You’re My Hero
画面の外から俺達のことを見ている連中はこう言う。
「自分の人生における主人公は自分自身だ」――と。
概ねそれは正しい見解だと思う。そもそも主人公と、それに纏わる諸々のストーリーを描いたものが物語となるのだから、逆説的に言えば物語の中心に居続けるものが即ち主人公であるべきだ。であるからして、自分視点から主観的に一人称で描かれる、自分中心の一大長編物語『人生』の主人公は当然自分でなければならない。他に該当するものは存在しないのだから。
だが俺は違う。
俺は生まれながらにしての脇役。
主人公の物語を構成する一部品。
いくらでも替えの効く歯車。
自分の物語を持たず、他人の物語の中にのみ存在を許された作られた道具。
三伏穂貴――この世界のただ一人の主人公。自分の物語を生きる者。
その親友――それが俺に当て嵌められた役割であり、それだけが俺の存在意義だ。
それが全て。それ以上の価値は無い。
俺が舞台のセンターを飾ることなど、永遠にありはしない。あってはならない。
夏沢涼はそれでいい。
【n周目】
《一二月二日 昼休み 教室》
「あー、腹減った」
「ほら穂貴、早くお弁当食べたかったら早く机寄せる!」
「あいあい」
二学期も残すところ、あとひと月となった師走の昼下がり。いつものように僕と陽音が机をくっつけて拵えた食卓に弁当を引っ提げて寄ってくる針ノ木さんと涼。針ノ木さんの音頭で全員両手を合わせ、いただきますを合唱。合掌して合唱というダジャレ、ではない。
「それにしても、ファンタジー研究同好会が発足してからもう半年以上も経つんだねぇ」
陽音が弁当箱の蓋に手を掛けながらしみじみと零す。
「なんかこう、感慨深いものがあるよね」
「そうだね……」
微笑みながら答えたのは針ノ木さん。
「あの時は一人でおろおろしていて……みんなが協力してくれなかったら何も出来なかったと思う」
「なーに気弱なこと言ってんだよ、我らが会長さん」
涼が勇気づけるように言ったので、僕も続けせてもらう。
「そうだよ。針ノ木さんが頑張ってたから、僕等だって喜んで協力したわけだし。それに針ノ木さんのおかげで面白いファンタジー小説に沢山出会えたんだから、こっちがお礼言いたいくらいさ」
「そうそう! アタシなんかファン研に入らなかったら一生小説なんて読もうとしなかったと思う!」
「陽音……それは流石に酷いぞ」
「なによ、穂貴だって似たようなもんじゃない。マンガしか読んだことなかったくせに」
「『ズッコケ三人組』読んだことあるからお前よりましー。そんなことより『指輪物語』の三巻早く回せよな。二週間前に二巻読み終わってからずっとお預け喰らってるんだぞ。旅の仲間と別れたフロドとサムはどうなったのか気になって飯も喉を通らない」
「えっとね、あのあと三巻冒頭でボロミアが死んで――」
「ボロミア死ぬの!? あーもー酷いネタバレ聞いちゃった! そういうのいいから! お前がさっさと読み終えて僕に渡せば自分で読むから!」
「しょうがないじゃん、小説読み慣れてないんだから……」
「あははっ」
僕と陽音がガーガー言い合いするのは毎度のことだが、突然針ノ木さんが堪え切れないといった様子で笑い出した。
「ど、どうしたの針ノ木さん」
「ん、ああ大したことじゃないんだけど――」
針ノ木さんは僕ら三人をゆっくりと見渡しながら続けた。
「とっても楽しいな、って。こういうの。ファン研を作る前は独りで読書するだけだったから、読んだ感想とか、お互いに言い合える友達って居なかったから」
半年前、人間関係の縺れで文芸部を辞め失意の底にいた針ノ木さんは、同級生の僕らにさえ気を遣い、他人の視線から逃げ続け、不登校の一歩手前まで追い詰められていた。ひょんなことからそんな彼女の事情を知った僕は、彼女の居場所を作る為にファンタジー研究同好会の設立を画策。陽音と涼の協力でなんとか達成に漕ぎ着けた。
だから――
「今、私は本当に幸せなんだなーって思うんだ」
この笑顔は特別で、格別なんだ。
「僕も針ノ木さんの笑顔が見られて幸せだよ」
「えっ……そ、それ、は……う、うん。ありがとう……」
照れて顔を伏せてしまう針ノ木さん。こういう豊かな表情が見られるのも役得というものだ。
「ったく穂貴はよ、無自覚で剛速球キメるのも大概にしろよなー」
「なんだよ涼。どういう意味?」
「……むー」
「なに唸ってんだよ陽音」
「うっさい! から揚げ奪取!」
凄まじい瞬発力と緻密なチョップスティックコントロールで、陽音が僕の弁当箱からから揚げを略奪していった。
「あ! 僕の命の源・鶏からを貴様!」
「フロドとサムがどうなったのか気になって飯も喉を通らないんだからいいじゃん」
「それもお前のせいだ!」
「まあまあお二人さん。落ち着いて俺にも鶏からを寄越せ」
「仲裁を装って己の要求を押し通すな涼!」
「そうは言うがな穂貴、実は後々ガンダルフが――」
「わーかった! 鶏からやるからネタバレはマジで勘弁しろお願いします」
涼に攫われていく愛しの鶏からを、脳内でドナドナを流しながら見送っていると、針ノ木さんがおずおずと僕の寂しくなってしまった弁当箱を覗き込んだ。
「三伏くん、確か三伏くんのお弁当に鶏のから揚げって三つしか入ってなかったよね?」
「うん……これで僕の分は一個だけに……」
「実はね、最後にフロドは――」
「鬼!? ねえ針ノ木さん君の心には鬼が住んでいるの!?」
「うふふふっ、冗談だよ。私お手製の玉子焼きあげるから赦して?」
「え、あ、うん。赦してしんぜよう」
針ノ木さんの本性は小悪魔らしい。
ズバリ言おう。
恋愛シミュレーションゲーム――平たく言えばギャルゲーというやつだ――それがこの世界の正体である。
主人公は三伏穂貴。一般的な男子学生。
ヒロインその一、針ノ木雪香。海外ファンタジー小説好きな読書家。物静かでお淑やか、しかしお茶目な面も併せ持つメガネ美人。
ヒロインその二、雁坂陽音。穂貴の幼馴染。活発でガサツなところもあるが、友達思いの努力家。
そして俺が夏沢涼。穂貴・陽音の中学時代からの友人。文武両道の万能キャラで、三角関係を見守りつつ穂貴の恋愛成就を応援するサポートポジション。
