第十篇 「鎮魂・葬送――ともに歩みたりた君を送ろう」
『おはよう、NO TITLE』
早朝、いつもの時間に起床なさり、わたくしを開いたアルビさまの筆跡は、とても眠そうでした。
『どうかなさいましたか? 昨日は良く眠れませんでしたか?』
『いや、何ていうかさ。一晩中、夢を見ていたよ』
『レム睡眠、というやつですね。睡眠中にはよく起こる、浅い眠りでございます』
わたしくしには睡眠をとる習慣がございませんから、夢を見るとはどういった感覚なのか、さっぱり分かりませんが。
ただ、睡眠は、生き物の心身の調子を整えるために必要不可欠な休息行為だとは、理解しております。
今日のアルビさまは、少し休息不足だとお見受けしますが。
『一晩中、夢を見ていたのでは、脳が全然、休まっていないのでは? もう少しお眠りになってはいかがでしょう。今日は、お客さんが来そうな気配もありませんし』
アルビさまに倒れられては、わたくしやこの魔導図書館の本や精霊たちでは、何の看病もして差し上げられません。お体はぜひ、ご自愛していただかねば。
『いや……。でも、また同じ夢を見ると嫌だしなあ』
アルビさまらしくない、臆病なお言葉。一人でトイレにも行けなくなりそうな、怖い夢でもご覧になったのでしょうか?
お可愛い一面も、持ち合わせておられますな。
『どんな嫌な夢だったのです? 水? 火事? それとも変な動物が出てくるのですか?』
『いやいや、それ全部、君の嫌いなものだろう? ……僕に関係のある夢ではないんだよ。誰か知らない人と、夢をシンクロさせてしまった……って感じかな。遠い、どこだか分からない場所で、僕は誰かの視点で物事を見ているんだ。でもその情景や、その誰かの感情が凄く激しくて、悲しくて、ちょっと厳しかったのさ』
詳しく知りたい、とせがんだところ、アルビさまはその夢のお話を書き込んでくださいました。
他人の、何の感慨もない話なのに、アルビさまの手にかかると、果てしなく親密に感じる物語へと変化を遂げるのでした。
◆ ◆ ◆
決まった道を、決まった時間に走り抜ける、長い蛇。その身体は空洞で、沢山の人々を乗せて、延々と走り続ける。
奴はどこから来て、どこへ行くのだろう。
何を考え、人を身体に乗せるのだろう。
中の人々は、どんな気持ちで命を蛇に委ねるのだろう。
少なくとも、蛇に対して、確実に心を許している事実だけは、間違いなかった。
裏切られるとも知らずに。
その日見た蛇は、とぐろを巻き損ねたかの如くへしゃげていた。定まった道を外れ、大きな壁にぶつかって折れ曲がり、畳まれて潰れていた。悲しいかな、奴の命と共に、身を委ねた多くの人々の進路が、目的地からあの世へと変えさせられたのだ。
私がその酷い有様を垣間見た時には、最早原型を留めていなかった。
何も分からずに与えられた情報は、ブラウン管に映し出された、ごく一部の出来事、救い出されたが既に死に絶えた人々の名と、蛇の死因に対する、第三者のくだらない憶測ばかり。
だが、あまりにも身近で起こった事件だった。他人事と呼ぶには近すぎ、かといって私事とは程遠い。
私はしばらく、放心していた。
数日過ぎて、頭は更に重くなる。
蛇の頭から助け出された彼は、既に行き先を換えた後だった。
彼とはある意味、古い付き合いだ。幼稚園、小学校、中学校、高校と、学び舎を共にした。
遠くても近い場所で共に歩んでいたはずの彼は、望んでも会えない人となっていた。
夕焼け空。
黒いスーツに身を包み、私は駐車場に止めた車から降りた。
式場へ着くと、私と同じ格好をした同級生が、大勢集まっている。良く見れば、中、高校の先生、遠くへ引っ越した友人、音信普通だった知人も、皆集まっていた。
泣く者もいれば、黙って瞑想する者もいる。彼の短い人生は、この来訪者を見れば成功だったのではないかと思えた。
こんなとき、私はふと思う。
もし私が死んだとき、葬式には何人の人が来てくれるだろう、と。
それは心からの来訪? 社交辞令?
泣いてくれる人はいる? 惨めな私を嘲け笑う?
ただ香典を集めに来ただけ?
そんな考えを抱いててしまうほど、私はこの世界での無価値さを実感した。
彼については、正直いうと、よく知らない。
小学校の修学旅行で広島に行った時、活動班が一緒だった、という記憶しか、今はない。
ただ、可もなく不可もなく、大人しい性格だった印象はあった。いい意味でも悪い意味でも、私の記憶に強く影響を与える人ではなかった。
だが、全ての人が私と同じ境遇でも感覚でもなかった。友人は私の隣で泣いていた。良く覚えていないけど、悲しいからと。
私は泣けなかった。
悲しくないわけではない。ただ、今ここで私が泣いていいものかと、躊躇いが勝り、歯止めがかかった。
私に泣かれたって、彼が嬉しい訳もない。何も知らない私に涙を流されても迷惑ではないか?
