第十三篇 「ユキイソギ」
『やあ、はじめまして。君がアルビ君だね? エスナーク氏の末息子であり、魔導図書館の現管理人』
馴れ馴れしい、と言ってしまうと響きが悪うございますが、やけに懐柔感溢れる文字をお書きになるお客さまがやってまいりました。しかしアルビさまは、そのお方に見覚えがない様子でございます。
『えっと、申し訳ありません。以前にもここへいらっしゃった方でしょうか?』
この魔導図書館を訪れる方は数多といらっしゃいますが、そのほぼ全てといっていいほどの方々は、一度来ただけで二度と、この地をお踏みになることはございません。
その膨大な書物の情報を頭の中に詰め込みすぎて、頭がパンクしてしまったり、開いてはならない有害な本を開けてしまったため、呪いに取り付かれてしまったり……という噂も多々ございますが、本当のところははっきりした理由は分かっておりません。
長年ここで暮らしている兄たちの話などから、わたくしが憶測するに、きっと並の方々ならば、一度来るだけで充分、悩みが晴れて、自分の欲求が満たせるのでしょう。それでも満たされない何かや、強い意志、心残りがある方のみが、ここへ再訪されるのではないでしょうか。
今いらっしゃっている方も、きっとそういう類なのかもしれません。
『記憶力は悪い方ではないと思っているんですけれど、あなたの顔に見覚えがありません。でも、こちらが何も説明せずとも進んで筆談をしてくださり、この図書館のマナーも知り尽くしていらっしゃる。やはり、昔ここへ足を運んだことがある方ですよね?』
『そうだよ。君がうんと小さかった頃に、一度だけね。その頃から言葉を話せなかった君と、こうやって筆談をしたこともある。まあ、あんまり会話になっていなかったけれどね』
『そうでしたか。すみません、全く覚えていません』
『気にする必要はないよ。当然だろうしね。では、改めて初めまして。僕はタキヤマ・キョウヘイ。君のお父上の知人だ。そしてこれからは君が僕の知人になってもらえると嬉しいな』
『こちらこそ、初めまして。アルビです。じゃあひょっとして、今日いらっしゃったのは何か父がらみで……?』
『うん、まあね。昔とてもお世話になった事があって、遅くなったけど御礼をと思って近くまで来たんだけど、もう亡くなっていたとはね。正直驚いたよ』
『そうでしたか。では、タキヤマさんのお気持ちは、僕から父へ届けておきましょう。遠い所をわざわざありがとうございました』
『ありがとう。――ところで、君はここで占い師として迷い人の道を示す仕事をしているらしいね。結構巷じゃ評判だよ』
『それはありがとうございます。とりあえず、僕はここから動けませんので、ここで何か出来るかとはないかなと思って考えた結果の事なんですよ』
『いや、素晴らしいと思うよ。そうだ、ぜひ、僕の話も聞いてくれないかな』
このタキヤマ、というお客さまも、何かお悩みがあるのでしょうか。筆跡からはそうは思えないのですが。
たいてい、ここへ何らかのお悩みを抱えていらっしゃるお客さまの筆跡には、その悩みがくっきりと浮かび上がっているものです。
文字は人の心を映す鏡。素直な文字は、その人そのものなのです。だからといって、決して字の綺麗な人の心も綺麗だと言うことにはなりませんが。
要は一生懸命さの問題でございます。
このタキヤマさまの文字、飄々としていて捉えどころがなく、まるで空気みたいな印象を受けます。そこに悩みがあるのかないのか、判別つけることができないわたくしは、まだまだ未熟。と言うことでございましょうか。
『僕は仕事の一環でね、世界中のいろんな国を回って生活をしているんだ』
『失礼ですが、どのようなお仕事ですか?』
『まあ、困っている人を助ける仕事かな。広い意味でいえば』
『素晴らしいですね。僕もいつかは諸国を巡って、人助けなどがしてみたい』
『ふふ、そうかい? それでね、仕事の関係で今まで出会ってきた人たちとの思い出をどこかに残しておきたいと考えているんだけど、僕は文章を書くのが苦手でね。もしよければ、僕が出会ってきた彼らの軌跡を、君の手で保管してもらえないだろうか?』
『なるほど、このNO TITLEにあなたの体験談を記したいと言うわけですね。そういう話だけれど、君はどう思う? NO TITLE』
アルビさまは、わたくしに直接、お尋ねになりました。
本来ならば、わたくしがお客様の前で自分自身の意見をページに書いて提示する行為は、禁止されております。
なのに、アルビさまから率先して禁止の解除をしてくださったということは、このタキヤマさまが、ただの人間ではない、という可能性もありますな。
ですので、わたくしもしっかりと、意見を述べさせていただきます。
『人の出会いというものは、とても美しいものだと伺っております。わたくしも今まで、何人かの悩める客人とアルビさまとのやり取りを聞いてきて、中々良いものだと思っておりました。きっとタキヤマさまの出会いも、それはそれは素晴らしいものでございましょう』
わたくしが賛成の意見を述べると、続いて綴られたタキヤマさまの文字が驚きと歓喜を感じるものへと変わりました。
『へえ、この本は意志を持っているんだね、面白いな。そういってもらえるとありがたいよ、ありがとう』
『いえいえ、これがわたくしの使命でございますから』
『それでは、お話していただけますか? あなたの思い出を、ここに綴っていきましょう』
『うん、お願いするよ』
そして、タキヤマさまは自分の心の中にしまっておられた、以前出会われた、ある人の織り成す、なんとも不思議な物語をお語りになり始めました。
◆ ◆ ◆
走る、走れ、走ろう。
登る、登れ、登ろう。
『地平線の彼方に、陽が落ちました。これにて、本日を終了いたします』
頭上から女の声が落ちてきた。直後、足元の階段が平らになり、勾配の激しい急な坂道へとかわる。
「ちっくしょー! 今日も駄目かよ!」
足が滑った。転ぶ。後は滑り台のようになってしまった螺旋状の階段を滑り落ちるだけだ。落ちるところまで。
と言っても、落ちる場所は決まって十六階。それ以下の階へは、いくら頑張っても降りることはできない。
この塔の、最上階へ到達するまでは。
「お前も懲りないなー、ハットリ」
「別に普段どおりに過ごしてりゃ、そのうち嫌でも頂上に行けるだろう。何をすき好んで、ユキイソギみたいな真似してるんだよ」
「うるせー! 頂上行くまでに何十年かかると思ってるんだ、俺は待てないの、今すぐてっぺんに行きたいんだよっ!」
人を珍獣でも見るように馬鹿にする友人どもにデコピンを食らわせ、俺は機嫌悪そうにその場を去った。
俺はハットリ・カツヤ。十六歳。
この名前もない、どこに建っているのかも分からない巨大な塔で、生まれて間もない頃から暮らしている。