俺達がゲームの登場人物だと知っているのは俺だけだ。何故俺が真実に辿り着いたのかは自分でも分からない。ある時気が付いたのだ。先の展開を既に知りながらも、脚本通りに動く自分に。
途中の選択肢によっていくつか用意されているエンディングのいずれかまで辿り着くと、自動的にスタートへ戻り、また新たにシナリオが始まる。俺はいつの間にか、前回までのループの記憶を保持したままになっていた。
この事実を知った当初は、自分の存在意義やら操られる自分の在り方やら色々と悩んだものだが、もうそんな域はとっくのとうに過ぎ去っていた。
シナリオに逆らってみようかとも思ったことがある。しかし何故か実行しようとする段になって、急激にそんな気が失せてしまうのだ。何らかの強制力が働いているのか知らないが、結局今も流れに流され、何度も口にしたセリフを言い、染み付いた行動を繰り返すだけ。
うんざり、なんて感情も湧いてこない。
俺たちは一種の機械だ。
高校生たちの純粋な『恋愛』模様を『シミュレーション』するだけの機械。
機械に感情など、あるはずもない。
《一二月一七日 放課後 ファン研部室》
「結局穂貴にとって、アタシって単なる幼馴染でしかないんだよね……二人で出掛けるのも『幼馴染だから』。部屋に遊びに行くのも『幼馴染だから』。手料理振る舞うのも『幼馴染だから』。手を繋ぐのも、抱き着くのも、裸を見られても……全部……!」
「それが何か間違ってるのかよ……最後のは事故だし……」
「間違ってないよ? 間違ってないけど……もうそれじゃ満足できないのアタシは!」
「一体何だっていうんだよ……陽音がどうしたいのかさっぱり――」
「……雪香」
「……針ノ木さんがどうかしたのかよ」
「好きなんでしょ、雪香のこと」
「……っ」
「正直に言って。お願いだから『そうだ』って言ってよ……」
「な、なんでそんなことお前に教えなきゃ――」
「いいから言いなさいよ! アンタがそうやって……そういう態度だから、アタシは……」
「……僕とお前は幼馴染で、お互いの事は何でも知ってると思ってたけど……今の陽音のことさっぱり分かんねえよ」
「アタシだって自分で自分がさっぱり分からない! 自分の言ってることの辻褄が合ってないのも分かってるし、アンタに当たり散らしてるだけだってことも自覚してる! でもどうしようもない……怖いのよ……無理に明るく振る舞って、でもその裏で嫌なこと色々考えてる自分がいて、そのうち全部壊しちゃいそうで……壊れちゃいそうで……」
「陽音……お前泣いて……?」
「お願いだからはっきりしてよ! 雪香のことどう思ってるの? アタシのことどう思ってるの? ねえ……ねえ!」
「ちょ……!」
勢いよく詰め寄ってきた陽音に気圧され、仰け反った僕はバランスを崩し、陽音を巻き込んで転んでしまった。
「ご、ごめ……」
「…………」
気が付くと、僕が陽音を床に押し倒したような体勢になってしまっていた。
「あ……すまん、すぐ――」
「穂貴」
すぐに退こうとした僕だったが、陽音が両腕で僕の首を抱き締めてロックしてしまい、動きを制されてしまった。
「は、陽音?」
「答えるまで離さないから」
「その……色々と当たってるんですけど……」
「興奮する?」
「は?」
「ただの幼馴染のアタシの体で、アンタは興奮するの?」
「……なあ陽音、やっぱり今日のお前なんかおかしいって――」
「アタシは興奮してるよ」
「っ……」
「穂貴の言う通り、おかしくなってるのかな。ただの幼馴染相手に興奮なんかする筈ないもんね。だからさ、ねえ穂貴……本音で応えてよ。その答えによってはアタシ……」
「……そ、その……僕は――」
「な、に……してるの…………」
「!?」
不意にかけられた震える声。陽音の真っ赤に染め上がった顔から視線を外し顔を上げると、部室の入口に人影があった。
針ノ木さんだった。
「は、針ノ木さん! これは……その……」
「……いいの。分かってるから……じゃあね」
言うが早いか、針ノ木さんは回れ右をして走り去ってしまった。
「…………」
「…………」
部室に気まずい静寂が立ち込める。いつの間にか僕の首に回されていた腕は解かれていた。
「……なあ陽音」
「…………」
陽音は先程までの体勢からくるりと一八〇度回転して、俯せになっていた。上からでは表情を窺い知ることは出来ない。
「……追え」
「え?」
「雪香を追っかけろって言ってんの!」
「いや、でも――」
「いいからさっさと走れこの大バカヤロー!」
という事態が現在部室で起こっているはずだ。
俺はと言うと、学校の近所のコンビニで雑誌の立ち読みをしている。つい今し方、針ノ木が涙ながらに走っていくのが見えた。普通なら何かおかしな事態になっていることに勘づき、彼女を追いかけなければならないのだが、そうはいかない。
今回のループでは、穂貴は針ノ木ルートに進んだらしい。したがって彼女を追いかけ、涙を拭くのはあいつの役割だ。
ところが、ここは重大なルートの分かれ目でもある。穂貴は当然針ノ木を追いかけるのだが、実はただ闇雲に探したところで絶対に見つからないようになっている。そういうシナリオなので一〇〇%見つからない。そのまま見つけられなかった場合、針ノ木ルートは残念ながらバッドエンドを迎え、クリスマスに俺の部屋で男二人寂しく鍋をつつく、通称『鍋エンド』で幕引きとなるのだ。
ではどうすれば針ノ木を見つけてハッピーエンドを迎えることが出来るのか。その答えはシンプルだ。それは――
(♪ワーグナー ワルキューレの騎行♪)
おっと、電話だ。失礼。
「もしもし」
「あ、涼! 突然で悪いんだけど針ノ木さん見なかったか!?」
「ああ、針ノ木ならさっき駅と反対方向に走ってったぞ。なんかあったのか?」
「んー、まあ、ちょっとな。ありがと! じゃ!」
とまあ、これが解答だ。
俺に電話して針ノ木の行方を訊くこと――それがハッピーエンドへのフラグだ。どうやらこのルートの穂貴は上手くいきそうだ……シナリオ上では。
表には出ないところで、ストーリーの辻褄を合わせること。それもサポート役たる俺に課せられた任務である。
「よっ」
