覚していらっしゃるのです。


『きっと死んでしまったんだ。南極で凍えたか、海で溺れて沈んだか、運良く大陸へ渡れたとしても、様々な困難ばかり。

 ですが、諦めかけた時になると決まって、ジョゼらしき犬を見た、という情報が私の耳に入ってくるのです。

 発見場所や時期も、ジョゼの足で進んだ場合の予想位置や進路とほぼ合致します。

 私はいても立ってもいられず、ジョゼを迎えに行きました。ですが、予想位置を推測して目的地へ向かっても、いっこうにジョゼと出会えない。

 擦れ違いになったのか、私の計算が間違っていたのか、それとも単なるガセネタだったのか……。

 私は今になって後悔しています。いくら研究のためとは言え、大事な家族であるジョゼを、あんな酷い目にあわせて……。

 懺悔を繰り返しました。毎日、教会へ通ってはジョゼの無事を祈りました。ですが、もう限界です。私の身も心も。

 お願いです。ジョゼの居場所を探してください。

 一刻を早くジョゼを見つけてあげたい。

 もし生きて会えるのならば、もう二度と放さない。

 もし死んでいるとしても、二度と放さない。

 あなたのお力で、ぜひジョゼの居場所を!』

『……その犬は幸せだ。そこまで思ってくれる人が、帰りを待っているのですから。

 分かりました。というより、あなたの犬が今どこにいるか、私には、はっきりと分かっています。

 でも、お教えする前に、心構えとして、ひとつ話を聞いていただけますか?』

 急かすニマールさまを何とか説得し、アルビさまは、とあるお話を刻まれました。



◆ ◆ ◆



 飼い犬のサナミがいなくなって、もう一年が経とうとしていた。

 決して死んだわけではない。行方不明なだけだ。

 そう、決して……。


 唯はこの一年、ずっと自分にそう言い聞かせてきた。

 心を騙さなければ、きっと深い深い悲しみから逃れられなかった。

 サナミは二年前、雨の中で必死に助けを叫んで鳴いていた野良犬の子供だ。

 その姿を見た唯は、サナミを放っておけず、あまり気乗りしない親を説得し、飼いはじめた。

 唯は、まだ産まれたばかりの子犬だったサナミを、とても可愛がっていた。

 初めは、どうしてこんな可愛い犬を捨てたんだろう、などと、前の飼い主に怒りを感じていた。

 だが、半年も経つと、サナミとの出会いをくれた、見知らぬ犬捨て人に感謝をし始めていた。

 サナミの幸せを願って、ずっと一緒に暮らしてきた。

 なのにもう、サナミはいない。


「……行ってきます」

 唯はいつもどおり、学校へ行こうと家のドアに手をかけた。

 サナミが姿を消したその時から、唯は元気がなく、よく溜息をついている。

「唯、もうサナミのことは忘れなさい。一年も経っているんですもの、きっと誰かに拾われているいるわ」

 唯の気持ちを宥める優しい口調で、母は言った。

「やだな、もう気にしてないよ」

 そう返事をして、そそくさと唯は家を出た。

 ――本当は、サナミがいなくなって、喜んでいるくせに……。

 そう思いながら、一気に唯は駆け出した。

 少しばかり突っ走っていくと、突然、犬の鳴き声が聞こえた気がした。

「サナミ……?」

 思わず立ち止まり、その名を呼んだ。

 返事こそないものの、微かに鳴き声の主がいると思われる場所が掴めた。

 どうやら、水道管工事で立ち入り禁止になっている、脇道の奥らしい。

 回り道できる場所はない。一か八かだったが、助走をつけて、唯は黄色と黒の立て札と、下水道工事の大きな穴を飛び越えた。

 ギリギリ落ちそうにもなったが、体がふわりと軽くなり、きちんと着地できた。

 と、思ったその時。

「えっ、キャァ――!」

 急に足元に出現した、別の大きな穴に、唯は真っ逆さまに落ちていった。


 ――ピチャン。

 水滴の落ちる音と、頬に当たる冷たい感触で、唯は目を覚ました。

 ゆっくりと、唯は上体を起こす。体がだるい。

 ……どうやら、気を失っていたのか。

 頭上からポタポタと落ちてくる雫。顔に当たっては顎を伝って流れていく。冷たいが、朦朧とする意識を正常に戻すためには、丁度良かった。

 だが、事態はかなり深刻だった。顔だけには留まらず、唯は全身びしょぬれになっていた。

 頭がすっきり整頓されていくのと比例して、制服が肌に張り付いて、気持ち悪い。

 暗闇の中で、頭の中に色々な考えが浮かんでは消えていく。

 そういえば、学校どうしよう。サボりになるかな。今何時だろう?