塔は一階から始まり、同じ面積を保ったまま、はるか天空まで聳え立っていると言う。天辺まで登って戻ってきた奴がいないので、その実態は想像の域を出ない。
塔には俺以外にも、たくさんの人が生活しているらしい。生まれたばかりの赤ん坊から、高年齢の年寄りまで、多数。だが、自分と同い年の連中としか顔を合わせることはない。それぞれの生まれ年に従って居住階域が定められているため、自分の生活する階以外へは入ることができないからだ。
居住階域は毎年移動させられ、自分の歳の数だけ上の階へいけるようになる。俺は十六歳だから、今はこの十六階で生活している、といった具合に。
例外で「飛び級」というものもあり、それをするにふさわしいと認められると、一気に一番上の階まで行くことができる。俺の親友も一人、そうやって飛び級していった奴がいる。それ以外には、普通に階段を登って地道に歳を重ねて上へ行くしかない。
しかし階段があるのも日が昇っているうちだけで、夜になると階段は消滅。滑り台のようになって自分の階まで落とされる。
さっきの俺みたいにな。
《ハットリ・カツヤ! 今日も生活過程授業をサボったな? 罰として夕食抜き!》
黒い猫の仮面を被った、黒いフードつきマントに身を包み込んだ連中が数人、俺の周りに集まってくる。足音も無く、ただ、わらわらと空気を振動させながら。
それと引き換えに周囲にいた友人や通りかかった連中はとばっちりを食うまいと、散乱して自室へ非難した。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 俺、朝から何も食ってないんだから」
《それは我々の責任外問題だ。成人階まで後わずかに迫ってきたこの頃、もっと自立意識を持て》
同時に食堂へ続くドアに重なるようにシャッターが下り、行く手を阻んだ。俺の目線の高さと同じ位置に張り紙が貼り付けられている。
『ハットリ・カツヤ立ち入り禁止』
「くっそー……」
おれはしぶしぶ、自分の部屋に戻った。
この塔はそれぞれの階に数十人の人間が共同生活をしている。円形をしていて、睡眠と学習用に設けられた各々の私室が外壁に隣接するように用意されている。その隙間に上へ登る階段が設置されている。下へ降りる階段は存在しない。降りる必要もないのだろう。
中央には俺たちが生活過程授業、すなわち教養のお勉強をするための机と黒板が置かれた部屋が四つほど。そこで俺たちは、『ホゴシャ』と呼ばれる連中から、多くのことを学ぶ。
零階から十九階までの階に住む人間はまだ幼いため、一人で生きていくのに不都合が多く、問題が多いらしい。二十階以上、上に登ったときにしっかりと自立して一人で生きていく人間を育成するために、ホゴシャと言う連中が十九歳以下の子供の世話をする。さっきの黒い猫仮面たちがそうだ。
階が登るに連れてホゴシャの数は減って行き、零階には五十人近くいた保護者たちは、この十六階まで来ると十人弱にまで減っている。それだけ俺たちが手間のかからない大人になってきた、と言うことなのだろうか。
その中でも俺は他に類を見ない問題児だろう。本来行わなければならない授業をサボってひたすら階段を登り続けようとする馬鹿な人間。周りの連中やホゴシャの目には、とても異質で滑稽な奴だと映っているはずだ。
それでも、俺は上へ行かなくちゃいけないんだ。約束したからな。絶対会いに行くって。
しかし、
「腹減ったなぁ~」
悲鳴を上げる俺の腹。流石に丸一日、何も食わないとなると、厳しいものがある。腹が減っては戦は出来ぬと言うしな。
こんなに腹が減ってたんじゃ、明日の階段登りに支障が出る。どうしようか。食堂に食い物を盗みに行くか。いや、絶対にホゴシャ共に見つかって捕まる。今度は飯抜きだけじゃ済まされないだろう。
四畳しかない狭い部屋の真ん中に敷かれた布団。その上で腹を押さえてうずくまる俺。腹の虫が泣き止むのを待つしかない。少し気持ち悪いが、空腹が限界に達すると意外と平気になったりするし。
そうして暗い部屋でじっとしていると、外からドアが開かれた。就寝時間なのでホゴシャが見回りに来たのだろう。もうこの歳になると寝たかどうか確認に来ることもほとんどなくなったが、やはり俺は例外であるらしい。結構頻繁に様子を見に来る。
外の光が部屋の中を照らす。俺は寝たふりをした。そうすれば、とりあえずは何も言われずに済むだろう。
コトリ。何かを床に置く音がした。そしてドアの閉まる音とともに、部屋は再び暗闇へと変わる。
何だろう? 気になる。
ホゴシャの足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなるのを見計らい、部屋の明かりをつけた。ドアの前には小さなバスケットの籠が。盛り上がった球形をしていた。その上からは白い布がかけられている。布をつまんで持ち上げると、バスケットの中身はパンと牛乳、そしてジャムの瓶が詰められていた。味はイチゴだ。
俺は目を輝かせ、飢えた狼のようにパンに飛びついた。そして勢い良く貪ろうとしたが、動きを止める。空腹によって研ぎ澄まされた俺の感性が、何やら良からぬものを本能的に感知した。パンに向かって大口を開けたままの体勢で顔を上げる。
案の定、部屋のドアがわずかに開き、そこには猫の仮面がいた。ドアと壁に顔だけを挟み込むようにして、生首のような風体でこちらを見ている。
そんなものを見てしまっては、俺でなくても食欲が失せるというもの。飢えと渇きを忘れ、狼から人間へと戻った俺は、パンをバスケットに戻した。
「……いいよ、食べても。僕のことは気にしないで、こうしていたいだけだから。それは僕が持ってきたんだ、遠慮することはないさ。さあ、お食べ」
そんな俺に、淡々と棒読みで猫仮面はそう言う。
だけど気にするなと言うほうが無理だろう。じろじろ見られながらでも食事ができるほど、俺は空腹に限界を感じているわけでもなく、家畜化してもいなかった。
「食べないの?」
「……後でもらう」
「返します、とは言わないんだね。食い意地はってるなぁ」
「何なんだよあんたは、俺になんか用かよ!」
いい加減、この変な猫仮面にイライラした俺は怒鳴った。良く声を聞いてみれば、この階にいるホゴシャの中に、こんな奴いただろうか、と疑問が浮かんでくる。
「まあ、用があるかといえば、あるんだけど……」
「はっきり言えばいいだろ? 説教でも文句でも何でも」
空腹と、何もかもが思い通りにいかない苛立ちが募り、一体何者なのか分からない目の前の猫仮面に怒りと焦りと不信感を一気にぶつけ、睨み付けた。
「そんなつもりじゃないんだよ? でも言っていいのかな? 今日は機嫌悪いみたいだし、また今度にでも……」
「さっさと言え! 気になるだろ!」
「じゃあ言うよ。君はどうして……」