「……涼? なんでここに……?」
「腐れ縁の勘ってやつかな」
「ふーん……まあ、なんでもいいや。もうどうでもいい……」
「……なんかあったんだろ、穂貴と」
「……別に」
「……まあ言えとは言わねーよ。お前は強い。このまま俺が知らんぷりしたところで明日からは何事も無かったかの様に明るく笑って、今まで通りの陽音を続けるんだろ」
「分かってるなら訊かないでよ」
「今まで通り気持ち溜め込んで、無理やり笑顔作って、必死に自分を殺して穂貴や針ノ木と接するんだろ」
「…………」
「見てられるか。仲間だろ。気なんか俺に遣うな。溜め込んでるもの吐き出しちまえよ。爆発物を分割管理してリスク分散してやるよ」
「…………」
「好きだったのか、穂貴のこと」
「…………わかんない。でも……」
「でも?」
「でも……アタシより雪香のこと大事に扱ってる穂貴を見ると、ムカついた」
「…………」
「嫌な女だよね……自分のものでもなんでもないのに、勝手に独占したがるとか……好きかどうかも分からないくせに……雪香も穂貴も悪くないのに、雪香なんていなくなっちゃえばいいとか、あの時助けたりしなければよかったとか……そういう最低なこと考えてた。ぽっと出の女に穂貴盗られたーとか……物心ついた時から一緒にいたくせになにも出来なかったアタシがヘボなだけなのにね。穂貴にだって、一番曖昧なのはアタシなのに、自分の事は棚上げして『ハッキリしろ』とか当たり散らして……挙句の果てに色仕掛けとか……雪香にも穂貴にも失礼……。ホンット嫌な女。嫌な奴。自分が自分で赦せない」
「自分を赦せるのは自分だけだからな。確かに俺にはどうしようもない」
「…………」
「ところで話は変わるけど、『指輪物語』のボロミアはフロドから指輪を奪おうとしただろ。あれは彼が人間である以上逆らえない誘惑だったんだろうと思う」
「…………」
「で、彼は結局その罪を赦されたわけだけども、それは何故だ?」
「…………」
「自分の過ちを告白し、懺悔し、後悔し、男らしく戦って死んだからだな。まあこの辺はファンタジー初心者の見立てだから間違ってても許してほしいわけだが……」
「…………で?」
「お前もボロミアっちゃえよ」
「ボ……ボロミアっちゃう?」
「正直な胸の内ぶちまけて当たって砕けろってこと。それが一番後腐れねーだろ?」
「アンタ……簡単に言うけどね……」
「簡単なもんか! ボロミア様舐めるなよ!」
「いや舐めてないけど……」
「スメアゴル曰く、指輪は『いとしいし(ひ)と』らしいけど、それを自分のものにしたいと思うことは、人間としては当たり前のことなんだと思うぞ」
「スメアゴルって誰?」
「あ、まだそこまで読んでなかったか。まあ気にするな。ともかく、俺は陽音のこと嫌な女だとは思わないぞ。むしろそこまで惚れられるというのは、男冥利に尽きるってやつだな」
「……やっぱりアタシって、穂貴のこと好きなのかな」
「ベタ惚れなんじゃないか?」
「ひゃ~っ、やめてよ恥ずかしい……!」
「恥ずかしいもんか。羨ましいよ」
「羨ましい?」
「ああ、こっちの話。もう大丈夫そうだな。送っていくか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと独りで……頭の中整理したいから」
「そうか。じゃ、俺はお先に」
「うん。また明日」
「いつも通りの陽音を演じようとなんかしなくていいからな。いつも以上の陽音を露出しちまえ」
「……ありがと」
「なんのこれしき。なんせ俺は――」
脇役だからな。
「――親友だからな」
《一二月二四日 夕方 駅前》
宝石のように煌びやかなイルミネーションが、聖夜に浮かれる幸せそうなカップル達を祝福するが如く仄かに照らしている。去年までの僕ならそんな雑踏を見ても独りで溜息を吐くだけだったが、嬉しいことに今年は僕自身もその一部となる為にここに居る。
「三伏くん!」
「やっ、針ノ木さん」
人の波を掻き分けて小走りで駆け寄ってくる針ノ木さんが、雲の隙間から降臨した天使に見えた――などと言ったらさすがに飾りすぎか。そんなことを考えてしまう程僕は浮かれているのだ。
「ごめんね……何着て行ったらいいのか迷ってたら遅れちゃって……」
「いいよ。僕もギリギリに来たからそんなに待ってないし」
本当は待ち合わせ時間の三〇分程前には居たのだが、こう言っておくのがデートの礼儀であろう。
「それに迷っただけあって、とっても可愛いよ」
「あ、ありが……とぅ……」
モジモジと照れて声が小さくなってしまう針ノ木さん。最近はこうやってわざと彼女の照れ顔を見るのが楽しくなった自分がいる。
「あの、さぁ……今日、その、お願い……がある、んだけど……」
「ん? 何?」
「私……えっと、ね……その、な、名前……で、呼び合いたいなー、なんて……」
「名前?」
「ほら、三伏くんと雁坂さんと夏沢くんは昔から仲良しだから、お互いに下の名前で呼び合ってるけど、私だけそこまで溶け込めてないというか……」
「あー……そういえば確かに」
言われてみれば僕と涼は針ノ木さんの事を苗字で呼んでいるし、針ノ木さんも僕らを名前では呼んでいない。別にそこに壁を作っているつもりはなかったが、向こうからすれば疎外感を感じていたのかもしれない。
「何度か名前で呼んでみようと思ったことはあるんだけど、なかなか切っ掛けが掴めなくて……」
「なるほど」
「……やっぱり、あのね。三伏くんと私が……特別な関係だってことを、実感したい、と言うか……その……だめ?」
「だめなわけないじゃないか」
駄目だ。目の前の彼女が可愛過ぎて微笑みが収まらない。
「じゃあ……雪香」
「ほ……ほりゃか、く……ああっ! ゴメン! かんりゃっちゃ(噛んじゃった)……!」
「あはははっ、落ち着いてよ。カミカミだよ。深呼吸深呼吸」
「う、うん……すー、はー、すー、はー」
「じゃあ、雪香の今日の目標は『僕の名前を噛まずに言えるようになること』にしよう」
「ば、ばかにして! じゃあ、こうだ!」
針ノ木――雪香は僕の右手を取り、左手で指を絡めて握った。所謂『恋人繋ぎ』だ。
「な、なに!?」