それは自分主観な思い込みかもしれない。もし自分が泣かれる側に立ったら、思い出もろくに残らない連中に勢いで泣かれても、迷惑に感じるだろうという結果に至っただけで。
とにかく、私は涙を堪えた。
名簿に記入を済ませる。友人三人とその辺りをうろついていると、遺体の安置された部屋の前列のほうへ招かれた。
いいのだろうか? こんな場所に、座る権利が私にあるのか?
そう思いながら、人の列に飲まれ、いつしかそこに座っていた。
目の前に見える白木の棺。その中に彼は眠っている。
司法解剖とかしたんだろうか? 今、どんな顔をして眠っているの?
蛇から出てきた時に、原型は留めていたのだろうか、人間って、どれくらい放置したら腐敗し始めるんだろう? 彼はどの程度――?
悲しみの密室で、そんな浅はかな考えにばかり陥る私はサディストだ、狂っている。分かっているさ、誰よりも。
焼香を終え、外に出た。空は暗く、春の夜は少し、肌寒かった。
来客者全員が別れを告げるまで待つ間、私は建物の隅でお経を聞きながら、空を見上げていた。
暗くなり始めた空には、瞬く星が2つ。
昔、どこかで聞いた。死んだ人は、空の星になるのだと。
一つはきっと、彼に違いない。
もう一つは? ああ、そういえば近所の高校生も、同じ事故で亡くなった。遠足に行く途中だったらしい。
遠くにも、小さな星が浮かんでいた。ここより遠くで、誰かが星になっているのだろうか。100人以上犠牲者を出したのだから、最低でも100個の星が、新しく空を覆う。
なんて悲しくて、儚くて、綺麗なんだろう。
あれが生きた証。強く、真っ直ぐ、夢を持って歩んできた結果だからこそ、暖かく、眩く輝ける。
少し涙が込み上げてきた。それでも私は泣けなかった。
本当に悲しい存在は、死者よりも生者かもしれない。
ニュースで、なくなった人の簡単なプロフィールを紹介していた。
彼の話も、流れていた。
教師を夢見て大学に通い、サッカーやテニスが好きな、真面目で努力家だったと。
死んだ人たちは皆、夢を持っていた。
実現を打ち砕かれたと、悔い、嘆かれるほど立派な夢を。
私が死んだら、何と言って公開されるだろう。
根暗で、勉強もそこそこで、中途半端で、体力もなくて。
人に誇れる趣味も夢もない。社会に貢献する気すらない。
私には、人に誇れる特技なんてひとつもない。話されると、恥ずかしい経歴ばかりだ。
死んでからの出来事なんて知る由もないのだから、気にしなくていいのかもしれないけれど、私の性格だと、恥ずかしくて、死んでも死に切れないかもしれない。
私はこの世界に何を残す? 世界のために、何ができる?
献血に言って輸血を薦められる、お笑いじみた人生。
人助けも空回りに終わり、人に助けられてばかり。
誰かの力にすらなれない。
そう思うと、自分自身に泣けてきた。
最後に、彼の父親が、お礼がてら心から叫んだ。
「これから、まだまだ生きて、恋愛もして、就職もして、色々な出会いが待っていたはずやのに、何で死ななあかんかったんや!」
そんな言葉を聞いた気がする。
私の耳には、あまり感情的には入ってこなかった。流れる風みたいに、時みたいに。
あまりに現実すぎる心の叫びは、空想の中で生きようとしている私には、受け入れ難かったのかもしれない。
この先も、彼を思い出して泣くことはないだろう。
でも、彼には分かって欲しい。
私はあなたを天国へ見送るために、別れを少しでも惜しむために、この場へやって来たのだと。
私自身でも本心なのか分からない言い訳じみた考えを、一緒に持って行ってくれたなら、私が死ぬ時、少し救われるかもしれない。
私は所詮、私中心にしか物事を考えられない駄目な奴だ。
心の中で語りかけ、静かにその場を去った。
◆ ◆ ◆
『どうだい。恐らく、身近な人間の死に初めて直面して、戸惑って、どんな感情を抱けばいいか分からなくなっている人の夢だと思う。なのに、とても冷静で、乾ききっているというか……。何とも奇妙で、不気味な話だと、僕は思ったんだけど』
『そうですな。この誰か様の強い迷い、悩める思いが、夢の中でアルビさまに語りかけたのかもしれませんな。もし、何か改善できる答があるのなら、もう一度、夢の中で教えて差し上げられるとよろしいのですがな』
『なるほどー。そういう考え方もありか。中々、この図書館まで辿り着けない悩み人ってのも、結構いるからね。
よし、気持ちを切り替えて、もう一眠りしようかな。また会えるかは分からないけれど、会えたら伝えたい意見もあるからね。ありがとう、NO TITLE。少し眠る勇気が出た』
アルビさまは、今度はお昼寝をするべく、わたくしをお閉じになりました。
また会えるとよいですな。お休みなさいませ……。
さて、次はどのようなお客さまが、わたくしの身体を、知識を満たすきっかけをつくりに来てくださるのでしょうか?
皆さまのご来館を心からお待ちしておりますぞ。