「待った。せめて中に入ってくれ。怪しまれるから」
ドアと壁の隙間に顔をはさんだ体制のまま話を始めようとした猫仮面をいったん停止させ、部屋の中に招きよせた。
「……え、でも、いいの?」
「いいつってんだろ、さっさと入れっての!」
そんなに隙間に挟まっているのが好きなのか、猫仮面は残念そうにしぶしぶといった感じで部屋の中に入って扉を閉めた。
「じゃあ、お邪魔して。話を続けるよ。で、君は……」
「座れよ、首が疲れる」
「……え、でも、いいの?」
「しつこい奴だなお前は! 場の空気を読めよ、明らかに立ってるより座った方が話がしやすいだろ!?」
ドアの前で、猫仮面は立ったまま話を始めようとする。何なんだ、この非常識さは。ホゴシャに俺が怒られるのなら分かるが、俺がホゴシャに説教するなんて有り得ない。
そんなに座るのが嫌なのか、猫仮面は残念そうに、しぶしぶといった感じで床に正座して、俺と目線を合わせた。
「……僕のこと、非常識な奴だって思った?」
「ああ、思ったね。心の底からそう思ったね」
「それはきっと君が大人に近づいている証拠だよ。おめでとう」
「…………」
褒められているのかけなされているのか、奴の深層心理を読み取ることなんてできないが、そう言われた俺は一瞬言葉を失い、まんざらでもなかった。
そんな自分を内側から冷静に見てみると、とても滑稽であり、情けないと思う。
それだけ俺は、褒められたりおだてられたりすることよりも、怒られることの方が多いのだと、実感できる。
「で、話は何なんだよ」
そんなことを考えているなんて、目の前の猫仮面には絶対知られたくなくて、動揺する気持ちを抑えて落ち着いて話の流れを戻した。その仮面の下で、こいつがどんな顔をしているか分からないのだから、俺の努力は徒労に終わるやも知れないが。
だがすぐに、意外とそうでもなかったのではないかと思った。俺の考えていることを全て読み取ってそうしたのか、それとも別の何らかの意図があってか、分からないが。
猫仮面が自ら仮面をとった。ついでに、頭に深く深く被っていた、フードも外す。
そこから現れたのは、黒い髪、黒い瞳、白い肌の若い男。歳も俺とそう変わらなさそうだ。
こんな奴が、ホゴシャだったのか?
「……初めて見た。ホゴシャの顔。俺たちと大して変わらないんだな」
「それはそうさ。君たちにモノを教えるのなら、やはり同じ種である必要があるだろう。猿や鳥に勉強を教わっても、君はここまで賢くはなれなかっただろうね」
「それはそうかもしれないけど、そういう問題か?」
唖然とする俺に対して、男は妖艶な笑みを浮かべた。
確かに外見は俺たちそっくりだが、どことなく違う、上手く説明はできないが、独特の雰囲気を醸し出している。特に、その笑顔から。
「まあ、僕のことはともかく、これで君と対等な立場で話すことができる。僕は君を他のホゴシャたちのように手間のかかる問題児だとは決して見ない。だから君も、僕のことは口うるさいホゴシャだとは思わないで欲しい。約束だよ」
「あ、ああ、分かった」
ありがとう、と男は笑った。そして名乗る。彼は名を、タキヤマ・キョウヘイと言うらしい。名前まで俺たちと同じようなんだな。それ以前に、ホゴシャにも名前があるんだな。心の中でそう思って感心したが、口には出さなかった。
「じゃあ、本題に入らせてもらおうか。僕は数日前にこの階へやってきたばかりだから、君のことを知ったのはつい最近なんだけれど、君の行動に非常に興味が沸いてね。どうして君は、必死で上へ行こうとしているのか、良かったら教えてもらえるかな?」
数日前に、ここに来た。道理で、見たことのない奴だと思った。
「質問を質問で返して悪いんだが、あんたどっから来たんだ? 上か」
タキヤマは頷いた。それを見た俺の目は生気を帯びて輝く。
「あんたが居た場所に、イシバシ・マサノってやつはいなかったか? 頼む、教えてくれ! 教えてくれたら俺も答える」
身を乗り出し、タキヤマに問いただす。タキヤマは少し困った顔をした。そして首を、横に振る。
「残念だけど、僕の知る限りでは、そういう名前の人は知らない」
「そうか……」
肩を落とす。だが可能性がなくなったわけではない。タキヤマが知らない、と言うことが分かったと言うだけだ。まだ望みはある。俺は再び顔を上げ、タキヤマの吸い込まれそうな黒い目をまっすぐ見据えた。
「俺は、そいつに、マサノに会うために上へ行こうとしているんだ」
同い年の少女、イシバシ・マサノは、生まれた日が近いため同じ階で生活する連中の中でも一番、俺と仲が良く、気の合う親友だった。
一年くらい前だろうか。突然、マサノの元に数人のホゴシャがやって来て、彼女を連れて行った。そいつらは上層の階からやってきたらしく、引きとめようとする俺に《彼女は飛び級が決まった》とだけ告げた。
俺と全く同じようにして暮らしてきた彼女に、そんな特別な資格があったとは思えない。でも、それが真実だと言うのなら、従うしかない。と言うより、ホゴシャに逆らえない俺たちには、従うより他に何の方法も思いつかなかった。
だから俺は、せめてマサノが上へ行っても楽しくやっていけるようにと、心からの笑顔で見送った。でも彼女の目から出てくるのは涙ばかりで、口から出るのは嗚咽ばかりで。
「嫌だよ、上になんて行きたくないよ……。まだ、ここにいたいよ」
泣き声に混ざって俺の耳に入り込む、俺が聞いた最後のマサノの言葉。たった一人、誰とも分からない奴らのいる場所へ行くのだ、心細くないはずが無い。でも俺には、どうすることも出来なかった。拳を強く握り固め、歯を食いしばった。
ホゴシャに挟まれ、手を掴まれ、連れて行かれるマサノ。その姿が遠ざかっていく。それでも、マサノの首はこちらを向いたままだった。ずっと俺を見ている。
まるで何かを待っているようだった。それが何なのか、分からない。でも、何かせずにはいられない。
「マサノ! 待ってろ、いつか必ず、誰よりも早くお前に追いついて、会いに行くから! だから、それまで待ってろよ、約束だぞ!」
俺の声は遠くにいる彼女にまで届いたのだろうか。その表情まで読み取ることが出来なかった。ただ、直後に前へ向き直ったマサノの姿だけはしっかりと目に焼きついた。
それから今まで、俺は必死で勉強した。さっさと教育課程を終わらせて、大人と同じくらい立派な人間だと分かってもらえれば、飛び級をさせてもらえると思ったのだ。しかし俺ってば根っからの馬鹿らしくて、どれだけ頑張って、自分でもびっくりするくらい勉強を続けても、この階で一番頭がいい奴のお膝元にも及ばなかった。一年間も使ってそれを痛感してしまい、挫折した俺は新しい策に出た。それが、今必死で行っている階段登りだ。上にあがらせてもらえないなら、自分で登るしかないだろう?