「私がほりゃかくんの名前をちゃんと言えるまで、この手を離さないこと!」
「ええっ!? てか今のはわざとでしょ!」
「さーて、どうでしょう。ほら、行こっ!」
「あーちょっと待って!」
雪香に手を引かれて、クリスマスキャロルの流れる街へ飛び込んでいく。今日中に僕は『ほりゃかくん』から脱却できるんだろうか。でも、まあ……当分はそれでもいいのかなぁ、なんて思ってしまう。
何はともあれ、今年のクリスマスは――大切な人と二人きりで過ごすクリスマスは――今までになく楽しい日になる。
そう、これからもずっと――
――〈雪香END〉
穂貴はよくやった。
一人の人間を幸せにするということは大変なことだ。その人と二人で幸せになるということはもっと大変なことだ。
俺には不可能なことだ。
俺には他人の幸せを見守り、手助けすることしか出来ない。
人を愛することすら――
……………………。
陽音は自分の気持ちを穂貴にぶちまけた。自分と見詰め合って考え出した全てを穂貴に打ち明けた。穂貴はそれを正面から受け止め、その上ではっきりと針ノ木を選んだ。陽音は納得し、円満に『親友』という関係に落ち着いた。
だが彼女は恋に破れたのだ。笑顔で敗北を認めただけで、幸福ではない。ハッピーエンドは、常にバッドエンドと表裏一体。成就した恋の数だけ、失恋の悲哀を見てきた。
主人公は一人しかいない。彼女達を幸せに出来るのは一人だけ。幸せになれるのは一組だけ。あぶれた者は、取り残される。俺は最初から独り者だけどな。孤独を気取る前に孤独を強いられている。
さて、終わりがあれば始まりがあるわけで、そろそろ次のループが始まる。次回は果たして誰が幸せになれるのか。はたまた誰も幸せになれないのか。期待しながら眺めているよ。
【n+1周目】
《一二月一七日 放課後 ファン研部室》
「な、に……してるの…………」
「!?」
「は、針ノ木さん! これは……その……」
「……いいの。分かってるから……じゃあね」
「…………」
「…………」
「……なあ陽音」
「…………」
「……追え」
「え?」
「雪香を追っかけろって言ってんの!」
「いや、でも――」
「いいからさっさと走れこの大バカヤロー!」
コンビニの窓の外を針ノ木が走り去ってから、もう一〇分は経っただろうか。俺の携帯電話はワルキューレの騎行を奏でない。
どうやらこのルートは失敗らしい。
穂貴は針ノ木を見つけられず、穂貴と陽音の仲を勘違いしたままの針ノ木は穂貴から距離を置くようになり、どうしたらいいのか分からない穂貴は陽音との関係もはっきりできず、結局寂しいクリスマスを迎え『鍋エンド』だ。
さてと……正直毎回立ち読みしている雑誌は同じだから暇つぶしにもならない。もうセリフの一つ一つまで暗記してしまった。部室に行こう。傷心の幼馴染が孤独に葛藤している。また一人、幸せになるべきだった恋愛被害者のアフターケアだ。
俺が陽音をどう慰めたのかはご存じの通り。シナリオ通り。
だから省略。
《一二月二四日 夕方 涼の自室》
「街中はカップルだらけだってのに、男二人で鍋か……」
「いいじゃねぇか、偶にはさ」
楽しげな雰囲気を窓の外に感じながら、僕と涼は二人で鍋を突いていた。芳しい出汁の香りが鼻をくすぐり、ぐつぐつと美味しそうな音が楽しげに飛び交う。しかし僕はそこまでテンション高くない。
「でもさー……クリスマスだぞ。せめて陽音か……針ノ木さんがいれば、画的に惨めさは和らぐんだけどな……」
「それをお前が言うのかよ」
「ん? どういうこと?」
「なんでもねーよ。そんなことよりもう白菜煮えてるぞ」
「お、おう」
悔しいが涼お手製の鍋は美味い。これが女の子の手料理ならどんなに良かったか。
「ま、今日は男同士の友情を深める日ってことでさ。変な意味じゃねえぞ」
「別に最初からそんな意味で捉えねえよ……まー気軽でいいけどさ」
今日は何も考えず、男同士の鍋パーティを愉しもう。鍋は街中のカップル達の様にあっつあつ。湯気が部屋に満ちホワイトクリスマス。煮沸音が僕らのジングルベル。
傷を舐めあう聖夜は、炬燵に優しく包まれて更けていく――
――〈鍋END〉
空の鍋を片付ける。
からっぽ。
…………。
【n+2周目】
《一二月一七日 放課後 ファン研部室》
「……追え」
「え?」
「雪香を追っかけろって言ってんの!」
「いや、でも――」
「いいからさっさと走れこの大バカヤロー!」
ワーグナーが聴きたかった。
「よっ」
「……涼? なんでここに……?」
「腐れ縁の勘ってやつかな」
「ふーん……まあ、なんでもいいや。もうどうでもいい……」
「……なんかあったんだろ、穂貴と」
「……別に」
「……まあ言えとは言わねーよ。お前は強い。このまま俺が知らんぷりしたところで明日からは何事も無かったかのように明るく笑って、今まで通りの陽音を続けるんだろ」
「分かってるなら訊かないでよ」
「今まで通り気持ち溜め込んで、無理やり笑顔作って、必死に自分を殺して穂貴や針ノ木と接するんだろ」
「…………」
「見てられるか。仲間だろ。気なんか俺に遣うな。溜め込んでるもの吐き出しちまえよ。爆発物を分割管理してリスク分散してやるよ」
「…………」
「好きだったのか、穂貴のこと」
「…………わかんない。でも……」
「でも?」
「でも……アタシより雪香のこと大事に扱ってる穂貴を見ると、ムカついた」
「…………」
「嫌な女だよね……自分のものでもなんでもないのに、勝手に独占したがるとか……好きかどうかも分からないくせに……雪香も穂貴も悪くないのに、雪香なんていなくなっちゃえばいいとか、あの時助けたりしなければよかったとか……そういう最低なこと考えてた。ぽっと出の女に穂貴盗られたーとか……物心ついた時から一緒にいたくせになにも出来なかったアタシがヘボなだけなのにね。穂貴にだって、一番曖昧なのはアタシなのに、自分の事は棚上げして『ハッキリしろ』とか当たり散らして……挙句の果てに色仕掛けとか……雪香にも穂貴にも失礼……。ホンット嫌な女。嫌な奴。自分が自分で赦せない」
「ちげーよ」
「――えっ?」
「んっ……?」
思わず声が口から洩れていた。
思わず声が口から洩れていた……?