 帰ったら洗濯物を入れるように頼まれてたっけ。

 必死に今の現状から逃避を試みていた。だが、今は混乱している場合ではない。

 唯はよろけながらも立ち上がり、スカートの裾を絞ってみた。大量の水が流れ落る。唯の足元には水路があり、水が流れていた。

 穴に落ちた時に、水の中に突っ込んだのだろう。その後、自力で這い上がって、気を失った。

 あるいは、誰かが拾い上げてくれた……?

 唯はそれはないと否定した。いや、否定せずにはいられなかった。

 後者だった場合、それが誰なのか、全く見当がつかない。逆に不気味だ。

 唯は今、地下の下水道にいるとみて間違いない。ちゃんと飛び越えてきたはずなのに、どうして落ちたのだろう。記憶がはっきりしなかった。

 地下水道の奥は、うっすらと明るかった。唯は壁に手を当てて、ゆっくりながらも少しずつ進んでいった。

 まずは、出口探しが先決だ。

 だが、どっちへ進んでいけばいいのか分からない。出口らしき穴も見つからない。

 その不安は、深い闇の奥へ連れて行かれている錯覚を起こさせた。

 どこまで行っても、同じ道が続いている。出口のない迷路に迷い込んだ気分だ。

 一旦立ち止まる。くしゃみを一回。太陽の光が射さない地下の空洞では、服はいっこうに乾かない。逆に、体温を吸われていた。

 早く外に出ないと風邪を引いてしまうと。唯は足を速めた。

 しばらく進むと、初めって分かれ道に突き当たった。真っ直ぐ進むか、ほぼ直角に折れ曲がった脇道を行くか。

 少し悩んだが、ここは真っ直ぐ前進。

 ふと、何かにぶつかり、唯はしりもちをつく。

「あう……」

 痛いやら寒いやらで、声もうまく出なかった。

「いたーい……。お、お姉ちゃん、大丈夫?」

 目の前から聞こえてくる、幼さの感じられる高音の声。唯はびっくりして顔をあげる。

 視線の先には、唯と同じくしりもちをついて倒れている、小さな女の子がいた。周囲を照らす、ぼんやりとした謎の光が、女の子の姿を浮かび上がらせていた。

 髪は唯と同じセミロングくらいの長さ。もっともくせ毛の唯とは違い、直毛の綺麗な茶髪だ。側面の髪を上の方で二つに括って、リボンで結んでいる。リボンと同色の涼しげな水色のワンピースは、スカートの裾が少し濡れていた。

「……あなたも、穴に落ちたの?」

 唯は訊ねた。女の子は頷いて、勢いよく立ち上がった。

「でも平気だよ、ミサは強い子だもん、泣かないよ」

「……そうだね」

 一瞬、呆気にとられたが、その純粋無垢な勇気に、自然と笑顔で応える。

「ミサね、出るところは見つけたんだけど、高くて出られなかったの」

「出口?」

 女の子――ミサは、にっこりと頷いて、未だに立ち上がれない唯の手を掴み、引っ張った。小さな手に引かれた唯の身体は、ふわっと軽く浮かぶ感覚にとらわれ、気がつけば直立していた。

「お姉ちゃんなら出られるかも。一緒に行こう」

 ミサはぐいぐいと唯を引っ張る。それに従って、唯はよろけながらついて行った。


 ミサに連れてこられた場所は、下水のマンホールの真下だった。

 かすかに蓋の隙間から、光が差し込んでいる。ちゃんとハシゴが掛かっているが、1メートルにも満たない程の身長のミサは、ハシゴの1番下にも手が届かない。

「お姉ちゃんだったら、出られるよね……?」

 少し心配そうに、ミサは視線を向けてくる。唯も決して長身と言うわけではないが、頑張れば登れない高さではない。だが、体力は底を尽きかけているし、冷たさで手もマヒしている。