その旨を、俺はタキヤマに包み隠さず話した。タキヤマは黙ってこの話を聞いていた。
「約束したんだ、会いに行くって。だから俺は何が何でも上へ行く。そう決めたんだから、俺は誰に何と言われようと、自分が一番やりたいことを、やらなきゃいけないことを最優先させている。それだけだ」
「成る程。それで、今の君の成果は? どのくらいまで登れるようになったんだい?」
「そうだな、今日は四十八階まで登った」
「ずいぶん行ったね。全体の約半分くらいだよ」
「本当か!? でも、やっぱり頂上までは全然足りないな」
「……君は頂上まで必死こいて行こうとしているようだけど、彼女が最上階にいると言う根拠でもあるのかい? 上といっても広い。正直、どの階にいるかまでは階段を登っているだけでは分からないよ。それに、それぞれの階のフロアに入るには、それぞれの階のホゴシャの厳重な警備を潜り抜けなければならないわけだしね」
「そ、それは……」
口ごもる。タキヤマの言っていることはとても正しい。俺もそう思う。そんな低確率の中で、なぜ俺は頂上を目指すのか。何の情報もないのに、どうして真っ直ぐ上に登れるのか。自分でも良く分からない。
困惑して黙りこくる俺を見て、タキヤマは何かを悟ったような表情を見せた。
「まあ、とりあえず理由が分かって良かった。僕の考えは、それほど間違ってはいなかったと言うことだしね。どうだろう? 僕でよければ、君が階段を登りきるのを手伝いたいと思うんだけれど」
「手伝い? ……有り難いけれど、俺は出来るだけ自分の力でやりたい。人の力を借りてマサノに会いに行っても、何かばつが悪いしな」
「君は頑張り屋さんなんだね。そして何でも一人でやろうと考えてしまう孤立精神旺盛な人のようだ。僕はそういう人、嫌いじゃないよ。そう思うなら、君なりに頑張ってみるといい。それでも上手くいかなかったときのために、これをあげるよ」
そして差し出したのは、小さな小箱。それを開けて、中身を俺に見せた。箱の中身は黒い丸ボタンが一つ。
「僕の本業でね。もし君が僕に力を貸してほしくなったら、その時はこのボタンを押して欲しい。そうすれば……まあ、君の望みをかなえるきっかけくらいは作ってあげられるかなと。必ず後悔しない程度に協力は出来ると思うよ」
「はあ」
なんだかうさんくさいが、とりあえずもらっておく事にした。
次の日がやって来た。軽く仮眠を取り、日の出の一時間前に起床。身なりを整えて、準備運動。もちろん、階段を駆け上るための身支度だから、動きやすい格好だ。気合を入れて、上へ登る階段の前に立つ。普段は階段へ繋がる出入り口には重い扉がつけられ、鍵がかかっているのだが、日の出と日の入りの数分間だけ、換気と塔のメンテナンスのために、扉は自動的に開け放たれる。その時だけが、塔を登るチャンスなのだ。
『地平線の彼方から、陽が登りました。いまから、本日を開始いたします』
頭上から女の声が落ちてきた。それと共に目の前の扉が開き、まぶしい朝の光が俺の前に押し寄せる。
今だ!
地面を蹴った。ゆっくりと開く扉の隙間をすり抜け、俺は駆け出した。細かい階段を三段飛ばしで登っていく。出だしは好調、今までの中で一番良かったように思う。
階段は螺旋状になっていて、透明なガラスの壁によって外界から遮断されて塔の横に寄り添うように設置されている。ここが唯一、塔の中にいる俺たちが外の世界がどうなっているのか知ることの出来る場所になる。一年に一回、階移動のときにしか見ることができないが、上へ行くごとに景色は広く細かくなっていき、見事な絶景と言うやつが辺りに広がり感動を覚える。
だが今はそれに感嘆して見入っている場合じゃない。走らなければ。ひたすら、上へ行かなければ。
螺旋階段はカーブの連続。必要以上にスピードを上げることが出来ない。遠心力がかかって、余計にタイムロスしてしまうからだ。適度な速さで、それでも確実に、急いで登らなくては。
腹の虫がなる。やはりタキヤマがくれたパンと牛乳だけでは腹持ちが悪かった。かと言って文句をはいている暇はない。俺は腰につけたポーチの中から、パンに付けた余りのジャムが入ったビンを取り出した。少しペースを緩め、ビンの蓋を開ける。中の三本の指で中身を掬い、口の中に突っ込む。酸味の利いた甘いイチゴの味が口に広がった。過度の運動時には糖が大量に消費される。補給は何よりも大事だ。
ビンにこびりついたジャムまで綺麗に掬って舐め取り、空のビンは捨てた。手はベタベタだが、気にする必要はない。既に体中、汗でベタベタだ。
急がなくちゃ。
再びスピードを加速させ、果ての無い、長い階段をひたすら登り続ける。
空が赤くなってきた。そろそろ夕日が沈み、一日が終わる頃だ。透明な壁から透けて見える塔の外壁。そこには赤い大きな文字で、F73と書かれていた。
新記録だ。今まで出一番多く登った。だが、それに喜べるはずもない。少し距離が伸びただけ。頂上までは、まだはるかに長い道のりがある。ちらっと上を見上げれば、それが嫌と言うほど痛感できた。
もう、間に合わない。
そう思ってしまった途端、心が折れた。同時に足も折れ、段に躓いて、顔面から階段へと激突、うつ伏せに倒れこむ。鼻を強打したようだ。カーッと痛みと熱が走り、口の周りに生ぬるい、湿った感覚が広がる。
舐めてみた。鉄の味。ああ、鼻血が出たのか。
飛び出そうなくらい大きく脈打つ心臓、酷使しすぎて全く動かせない身体。もはや、俺の意思では俺の身体は動いてくれなかった。
『地平線の彼方に、陽が落ちました。これにて、本日を終了いたします』
頭上から女の声が落ちてきた。直後、足元の階段が平らになり、勾配の激しい急な坂道へとかわる。
有無をいわさず、俺はそのまま滑り落ちた。落ちる所まで、俺の生活区域のある、十六階まで。
十六階のフロアに滑り込んだ。間も無く階段へ繋がる扉が重苦しく閉じ、鍵のかかる音がする。
また、戻ってきてしまった。ゆっくりと、震える身体を起こすと、たくさんの友人知人たちが遠巻きに俺のことを見下ろしていた。円になるように集まった人間の檻に閉じ込められているような、そんな感覚。そいつらの顔は、皆無表情で、冷たかった。
円の一箇所が開き、通路ができた。歩いてきたのは、数人のホゴシャ。