「お前は嫌な奴じゃない。ただ選ばれなかっただけだ」
何言ってんだ俺は……なんで言ってんだ俺は。
「被害者なんだ。被害者が被害者面して何が悪い」
こんな展開ある筈がない。シナリオに無いのだから。
「誰も悪くなんかないんだ。それに陽音が選ばれたルートだって山程ある」
「ルート? 何の事なのか分かんないよ……」
俺にだって分からない。何故こんな本音をぶちまけてるんだ俺は。こんなこと今まで――
「一番嫌な奴は俺だ。一人で達観した気分になって、足掻こうともしないで、他人の恋愛をゲーム感覚で眺めてニヒル気取って……」
「涼……大丈夫?」
「俺じゃ駄目か」
は?
「え……?」
「穂貴じゃなくて、俺じゃ駄目か」
「そ……それって……その――」
「…………」
「――――」
やめろ。それ以上は駄目だ。過剰介入だ。
「駄目か」
「――…………っ」
陽音は真顔で俺の首に両腕を回し、狼狽えた俺を引っ張り倒した。俺が陽音を組み敷いた様な体勢になる。
「は、陽音……?」
俺の視界は一面床。陽音の表情は窺い知れない。
「…………」
陽音は何も言わない。
おかしいだろ。こういうのは穂貴の――
「……違う」
「え?」
「やっぱり……穂貴とは違う。さっきはもっと――ドキドキしてた」
「……そっか」
陽音は俺を解放した。俺は彼女に手を貸し、二人で立ち上がる。
「ごめん。やっぱりアタシ、穂貴のこと、好きみたい」
「……ああ、知ってる。俺は――」
俺は――
「――親友だからな」
俺は、何なんだ。
ぐちゃぐちゃだった。
喉と舌が俺の――俺と世界の支配下から離れて暴虐の限りを尽くしていた。
頭痛が痛い――あ、痛すぎて間違えた。
わけがわかんねーよ。
今まで何度も何度もシナリオに逆らおうとした。でも出来なかった。同じセリフを喋り、同じ行動をするだけの人生。それなのに、いつの間にか生まれてこの方表に出したことのない本音を吐き散らしていた。
……本音?
俺は本心から陽音に?
………………。
ちなみに、その後はいつものルート通りに進み、穂貴が針ノ木とくっつくことはなかった。
何度目か分からない、土鍋の用意だ。
《一二月一二日 夕方 涼の自室》
「街中はカップルだらけだってのに、男二人で鍋か……」
「……いいじゃねぇか、偶にはさ」
楽しげな雰囲気を窓の外に感じながら、僕と涼は二人で鍋を突いていた。芳しい出汁の香りが鼻をくすぐり、ぐつぐつと美味しそうな音が楽しげに飛び交う。しかし俺はそこまでテンション高くない。
「でもさー……クリスマスだぞ。せめて陽音か……針ノ木さんがいれば、画的に惨めさは和らぐんだけどな……」
「――それをお前が言うのかよ……」
「ん? どういうこと?」
「お前が……お前があとほんの少しでも、二人のことを考えてればあいつは……!」
「な、何を急にヒートアップして――」
「ただ状況に流されるだけで! 自分からどうにかしようと足掻こうともせずに! お前も……俺も……っ!」
「わけわかんねーよ! 今日のお前は変だ!」
「そんなことは分かってんだよ! もうとっくにおかしくなっちまってる! 俺も世界もな! 何が鍋エンドだ! 男の友情を自分のヘタレの言い訳にするな! 優柔不断野郎に食わせる鍋なんかねぇ! 帰れ!」
「なんだよ! 誘ったのはお前じゃないか!」
「男の誘いに乗る余裕があるなら、女を誘う算段を立てやがれ!」
「女って言われても……どこの誰を――」
「鬱ッ……憤ッ!」
瞬間的に充血した眼をグワッと見開いた涼が、握り締めた拳を思い切り僕の頬に打ち込んだ。
「……なっ、にすんだお前……!」
「無自覚だろうが何だろうがお前はあいつを傷つけた! いくら鈍感クソ野郎でも今の拳は効いただろ……本気でブン殴ったからな。だがあいつはお前の何倍もの痛みに苛まれ続けんだよ。そんな重症を負わせといて自分の惨めさを嘆くたァ……マジで良いご身分だな……! アァ!?」
「だから誰が誰を傷つけたって……」
「それが分からないからお前を殴った! そして分かるまでお前を殴る! それだけのことをしたんだよお前はァあああああああああァ――
【X】
突然空気が群青色になったらどうする。
唐突に重力が三〇度ずれたらどう生きる。
俺にとって今の状況はそれくらいの天地逆転なのだ。当たり前の世界のルールがある日ごっそり変容してしまった。
生き方が分からない。
リモコンで操作するラジコンカーに「リモコン壊れたから自由に走っていいよ」と指示したところで車は前には進まない。
それっぽい考察を拵えてみた。なぜ以前俺が自由に動こうとしても出来なかったのに、あんなことになってしまったのか。失敗時(己の感覚的には今回も失敗なのだが)は俺が自分から意識的にシナリオに逆らおうとした。だが今回は違う。俺はシナリオ通りに話を進めるつもりだった。だが、認めたくはないが俺の精神的許容量の小ささという不徳の致すところにより、突発的に、感情的に、爆発的に、無意識的に――まあ、所謂アレだ。キレてしまった。暴発だ。だが前者は何も変えられず、後者は驚く程の変化が渦巻いた。大きな違いは「意識的か、否か」というところだ。意識的に行われる抵抗には対処可能だが、無意識的に行われる反抗には介入出来ない――そんなところか。計画殺人は未然に防げても、衝動殺人は防げない――みたいな。