 それでも、他に道がないのだから、やるしかない。

「大丈夫だよ。背中に乗って」

 唯はしゃがむ。ミサはゆっくりと唯の背中によじ登った。

 先に自分が登って、助けを呼ぶ方法もあった。だがこれ以上、この子を暗い場所に独りぼっちにしておきたくなかった。

「しっかり摑まってね」

 ミサの状態に気を遣いながら、唯はハシゴに手をかけた。

 何とか登れそうだったが、地上までの道程は、予想以上に険しかった。

 背中に張り付いているミサを片手で支えているため、実際は片手でハシゴを登っていくも同然だ。

 それでも、体は動き続けた。おそらく今の唯は、気合いだけで動いているのだろう。前方に見える、ハシゴの横棒が、少しずつ減っていく。あと2本、あと1本……。

「ミサちゃん、もう一息だからね、頑張って」

 唯は、ミサを支えていた手を、ゆっくりと離した。ミサも、背中から落ちまいと、足に力を入れてしがみ付いている。

 足が離れれば、腕に重みが掛かり、唯の首を絞めかねないと、気を遣ってくれているのだろう。

 そんなミサの些細な努力に応えるべく、離された唯の手は、マンホールの蓋に触れる。手の平に力を込め、思い切り押し上げた。

 ゆっくり、ゆっくりとマンホールの蓋は開いていく。それにつれて、太陽の光が差し込み、唯の目を眩ませた。

 一瞬、力が抜け、マンホールの蓋が再び閉じそうになる。持ち直す気力は、はっきり言ってなかった。

 もうダメだ! そう思った刹那、マンホールがふわっと軽くなった。まるで、発泡スチロールでも持っているみたいだ。

 さっき、ミサに手を引かれて起き上がったとき、自分の体が軽くなった。その時の感覚に、とても類似していた。

 原因は分からずとも、とにかく外には出られた。太陽は、やや真上の高いところにあった。昼頃なのだろうと、唯は思った。

 暖かい地面に手をつき、勢いをつけて外に出る。

 この時、唯は生きている心地を実感した。マヒしていた手足に、感覚が戻ってくる。

「やった……。外に、出られたよ、ミサちゃん」

 少し息を切らしながら、唯はミサに笑いかける。

 唯の背中から降りたミサは、何もいわずに立ち尽くしている。どこか寂しげだった。

 唯は気に懸ける余裕もなく、辺りを見渡した。穴の側に、カバンを見つけた。学校指定の黒いカバンには、ドラえもんのキーホルダーがついていた。明らかに、唯のものだ。どうやら、一緒に落ちずに済んでいたらしい。