《本日のホゴシャ会議でお前の処置が決まった。ハットリ・カツヤ、お前は病気なのだ。叶わぬ願いを追い求める異常者、現実性に乏しい逃避者。お前のようなあばずれは、集団行動に大きな支障をきたす恐れがある。心身的に治療が必要だ。本日を持って、お前を集中治療室へ連行、他者から隔離する》
俺は雁字搦めにされ、棺桶のような底の深い担架に乗せられて、塔の奥にある隠し扉の中に連れて行かれた。
集中治療室は薄暗かった。出入り口と天井の端、俺が寝かされているベッドの側にある小さな青いライトが、ぼんやりとその周辺を照らしているだけ。
ここ数日、食事を運んでくるホゴシャの姿しか見ていない。その保護者が言うに、この部屋には部外者の立ち入りは硬く禁じられていて、係のホゴシャ以外は面会謝絶だという。俺の手足には枷がはめられ、それに接続された鎖によってベッドに縛り付けられていた。ホゴシャに頼めば外してもらえるが、食事とトイレ、風呂、身体が訛らないための体力づくりの時間だけだったし、それらを行う際には必ず二人以上のホゴシャが脇を固めて監視していた。俺が逃げ出したり、暴れだしたときに余裕を持って鎮圧できるからだろう。
こうして鎖に手足の自由を奪われ、硬いベッドに仰向けに寝そべり、薄暗くてほとんど見えない黒い天井を見つめていると、何も考える気力が浮かばない。それでも、ときどきふっと前触れも無く、俺の頭の中に蘇るのだ。
走りたい。
階段を登りたい。
駆け上って、頂上に行って。
マサノに、会いたい。
基本的に面会謝絶のこの部屋だが、希望があれば各人ずつの面会が許可されると言う。もちろんホゴシャ同伴だが。
そうであっても、今の俺には見舞いに来てくれるような絆の深い友人は存在しない。それが今の現状で嫌と言うほど良く分かった。
それでも、たまに思うんだ。
もし今マサノがまだこの階に居たとしたら、きっと真っ先に、俺に面会に来てくれたに違いない。いや、マサノがいれば、階段のぼりなんて無茶でユキイソギで病的で馬鹿なことはしなかっただろうし、こんな集中治療室に突っ込まれることもなかっただろう。
矛盾の連鎖が次々回る。その度に、俺は一体どうすれば良いのか、分からなくなる。
こんなにも階段を登りたくて仕方が無い。そんな俺は、やはり病気なのだろうか。ホゴシャの言っていることは正しいのか? 俺のやっていることは過ちなのか、罪なのか?
自分の思ったことを遂行することが罪ならば、人間に意思は必要ないんじゃないだろうか。
――そうだ、俺には意思がある。最後まであがく権利はあるはずだ。思いを貫き通す自由があるはずなんだ。
マサノにはその権利も自由も与えられなかった。与える暇もなく、意思を握り潰された。
俺が手本になってやる。そしてあいつに会って、言ってやるんだ。
もう自由なんだぞ。誰からも解き放たれて、好きなことをすればいいんだ。
俺は腕を伸ばした。ベッド横の棚の上に、小さな小箱が置いてある。保護者に頼んで部屋から持ってきてもらった、あの小箱。
あと、もう少しで手が届く。といったところで鎖の長さが足りず、枷に邪魔されて触れられない。攣りそうなくらい必死で指を伸ばして、何とかこちらへ手繰り寄せる。緊張と不安と好奇心に、手が震えた。上手く力の入らない指を酷使して、蓋をゆっくり開き、中の黒いボタンを一回。
不思議な、子守唄のような音楽が流れて空間を包み込んだ。何だか聞いていると、頭がふわっと軽くなる。脱力とは違うけれど、中途半端に力んでいた身体が自由になる感じがした。
音が止み、数秒後。
ゆっくりと、部屋のドアが開かれ、外から光が差してきた。
「……タキヤマさん」
わずかに開いたドアの隙間から覗く、生首のような黒い猫の仮面。じっとこちらを見て、何かを考えているか分からないくらい、微動だにしない。
「……押したね? それは君の覚悟と決意がしっかり固まった証拠だ。未練はないね、迷っても、もう手遅れだよ」
淡々とした、タキヤマの声。とても久しぶりに感じた。
俺が肯くと、タキヤマは部屋にそっと入ってきて、ベッドの側に立ち、懐から取り出した小さな鍵で手足に食い込んだ枷を全て外してくれた。
「ここだと時間が分からないけれど、今は夜明け一時間前だ。君に、チャンスをあげる。
最後で確実なチャンスを。……悔いは、ないね? もう、自分だけの力で上まで登りきることはできなくなるけれど」
タキヤマの心遣いが、今日は何だかやけに心に染みた。以前なら「余計なお世話だ」と言うところだが。
「俺は出来る限りのことはやったつもりだし、これ以上頑張っても、完璧な結果は望めない」
今日の俺は、何の迷いもなく、そう返していた。それがやけに自然で、俺っぽくなくて、何だか新鮮すぎて、歯がゆかった。
「急いでいるんだね」
「ああ、俺はユキイソギらしいしな」
歯を出して笑って見せた。仮面ごしのタキヤマがどんな表情をしていたかは分からないが、こうだったらいいなと思う表情を勝手に思い浮かべて満足した。
集中治療室を抜け出した俺は、タキヤマの後について外に出た。久しぶりの外界。白い壁が延々と続いているだけだが、それでも俺にはとてつもなく懐かしかった。
シャバの空気が、なんとなく美味い気がする。獄中からやっと出られた囚人も、きっとこんな気持ちを一度は味わうのだろうか。
螺旋階段へ続く扉の前までやって来た。まだ日の出になっていないので、扉は開かない。
待ち構えるように、扉の前に立っている者がいた。黒い猫の仮面。いや、猫の仮面のような、本物の猫。本で見たことはあるが、実物を見るのは初めてだ。猫にしては少し大きめで、どちらかというと、黒いライオンみたいな出で立ちだった。
背中には黒い、コウモリに似た大きい羽が二枚、左右対称について、上下に軽く揺れている。
「僕の友達の、ライトウィンドだ。彼が君を頂上までエスコートしてくれる。頼もしい味方だよ」
タキヤマに紹介され、猫――ライトウィンドは、「うにゃあ」と一声、鳴いた。
「ああ、ありがとう。よろしく。でも、最初から最後まで世話になるのも悪いな……」
「別に構わないよ。単独では、そう簡単には登らせてくれないだろうしね。君が集中治療室に入ってから、塔に設置されている自動防衛機能に、君の情報をインプットされているから」
「なんだ、それ。どういうことだ?」
「つまり、君がいつまた集中治療室を抜け出して塔を登ろうとしても、塔そのものが君を認識して排除、上に登らせないようにする仕掛けが作動しているのさ」