この想定が正しいと仮定する。すると不可能と思われていた、この世界のルールの破壊というものを成し遂げる可能性がまだ残されているということになる。だがそうなったところで、俺に為す術はあるのか。何らかの行動を起こすにしても、そこにほんの僅かでもシナリオに逆らう意思が紛れ込んでいれば、それは意識的な行動となり、事を成す前にその意思が揉み消されてしまう。
つまり俺は、再び俺がシナリオだとか、世界のルールなどといったことを忘れる程怒り狂い、その場の感情に任せてブチキレるのを待つしかない。ましてその結果が俺にとって都合の良い方向へ転がるかどうかは運任せだ。そして世の中と言うものは、その場の感情に任せて事を進めると、往々にして上手くいかないものである。
……結局結論は「無理」ということで落ち着いてしまった。まあ時間はたっぷりあるのだから、僅かな可能性を探りつつこの先のループを過ごしていこう。
言い忘れたが、俺は現在例のコンビニに居る。そう、あの分岐がまたやってきた。ここ最近は連続して針ノ木ルートに入っている。
前回色々とぶちまけてしまったので、今回の俺は至って冷静だ。粛々とシナリオ通り進めるつもりである。自分から動いても無駄なのだから。であるからして、読み飽きたマンガを立ち読みしながら、毎度同じモブキャラが歩いている歩道を窺い、走ってくる針ノ木を目撃する作業に取り掛かる筈だった。
気が付いたのは雑誌の中盤まで流し読みした頃だった。
とあるマンガの内容が今までとほんの僅か異なっている。
その違いは極々微妙なもので、全コマ記憶してしまうくらい読み込んでいる俺でなければ読み飛ばしてしまうくらいの差異でしかなかったが、それがどれだけ重大なものなのかは俺になら分かる。
存在してはならない変化。
その原因として思い当たるもの――それは一つしかない。前回のループにおける、俺の意図せぬ反抗。当該ループのみ調律が狂いはしたが、次のループに切り替わってしまえばリフレッシュされてしまう程の、世界全体からすればどうということは無い、根幹は揺るがない程度の傷なのだと勝手に解釈していた不意の暴発。あの時放たれた一矢が、この世界の肉を切り裂くだけでなく、骨まで到達し得るキラーインパクトになり得たのだとしたら……
この予感は次の瞬間確信に変わる。
動揺に震え、雑誌が歪むほど体に力が入っていた俺だが、己の使命を忘れていたわけではない。穂貴に指針を与える為、主人公をハッピーエンドに導く為に、泣きながら走り去る針ノ木を目撃しようと、目の前の歩道に目を光らせていた。彼女は予定通りの時刻、予定通りの方向から、予定通り走って来た。
雁坂陽音が、泣きながら。
(♪ワーグナー ワルキューレの騎行♪)
携帯がけたたましく着信を知らせているのにもしばらく気が付かなかった。
「……もしもし」
「あ、涼! 陽音が何処に行ったか分かるか!?」
「……一体何があった」
「説明は後でするから――」
「今しろ! なんで陽音なんだ! そんなはずないのに!」
「はぁ? わ、分かった……」
「穂貴の言う通り、おかしくなってるのかな。ただの幼馴染相手に興奮なんかする筈ないもんね。だからさ、ねえ穂貴……本音で応えてよ。その答えによってはアタシ……」
「……そ、その……僕は――」
「な、に……してるの…………」
「は、針ノ木さん! これは……その……」
「……いいの。分かってるから……じゃあ――」
「分かってない!」
「――三伏くん?」
「……針ノ木さん、そのままどこにも行かないで聴いていてくれ。陽音、とりあえず起き上がらして」
「う、うん……」
立ち上がる僕と陽音。邪魔の入らない部屋の中、三人で向き合う形になる。
「『お願いだからはっきりして』……か。ホントだよな。逃げてたよ僕」
「…………」
「…………」
重苦しい沈黙。二人が僕の言葉に全神経を向けている。僕はただ、それに真摯に応えるだけだ。
「最近ずっと考えてたんだ。このままじゃ駄目なんだろうって。『ただ状況に流されるだけで、自分からどうにかしようと足掻こうともしていない』って誰かに言われたような気がするんだ。そんなことこれっぽっちも記憶に無いのに」
僕はそっと自らの頬をさすった。
「痛いんだ、すっごく。でもこれは僕の痛みじゃないんだ。他の誰かの痛み。心の芯から響く痛み。僕が与えた痛みなんだ。僕には分かる。なんでか知らないけど心で分かる。僕の優柔不断のせいでどれだけ大切な人たちを傷つけてきたのか」
僕を見詰める二人の瞳。そのうち一人に向き直る。
「針ノ木さん」
「は、はいっ!」
声が上ずっている。そんな彼女を安心させるように僕は可能な限り優しく微笑んだ。
「好きです。大好きです。ずっと前から愛してました。どうか僕と付き合ってください。お願いします、針ノ木さん」
針ノ木さんは少しの間固まって、視線を左右に動かした後、僕の後ろに居る陽音を見た。陽音がどんな表情をしていたのか僕には分からない。顔を真っ赤に染めた針ノ木さんは、自分のへそを覗き込むように顔を伏せて、そのままやっと聞き取れるくらいの小声で呟いた。
「――……わ……私で、よよ、よろしけれ、ば……おぉお願いし……ます…………」
「……ありがとう――」
自分の責任ではない――そう主張して逃げるのは簡単だ。しかし僕は意図せず決定権を握ってしまっていたのだ。何故僕なのかは分からないけれど。
美しくも壮絶で、チョコレートのように甘く、麻薬のように身を滅ぼす個人的な戦争。勝利の月桂樹を授けるのも僕ならば、敗れた者に引導を渡すのも僕でなければならない。
「これが僕の出した答え――陽音」