 唯は、やはり下水道の穴に落ちたというわけだ。だが、落ちた場所からかなり歩いて進んだはずなのに。

 全然進んでいなかったのか。もしくは、落ちた後に、かなり遠くまで、移動させられていたのか。

 訳が分からず、少し怖くなった。

 いつも通っている道、知っている景色のはずなのに、何だか違和感がある。立ち上がって、さっきよりも高い位置から辺りを見渡すと、理由は自ずと分かった。

 ――誰もいない。工事の人も、近隣の住民も、通行人や車さえも。

 昼時だから、食事をしているのかもしれないが、唯の知る限りでは、工事現場のおっちゃんたちの昼は遅い。2時か3時にならないと、休憩しないはずだ。

 あまり深く考えても埒が明かない、唯は考え事をやめた。

 スカートを軽くはたく。まだ服は濡れたままだけれど、この天気なら、すぐに乾くだろう。明日が休みで幸いだ。クリーニングに出さないと。

 そう思いがらも、今すべき事柄に目を向け直した。

「ミサちゃん、お家どこ? 送って行ってあげるよ。お母さん、心配してるかも知れないね」

 そう、まずはこの子の家へ、もしくは交番へ連れて行ってあげなければならない。学校はこの際、無断欠席でも止むを得ない。

 穴に落ちていました。ついでに、迷子の女の子を助けていました。正直に説明すれば、先生も親も分かってくれる。はず。

「ミサ、お家ないよ……。ずっと独りぼっちだから」

 ミサの言葉に、唯は顔を顰める。

 家が分からない、という意味なのだろうか。

「えっと……」

「ごめんなさい。ミサは悪い子だから、お姉ちゃんとずっと一緒に穴の中に居たいと思ったから、みんないなくなっちゃった。もう独りぼっちはいやだから、だから……」

 ミサは泣き出す。言っている意味が分からず、唯はおろおろする。

「とりあえず、交番へ行こう」

 唯は、泣きじゃくるミサの手を掴み、ゆっくり歩き出した。


「すいませーん。あれ?」

 交番に、お巡りさんはいなかった。パトロールにでも行っているのだろうか。

「困ったなー」

 唯がどうしようかと悩んでいると、ミサはポツリと呟く。

「おまわりさんは、ミサのお家なんて探してくれないよ。お仕事じゃないもん」

「え?」

 すると、チリンリチンと、自転車にのったお巡りさんが走ってきた。

「どうしたんだい?」

 お巡りさんはブレーキをかけ、唯たちの前に止まる。

「すいません。迷子なんですけど」

「預かるのは構わないけれど、ちゃんと家を探してあげたほうが良いと思うよ」

「え、あたしがですか? どうしてですか?」

「警察では、そこまで面倒を見切れないからだよ。手に負えないからね」

「そんな、おかしいじゃないですか。それがお巡りさんの仕事じゃないんですか?」

「警察では、家捜しは管轄外だよ。しばらく預かっていても、すぐに処分されてしまうし……」

 警官の言葉が、いまいち理解できない。日本の警察は、いつからこんなにも薄情になったのだろうか。

 お巡りさんと唯が討論している間に、ミサは走り出していた。

「あっ、ミサちゃん!」

 唯も、慌ててミサの後を追いかけた。

 角を曲がり、少し進んだところで、ミサは立ち止まっていた。

「お姉ちゃんは、ミサのこと好き?」

 追いついてきた唯に、ミサは背中を向けたまま問う。

「え、うん、好きだよ。今日会ったばかりだけど、大好きだよ」

「本当? ならいいよ、お姉ちゃんがミサのこと好きなら、もう寂しくなんかないから」

 振り返り、泣いた後の赤くなった目を細めて、ミサは微笑む。ミサは髪を結んでいたリボンを片方だけほどいて、唯の手首に結びつけた。

「もう行かなくちゃ。ありがとう、見つけてくれて。ミサのこと、忘れないでね」

 そう言って、ミサはまた走り出した。

「えっ? ちょっと待って、ミサちゃん!」

 唯の呼びかけに応えたのか、ミサは立ち止まって振り返り、

「ありがとう、唯ちゃん」

 そして再び走り出し、すぐに見えなくなった。唯は呆気にとられてしまい、しばらく立ち尽くしていた。

 なぜ、ミサは唯の名前を知っていたんだろう。教えていないはずなのに。

 色々と考えているうちに、頭がくらくらしてきて、目が霞んできた。

 唯の意識は、急に途絶えた。


「お―い、ねえちゃん、大丈夫かい?」

 頭にガンガン響いてくる、でかい声で、唯は目を覚ました。ゆっくり目を開いてみると、黄色や青色のヘルメットを被ったおっちゃんたちが、唯を見ている。

 びっくりして、唯はがばっと起き上がった。

「あ―良かったよ―、気がついて。急に足滑らせて穴ん中に落ちてきたから、びっくりしちまってよ―」

「……今の、夢なの?」

「頭打ってないかい? 救急車呼ぼうか?」

 心配そうに話しかけてくる青ヘルメットのおっちゃんに、唯は問うた。

「今、何時ですか?」

「あ? ああ、ちょうど8時30分だ」

「何曜日ですか」

「き、金曜日だよ」

 ピンと外れな質問を受け、おっちゃんはますます心配そうな顔をする。

 だが、唯には大事な確認だった。穴に落ちてから、数十分しか経っていない。さっきは昼間だったのに。

 やっぱり、夢だったのだろうか。

 ゆっくりと立ち上がる。おっちゃんはびっくりする。

「本当に、大丈夫かい?」

「はい。ご迷惑おかけしてすいませんでした……」

 唯はぺこりとお辞儀し、ふらりと歩いて行った。

 行き先は学校。もう既に予鈴は鳴り終わっている。


 遅刻して学校に来たものの、さっきのことが気になって、授業なんて全く頭に入ってこない。今日の授業に体育がなくて、不幸中の幸いだ。ただでさえ鈍くさいのに、こんな状態で体育なんかやったら、もはやどうなるか分からない。

 ノートの片隅に、〝ミサ〟と書いてみる。

 あの子は、一体誰だったのだろう。

 それを逆さまに書いてみた。サミ。その2文字の間に"ナ"を入れてみる。

 ――サ・ナ・ミ――

 バカバカしい。自分でもそう思った。サナミは犬だ。

 溜息をつく。頭の中には、まだ何か引っかかっていた。


 結局、一日中ボーっとして過ごして、家に帰ろうとしていた。

 だが、やはり今朝の出来事が忘れられずに、足は勝手にあのマンホールのある場所に向かっていた。

 工事のおっちゃんはもう帰ったらしく、人気のないそこには赤いコーンが立てられている。

 その向こうは、公園になっている。唯はマンホールを素通りし、側の公園へ向かう。誰もいない公園は、とても寂しかった。

 唯はブランコに座り、ボーっとしていた。そんな時、腕に何か巻きついていると気付いた。

 制服の袖に隠れていて、今まで見えなかった。水色のリボンだった。

 あの時……ミサがくれたリボンだ。

 唯はリボンをほどき、まじまじと見つめる。

 夢じゃなかった?