「何でだ? 何でそこまでして俺を上に登らせたくないんだ?」
「君だけに限ったことじゃないだろうけれど、上には下の住民に見られたくないものがたくさんあるのさ。気になるなら、自分で見て、確かめるといい」
さあ、時間だ。
タキヤマは言った。黒い猫仮面を外し、素顔を露に、俺に笑いかける。屈託のないその独特の笑顔は、俺を最大に元気付けてくれた。
『地平線の彼方から、陽が登りました。いまから、本日を開始いたします』
女の声のアナウンス。それと同時に、外へと繋がる扉がゆっくりと開き始める。
「うにゃあ」
ライトウィンドが高くジャンプして、俺の背中に飛び乗った。前足が俺の肩に、後ろ足が俺のわき腹をしっかり挟んだ。
「ライトウィンドの前足を、しっかり掴んで!」
タキヤマに従い、毛深い、しかしさらりと気持ちいい手触りの前足を、ぎゅっと握り締めた。
扉が完全に開ききる。同時に、頭上背後からバサッ、バサッと大きく豪快な羽音が聞こえてくる。周囲に竜巻のような風が起こり、激しい耳鳴りと身体が浮かび上がる感覚に囚われる。
「今だ、地面を思いっきり蹴って!」
つま先に力を込め、蹴った。力いっぱい、今出せる最大の力で。
ゴウッ!!
突風にあおられる衝撃。足元の空虚感。そして天井がだんだん接近してくる驚愕。
浮いている。いや、飛んでいた。さらに羽の動きを早めたライトウィンドによって軌道がコントロールされ、俺たちは徐々に扉の向こう側へ向かっていた。点検と太陽光の補充を終え、閉じようとする扉の隙間に滑り込む。
「GOOD LUCK!」
後ろからタキヤマの声が聞こえた。振り替える間もなく扉は閉じ、俺とライトウィンドは一気に上昇した。
密閉された縦に長細い空間。それは渦を描く暴風が通過するにはもってこいの場所だったに違いない。ライトウィンドが起こす強烈な竜巻が螺旋階段を覆うように走り、上昇気流となって上へ上へと登っていく。その風力は半端なく強く、その流れに乗った俺たちは一気に上に巻き上げられた。驚く速さでどんどん登っていく。今まで、一所懸命走って登っていた時間が馬鹿みたいだ。
朝日が昇りきるスピードと同じくらいの速さで、だんだん飛び上がり、もう八十階近くまで来た。上を見上げると、塔の突き抜ける空の果てに、黒い大きなものが見えた。それは喩えるなら空の壁。平面的に広がっていて、この塔一本を中心軸に支えて、傘みたいにバランスを保っているようだった。間違いない、あれが頂上だ。
「もう少しだ、ライトウィンド!」
喜びのあまりそう叫んだ直後、突然通過直後の足元に光線が走った。
赤い光は塔から伸びてきて螺旋階段を貫通、透明の壁を溶かしてしまった。ドロドロに溶解して赤く点滅する階段と壁。俺は恐怖を隠しきれなかった。
『警告! 直ちに下へ戻りなさい、三秒以内に従わなければ、再度、制裁の攻撃を開始します』
いつも日の出と日の入りを告げる機械的な女の声が残酷な言葉を紡ぐ。
「やべっ、急いでくれ、ライトウィンド!」
タキヤマがさっき言っていた。俺の情報を察知して、階段を登ろうとすると強制排除にでる。
これのことか。全てを猫任せにしてじっとしているのは、なんとも、もどかしいが、今はこいつに頼るしか道はない。
しかしさっきの砲撃で密閉空間に穴が開き、風の流れが大幅に変わってしまった。そのせいでライトウィンドもバランスがとりにくくなっているようでフラフラしているし、スピードも若干落ちたように感じる。
「頑張ってくれ、もう少しだ!」
『三・二・一。警告を無視したとみなし、強制排除します』
まずい、第二撃目がくる! 側面から、こちらめがけて飛んでくる光の直線。まともに食らえば即死だ。それくらい、狙いは完璧だった。
「うにゃあ!」
突然ライトウィンドが鳴き叫ぶ。瞬間、俺の頭の上を熱いものが通りかすめ、迫り来る光に向かって飛んで行った。透明な壁を突き抜け、赤い火の玉が空中で爆発する。俺たちを攻撃してきた光線は爆発に突っ込み、相殺したように消えてなくなった。
「なっ、何だ? 今の……」
見上げると、ライトウィンドが目を細めてヒゲをヒクヒクさせていた。その口からは、一筋の黒い煙が立ち上っている。
まさか、さっきの塊、こいつが口から吐いたのか?
有り得ない出来事に困惑したまま、驚くだけで精一杯だ。一体全体、こいつやタキヤマは何者なんだ……?
「うおっ!?」
深く追求する間もなく、ライトウィンドは独断で加速、一気に頂上まで上り詰めた。
塔の天辺は、広い台地になっていた。ここはいったい、何をする場所なのか。
所々に小さな四角い建物が点々と設置されていて、そこから入れ違いにたくさんのホゴシャたちが出入りを繰り返している。
俺とライトウィンドは、一番手近な建物の陰に隠れて様子を伺った。この建物からちょうど出てきたホゴシャに焦点を合わせ、行く先を目線で追う。
ずんずん歩いていくその先の平野に、点々と黒いものが規律正しく並べられていた。良く目を細め、凝らして見てみると、それは年老いた人間たちのように見えた。生き物は順調に歳を重ねると、次第に皴だらけになり、髪は白く染まって抜け落ち、歯は無くなり、体の自由が効かなくなるらしい。弱っても生命力はまだ健在らしく、風当たりの強いこんな場所に野ざらしにされても、まだ生きている。
隙を突いて、少しその場所に近づいてみた。もう一つ向こう側の、建物の影に隠れる。ここまで来ると、ホゴシャの声も聞こえてきた。
「よくここまでたどり着けた。お前は我々にとって誇るべき存在だった。後のことは何も心配しなくていい。ハカモリにきちんと、眠らせてもらう」
ホゴシャは目の前に居た、年老いた老婆にそう語りかけた。俺たちに接するのとはまた違う、優しく、暖かな声色だった。本当に、その存在に感謝するかのような、ホゴシャの意外な一面に、咽の奥から何かがこみ上げてくる感じが抑えられなかった。
老婆は震える腕を必死で伸ばし、ホゴシャに触れようとしていたが、それも叶わず力尽きて、手が地面に落ちると共にやがて動かなくなった。
ジャラーン。ガラーン。
ホゴシャが手に持っていた、頭くらいの大きさの鐘を鳴らす。それを合図に、建物の中から数人の保護者が出てきて、動かなくなった老婆を丁寧に運び。
そして、台地の先端から下へ向けて、老婆を落とした。
「……!!」
俺は目を疑った。こいつらは一体何をしているんだ?