背後に居るはずの幼馴染に声をかける。
「ごめん……陽音のことは、大切な幼馴染としか――」
僕はおずおずと振り返った。
そこには誰も居なかった。
「――ということがあって……」
「――――――――――」
「……あの……涼?」
「――穂貴……お前って奴は……」
「それで陽音は――」
「お前はお前の掴んだものを放すな。ヒロインを幸せにするのが主人公だろ。こっからは俺の役割だ。あいつのことは俺に任せろ」
「え……えーっと――」
「俺はお前を褒めてやるぜ穂貴! やっぱりお前は俺の大切な親友だ! じゃあな、切るぞ!」
「いやちょ――」
世界は既に崩壊していたのだ。一人の脇役の感情の発露によって、あっけなく構造は崩れ去っていた。致命傷どころの話じゃない。溜め技一発KOもいいところだ。今なら言える。この程度で破れる壁に俺はどれだけの時間苦労してきたのか。情けなくなってくる。
奇跡と言う程の奇跡ではない。
ただの一度、感情のままに動けばそれでよかったのだ。
なんてこった。俺はこの程度の薄っぺらい世界を守らされてきたってのか。感情に身を任せる。なんて良い響きだろう。もうシナリオに沿う必要は無い。やりたいことをやってやる。
最早この世界に主役も脇役もない。
三伏穂貴がいて、針ノ木雪香がいて、雁坂陽音がいて、夏沢涼がいる。
自分の立ち位置は誰にも縛られたりなんかしない。自分で決めて自分で進んでいく。
でも、まあ、元が学園恋愛シミュレーションなんだ。製作者様が、プレーヤー諸君が、画面の向こうでまだ眺めているのか知らないが、して欲しいなら特別にやってやろうじゃないか。
甘酸っぱい青春ってやつをよ。
「…………」
夜の帳が街を覆い始めた頃、陽音は独り、公園のブランコに揺られていた。
確かにハッキリしろと発破を掛けたのは自分だ。それに穂貴がいつも雪香を目で追っているのには気づいていた。雪香のことを恨めたら簡単だったろう。だが陽音にはそれが出来ない。消化不良になった感情の群れは彼女の中に溜まっていき、それがふとした弾みで噴出した。
手の内を全て晒して、なりふり構わない攻勢。
その甲斐も無く、己が愛したその人に止めを刺された。この結果は予想出来ていた、否、むしろ予想通りとも言える。しかし、ここまで自分が傷つくなど予想外だった。これ程までに自分は彼を愛していたのかと驚いているくらいだ。それを実感すればするほど、敗北の傷は疼き、否応なく『想い人に自分を全否定された』という方向に思考が流れ、涙が虚ろに溢れていく。
「あれ、ちょーっとキミキミ、どうしたの独りで」
「……?」
掛けられた声に顔を上げると、そこには知らない男が三、四人。
「泣いてるの? こーんな可愛いコ泣かすなんて酷い男もいたもんだね」
「……ほっといて下さい」
「いやいやー、ほらオレ達って見るからに男気溢れてるじゃん? 泣いてる女の子を独りになんかとても出来ないわけよ」
「ほっといてって言ってるでしょ!」
陽音は捨て鉢な気分のまま拳を握り、近づいてきた男の顔面目掛けて振り下ろした。しかし男は難無くその腕を掴んで止めた。
「おーっとと、そう邪険にされたらお兄さん悲しいって。どう? オレ達と遊ばない? 酷い男のことなんか忘れてさ、パーッと楽しくパーリナイっしようぜ」
「嫌です! ほっといて下さい! アタシ帰ります」
陽音は立ち上がり、踵を返して公園の出口へ向かおうとした。だが別な男が前に回り込んできて道を塞いでしまった。
「ちょっとなんで――」
陽音はそこで初めて、自分が下卑た笑みを浮かべた年上の男達に囲まれていることに気が付いた。
「キミさー、せっかく心配して声をかけてあげた人たちに対してそれは無いんじゃない?」
「い、いやっ……」
「ったくさー……オレ本当は無理やりとか趣味じゃないのよ? でもそっちがそういう態度でくるならさー……仕方ないじゃん?」
男達は段々と包囲網を狭めてくる。先程から喋っていた男が、陽音の腕を掴んだ。
「離して! 人呼びますよ!?」
「じゃ呼べなくしちゃお」
男は慣れた手つきで陽音の口を塞ぎ、さらに鼻も摘まんで呼吸が出来なくした。
「……っ! ……!」
「はーい苦しいねー苦しいねー」
陽音が限界と思わしきタイミングで男は口を押えていた手だけ外した。
「ッばはぁ……!」
陽音はもちろん自ら大きく口を開けて必死に酸素を吸いこもうとする。
「はい開けてくれてありがと」
その口に、丸めたタオルのような布が突っ込まれた。
「!?」
「ちょっと今ガムテ切らしててさー。苦しいかもしれないけど自業自得だからね」
試しに叫んでみたが、音が全く響かない。腕も押えられていて取り出すこともできない。
「んじゃ、どうすっか。誰かん家に運ぶ?」
「もうここでよくね?」
自分を犯す算段を立てる男達の会話を聞きながら、陽音はただ虚しさを噛み締めていた。
自分が何をしたというのか。何故自分がここまで虐げられねばならないのか。もしこの世界に神様がいるのだとしたら、弱者に鞭打つのが趣味なのか。なんて悪趣味。
もういい。やるなら好きなだけ痛めつければいい。どうせ自分にはもう、何も無いのだから――
「安心しろ。神は死んだ」
公園の入り口に誰かが立っていた。暗闇に包まれて何者なのか見えない。だがその声を陽音は知っている。中学時代からほぼ毎日を共に過ごした大切な友人の一人。そしてどこか、ここではないどこかで、何度も何度も壊れかけたところを救ってもらったような気がする、暖かい心地のする自信溢れる声――