 ミサは何者だったのだろう。今日の出来事は、いったい何だったのだろう?

 ざわざわと、辺りの木々がざわめき、風が吹き始めた。

 その風に奪い取られるみたいに、唯の手からリボンが離れる。慌てて追いかけた。

 このリボンを失うわけにはいかない。ミサが、今日起こった不思議な出来事が、全てなくなってしまう気がした。

 そんなの、絶対に嫌だった。

 リボンを追いかけて、公園の脇の林に飛び込み、少し進んだところで風が止み、リボンはひらひらと地面に落下した。

 拾い上げようとして見下ろし、唯は吃驚して後ずさる。

 足元には、横たわる犬。ピクリとも動かない。死んでいるみたいだ。

 いや、それよりも、この犬は――。

「サ、ナミ……」

 唯の声は震えていた。間違えるはずもない。最後に見たときより大きくなっているが、間違いなくサナミだった。

 サナミの片方の耳には、水色のリボンが結んであった。唯が風から取り戻したものと、同じものだ。

『ありがとう、唯ちゃん』

 ミサの声が聞こえた気がした。唯の瞳から涙がこぼれる。

 サナミが死んでしまった悲しみからだろうか。しかし、それ以上に嬉しかった。

 サナミが会いに戻ってきてくれた。

 教えてくれたのだ。ここにいることを。きっと、見つけて欲しかったんだ。

 お巡りさんの不親切な発言も、今なら何となく分る気がした。迷子になった犬は、人間と違って、二度と家には帰れない。飼い主に、見つけてもらわなければ。

 家をなくしても、サナミは生きていた。1年近くも、たった一人で生きてきた。

 唯はしゃがみこみ、サナミの頭を撫でた。長くて平べったい。垂れている耳も、顔も、冷たくなっていた。

 明日、埋めてあげよう。ちゃんと、会いに来るからね。

 唯は立ち上がり、歩き始めた。


 幸い、明日は休み。時間はいくらでもある。


 ――別れを告げる時間は、いくらでもある――



◆ ◆ ◆



『犬の帰巣本能はとても強く、どんな環境からでも生き抜いて、元の場所へ戻ってくる。

 あなたの研究結果は、間違っていません。もう少し、飼い犬の帰りを、自宅で待ってみては』

『……そうですね。ジョゼは、まだ生きている。そう信じて、待ってみます』

『ああ、そんなニマールさんに一言。一週間後、家の裏の花壇を調べてみてください』

 そしてその日は、ニマールさんは帰って行かれました。


 一週間後。

 ニマールさんの家の裏の花壇から、犬の死骸が発見されたと、アルビさまから伺いました。

 死体はまだ新しく、つい2・3日前に力尽きたのでないかという見解でございます。

『ちゃんと帰ってきたのですね。素晴らしいお話ですな。ですが、そこまでして戻ってきたい場所だったのでしょうか? 自身を実験道具に使ってくる飼い主なんて、犬的にはもう、願い下げかと思いますけれど』

 わたくしが犬の境遇に同情していると、アルビさまは、陽気に書き込まれました。

『犬には、飼い主の側しか、居場所がないんだよ。短い人生を、大切な人の側で暮らす。それは、犬にとって最高の幸せなんだと思う。

 また急に、犬が飼いたくなってきたな』

『いけません! ずっと昔だって、犬が図書館の中で暴れ回ったから、お父様に怒られて、棄ててこさせられたのでしょう?

 今度はお父上がいないとは言え、わたくしや図書館の本たちが、許しませんぞ!』

『分かったよ。僕は、NO TITLEを飼うだけで精一杯みたいだ』

 まったく、人を犬みたいに。

 でも、わたくし達だって、ここにしか居場所がないのだから、犬と大して変わらないのかもしれません。

 外に出てしまえば、ただの白紙の書物なのですから。


 さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけをつくりに来てくださるのでしょうか?

 皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。

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