わけが分からず混乱していると、後頭部に何やら冷たいものを突きつけられる感触。
《もう後には引けんぞ、ハットリ・カツヤ》
それは俺がいた十六階を担当するホゴシャの一人の声だった。俺の逃走を知って、追いかけてきたのか。俺の頭を押す細い銃口が、その表情の読めない保護者の意志を代弁していた。
俺は両手を上げ、抵抗する意思がないと、アピールした。
「……いくつか、聞いていいですか」
《ああ、構わん》
拒否されるかと思ったが、保護者は、なんの躊躇いもなく俺の質問に答えてくれた。その理由は至って簡単だ。俺を生かしてここから出す気がない。そういう意図が、しっかりと伝わってきた。
「ここは一体、何をするところ?」
《ここは生命活動が末期を向かえた者たちを集めて最後を看取る場所だ。ここまで来れたものは命の営みを終え、新たに再生の道を歩む。主に個人生活が難しくなった老人たちを置く場所だ》
「なんで、その人たちを捨てるんですか」
《寿命を全うした魂の媒体は、地上に住まうハカモリと呼ばれる者たちによって手厚く葬られる。そしてそれは地中で分解され、新たな命を育むべく、真に星へと還り、一つとなる》
《じゃあ、あれは?》
指を差した先。すぐ目と鼻の先だが、幼い少年が一人、ホゴシャに連れられてやって来た。
俺よりも小さい。まだ小等部過程が終わるか終わらないかくらいだろう。顔を赤くし、息も荒く、苦しそうに歩いてくる。
《あれは、飛び級だ》
「――……」
《例え寿命に程遠くとも、何らかの先天的、後天的病に冒されたり、予想外の事故に巻き込まれて生涯を終える者もいる。その中で予測可能な者は飛び級として、頂上へ連れてこられるのだ》
俺の予想は、あながち外れていなかったのかもしれない。タキヤマは尋ねた。なぜ俺が頂上を目指すのか、マサノがどこにいるのかも分からないのに。その時は答えられなかったが、でも、俺は無意識に気付いていたのかもしれない。マサノがここにやってきた意味を。そして、末路を。そして俺がそう感じていたことを、タキヤマも感じ取っていたのかもしれない。だから、俺に手を貸してくれたんだ。
「最後に。どうして、こそこそと隠れてこんなことを?」
《地上で暮らす人間たちは、自分の肉親や親しい友人知人、多くの身近な人間の死と直面して生きている。そのため、どうしても「自分もいつか死んでしまう」と余計なことを考え、その時期が分からないことに怯え、生き急いでしまう。そういう人間が、とても多いのだ。その中からは、どうせ死ぬならと自暴自棄になって犯罪を犯すものや社会の秩序を乱すものが出てくる。そういった死への恐怖を打ち消し、死を恐れずに自分の本当にやるべきことを完璧に全うできる人間を作るため、死に脅かされることなく生涯学習を行える学び舎として、この塔は作られたのだ。中には、お前のようなユキイソギも稀に出るがな。
そして、このことは下階で暮らす全ての者たちに知られるわけにはいかない。理由は、さっき述べた通りだ。死期を不本意に知ることは、無駄な過ちに発展し、秩序を乱す。だから、お前を下の階へ戻すことはできない。分かってくれるな》
「……無論、そのつもりですよ」
俺はホゴシャに笑いかけた。ホゴシャはしばらく沈黙したが、ふと思い出したように再び口を開いた。
《お前は、一年前に飛び級となったイシバシ・マサノを追いかけてここに来たのだろう? 彼女はあの時点で、決して治すことのできない不治の病に侵されていた。しかし飛び級が決まってこの階へやって来てからも、一生懸命生きていた。老人たちの世話をしながら、できるだけ永く、と想いを込めて。彼女が死んだのは、つい数ヶ月前だ。お前が階段のぼりを始める、ほんの少し前だな》
だからと言って、なぜその事を教えてくれなかったのか、とは責められなかった。ホゴシャは自分の使命を全うしているだけなのだから。飛び級の者の末路を下階のものに教えるわけにはいかない、そして、いかなる理由があれ、行き急ぐ者を押さえつけなければならない。
その二つを、端的に実行しただけなのだ。責める事はできない。それがこの塔での、はっきりと決定付けられた秩序であり、守るべき法なのだ。それがおかしいと思う俺は、ここではやっぱりただのあばずれ、ユキイソギなのだ。
そんな俺でも、自分の使命は全うしなければならない。彼らの意図とは全く異なるが、それが今の俺の最大の存在意義なのだから。
俺はマサノに会うためにここに来た。そして、マサノはもうここにはいない。一歩早く、まるで同極同士の磁石のように、また先へ進んで行ってしまった。ならば俺も追いかけなくてはいけない。
「俺は俺なりに満足して、本当にやるべきことをやって来たつもりです。悔いはない。そして、まだやり残していることがあるから、俺はそれを果たしに行きます。今まで、お世話になりました」
ホゴシャに頭を下げ、ライトウィンドの頭を撫でてから、俺は平面な台地を歩き出した。ひたすら歩いて、足を止めた場所は崖になった台地の先端。強い風が絶え間なく吹き荒れる、冷たく寂しい場所。
下をチラッと見てみるが、雲の塊に遮られたせいか、地上が遠すぎるせいか、何も見えなかった。
でもいるんだ、この先に、マサノが。
地上に咲く花は、皆、赤くて美しいらしい。
そんな花畑で、彼女は笑っているだろうか。そんな君にもう一度会えたら、俺はまず初めに何を言おう?
何だっていいか、格好つけなくてもいい。
ただ、心から思う気持ちを、必ず伝えたい。
俺は大きく息を吸った。
「今行くからな! 待ってろよマサノ――――――!!」
そして大きく地面を蹴った。
タキヤマは塔の隠し窓から空を見ていた。
地上十六階の空は風が乱れ、渦巻くように飛び回って踊っている。そんな優雅で激しい舞踏会場を縦に割るように、狂い踊いながら通り過ぎてゆく黒い影。
命尽き果てた人間だったものたちが、上から下へと手足をくねらせながら落下してゆく光景。この隠し窓からはその現状がいつでも見れるようになっている。
じっと彼らの行く末を見守る中、明らかに他とは違う、異質なものが落ちてきた。それは人間には違いないが、まだ生気を帯びた、命ある存在。頭から一気に落下してゆくその人間と、タキヤマの目が一瞬、交錯した。人間は笑ったように見えた。だから、タキヤマも笑い返した。その笑顔が彼の目に届いたかまでは、知る由がなかったが。
「世界中の人たちが、君みたいな途を歩めたならば、きっと僕のような存在はこの世に派生しなかったのだろうね。でも、君のような人は本当に嫌いじゃないんだよ。もし僕が人間になれたなら、君のような一直線な生き方がしてみたい……」
踵を返し、タキヤマは部屋を後にする。
はるか足元で、水気を帯びた何かの弾ける音がした。
◆ ◆ ◆
これで、タキヤマさまのお話は終わりのようですが――。
何と言ったらよいのでしょう、これではまるで……。
『このお話は実話なんですか?』
『ああ。そうだよ。僕が実際に体験してきたことだ』
『話を聞いていて分かりましたよ。あなたは自殺援助人ですね?』
そう、それですな。呼んで文字の如く。
この実話の主人公はタキヤマさまの後押しを受けて、自ら命を絶ったように思えました。なのにすごく爽やかで、後味が悪くないのが何とも不思議な話ですが。
『僕の素性を知っているのかい?』
『ええ、風の噂で聞いたことがありまして。自分自身に殺意を抱いてしまった人間の側に現れ、それを手助けする。どれも人外的な方法なので、誰にも罪が及ぶ事はありませんが』
『そうだね。でも、罪があるとかないとか、人がどう思うか、なんて、この際問題ではないんだよ。自分に殺意を抱いてしまう人と言うのは、中々自分の力で命を絶つことができないんだ。自分自身が気に入らないのだから、自分に殺されるなんて真っ平御免なんだろう。だから、僕が援助する。その代償として、僕はその時の喜びをもらうのさ。奇怪な死がもたらす快楽が、僕の栄養源なんだよ』
『なるほど。でも、どうしてそれを物語として残そうと?』
『僕が今まで出会ってきた人たち――もうこの世にはいないわけだが、彼らはとても愛おしい、前向きで真っ直ぐな人たちばかりだった。僕は彼らが大好きだった、できれば、ずっと一緒にいたいと思えるほどに。でも、それは無理な話だ。彼らの願いを聞き届ける人間には、不可能なんだ。
だからせめて、こんな素晴らしい人間が居たんだという証だけでも、どこかに残しておきたかった』
『そうですか。まあ、分かりましたと言っておきます』
『……ひょっとして、僕の行いは君の嫌いな領分だったかな?』
『いいえ、とんでもない。僕は人が見れば非道だと思ってしまうような行いに激怒の感情をむき出しにできるほど正義感溢れた子供ではありませんし、かといって、それが素晴らしい事だとお世辞を上げ連ねることのできるほど、大人でもないんです。
ですから、ただあなたの見てきた、体験してきた出来事をありのままに受け入れることしかできないんですよ。
また、残したい物語があればいらしてください。いつでも、歓迎しますよ』
『……そうだね、機会があれば、そうさせてもらうよ』
タキヤマさまが去った後、わたくしはこっそりと、自分の気持ちをアルビさまに伝えました。
『アルビさま、本当にあの方は、自分を殺したがっている人間の後押しをしているだけに過ぎないのでしょうか? もしそのきっかけを与え、そうなるように誘導しているのだとしたら、それはいくらなんでも許されない罪人でございます。もし今度、あの方がこられた時には、お引取り願った方が良いのでは――』
するとアルビさま、意外と陽気にお返事を下さいました。
『なんだい、君はあの人があまり好きではないのかい?』
『好き嫌いの問題ではありませんぞ。もしもです、もしも、あのお方が、ただの猟奇殺人者だったら、アルビさまの身も危のうございます。わたくしはそれが心配で……』
『あんな程度の者に、僕がやられるとでも思うのかい? 自分の好き嫌いの理由を人のせいにしてはいけないよ、NO TITLE』
『そ、そうでございましょうか。しかし、なんだか好きではないのです。これは我侭でしょうかな?』
『いいや、全然。素直でよろしい。でもね、この図書館は来るもの拒まず去るもの追わずが鉄則だ。それを勝手に変えることは、いくら管理人の僕であっても無理なんだよ。図書館に危害をもたらすものなら、排除すればいいだけのことだしね。それに』
『それに?』
『僕にはあの人が、嘘をついているようには思えないよ。あの人は自殺願望者の夢を叶える救世主だ。そう考えれば、中々素晴らしいことだと思うよ』
『そうですかな? わたくしにはあまり理解できる話ではありませんが』
『それでいいのさ。考え方なんて人も本もそれぞれだ。自分を殺したい人というのは、きっと今生きている世界から飛び出して、新しい世界を見てみたくなったんだ。誰も知らない、全く新しい世界を望むのは、人としてはある種当然の事だろうしね』
なるほど、アルビさまの中では、そういう方向に話が流れていらっしゃる様子。
『やはり、アルビさまはここを離れて見たことも無い世界へ行きたいとお考えですか?』
わたくしや、この図書館の膨大な本を置いて。そう言ってしまうと何やら卑怯のようですので、慎みましたが。
しかしアルビさまの真実の言葉は、そんな考えを持ってしまったわたくしが恥かしくなるくらい真っ直ぐでございました。
『外の世界に出て行ったからって、ここへ戻ってこれないわけじゃないしね。僕は全てを捨ててまで、外に出たいとは思わない。ここには、今まで僕を支えてくれた全てがあるから』
『いやはや、そこまでお考えならば、もうわたくしからは何も言う事はございません。わたくし、少し口が過ぎたようですな』
世の中にはいろんな人がいます。悪い人もいれば、善い人もいる。
それを自分の偏見で分けてしまうことで、わたくし大事な何かを見落としてしまう所でした。まだまだ、精進が必要ですな。
『ところでアルビさま、先ほどの話の中に、なにやら大きな猫が登場していたようでしたが……』
『ああ、いたよ。タキヤマさんのすぐ側に、大人しく座ってね』
『ひいいいいいいいいいいいい!!』
わたくし、獣というのはやっぱり……特に猫はダメのようでございます。
さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけをつくりに来てくださるのでしょうか?
皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。