「だからお前がこんな下らない災難に巻き込まれる筋合いなんざこれっぽっちも無ぇ。お前にだって幸せになる権利がしっかり残ってる」
「……あのー、状況分かってますかー電波クン。あのね、お邪魔なんだよ。とっとと失せろや」
「こんなシチュエーション、それこそ主人公のあいつの役回りだったんだけどな。もう茶番劇は終わった。こっからは俺のストーリーの始まりだ。お前らには栄えあるその最初のモブ役をくれてやるよ」
「チッ……おい、お前女押えてろ。この男を先にプチっとく」
一人を残し、三人が拳を鳴らしながら不敵に顔を歪める涼を囲んだ。
「もしかしてお前がアレか。あの子泣かした男か? 自分の女取り返しに来たか? はー、いいねぇヒーロー気取りかな?」
「泣かせたのは俺じゃないし、俺の女という訳でもないが、まあヒーロー気取りではあるな」
「一対三だぜ? 悪ぃコト言わねぇから今すぐ尻尾巻いて回れ右した方が身の為だと思うんだけどなぁ」
「お前らみたいな輩はギャルゲーやらねーから知らねーだろうが、主人公の親友キャラってのは、往々にして重度のオタクで女好きか、謎のハイスペックのどちらか、もしくは両方と相場が決まってんだ。ちなみに俺は後者だった」
「またわけわかんねーことを……もういいか。知らねーぞ。やっちまえ!」
「来いよ脇役。主人公補正ってやつを思い知らせてやんよ」
喧嘩には鉄則というものがある。それは『多対一の戦いは避けろ』というものだ。どんな喧嘩屋だろうと、大人数に囲まれたら勝ち目が無いと言っていい。つまりだ、俺が何を言いたいかというと――
負けた。
いや無理だって。一度も殴り合いとかしたことない奴が喧嘩慣れしたチンピラ三人相手にして勝負になるわけないだろう。あんだけカッコつけて『主人公補正ってやつを思い知らせてやんよ』とか言ったくせに開始一分も持たなかった。
そらボコボコよ。
ギッタンギッタンにされましたよ。
では陽音はどうなったかというと、こちらは無事助かったのだ。あの後駆けつけてくれた穂貴と針ノ木が「お巡りさんこっちこっち!」と、さも警察がそこまで来ているかの様な素振りをしたら、チンピラ共はさっさと退散していった。俺が最初からそれをすれば殴る蹴るの暴行は受けずに済み、むしろそういう方が日頃の俺のやり方には近かった気がするのだが――まあ、いいだろ。偶には、ヒーローを気取ってみるのもさ。
その後病院に担ぎ込まれた俺は、幸い大事には至っていなかったものの即入院を言い渡され、本日クリスマスイブ、一週間ぶりに自宅へ帰ってきた。
大切な親友三人と共に。
「それでは! クリスマス兼涼の退院祝い鍋パーティを開催しまーす!」
「「「イェーイ!」」」
「ふー、食った食った。ごっそーさん」
何度となく食べてきた俺特製鍋など、今日食べた針ノ木謹製豆乳鍋と比べたら月とすっぽん、提灯に釣鐘。穂貴め、こんな料理上手な彼女を手に入れやがって。幸せ太りしてしまえ。
「お粗末様です。じゃあ、お鍋片づけちゃうね」
「あ、雪香、僕も手伝うよ」
カップルが揃って出ていき、部屋には俺と陽音の二人だけが残された。俺が入院中の間、見舞いには大体三人が連れ立って訪れていたので、あの日以来陽音と二人っきりになるのは初めてだ。
「ねぇ、涼」
「ん?」
「その……ちゃんとお礼言えてなかったから。あの時のこと。本当にありがとう。涼が見つけてくれていなかったら、アタシどうなっていたか……」
「あー……つってもなぁ、ただボコられただけだし。結局あいつらを追っ払ったのは穂貴だしな。いやーカッコ悪いったらなかったな、ははっ」
「そんなことないよ!」
陽音がいきなり、自分のベッドに腰掛けていた俺の隣に飛び乗ってきた。
「うおっ」
「あの時の涼……なんだかよく分からないことも色々言ってたけど……とってもかっこよかったよ?」
「そ、そうか……」
穂貴が女子二人とフラグを立てまくる場面を傍から眺めてはいたが、自分がこういう状況に置かれるのはやはりまだ慣れない。
「でもやっぱ、男としてはさ、もっとカッコよく――主人公みたいにさ、華麗に陽音を助けてやりたかった。俺もまだまだだな」
「あの時も言ってたよね、主人公がどうたらこうたら……」
「んー……よく言うだろ? 『自分の人生における主人公は自分自身だ』って。ならさ、自分で自分を認めてやれる程度にはさ、胸張ってカッコつけて生きていければなー、と」
「――なんか涼、変わったね。前はもっと、こう、達観してる? みたいな感じで、無感情に感じる時が偶にあったけど……」
む、そうだったか。俺の演技もまだまだだな。
「あの日から、なんと言うか……エネルギッシュになった」
「そっか。確かにな。確かに今の俺……生きてて楽しいもん」
「うん。人生はやっぱり楽しくなきゃ。それに、さ――」
陽音がこちらに体を寄せ、持て余していた俺の手をそっと握った。
おっと、ここから先は秘密だ。もう画面の外に物語を発信する義務はこの世界にありはしない。これからは俺達一人一人が、それぞれのストーリーを歩んでいくのだ。
んじゃ、お前も頑張れよ、主人公。俺は俺で、俺のハッピーエンド目指して頑張るからよ。だから陽音が俺になんて囁いたのか、それは俺達二人だけの秘密。
「人生の主人公とか、そういうのちょっと分かんないけど――」
【You’re My Hero】――〈NEVER END〉
正直この作品好きじゃないんです。書いてて涼とおんなじ気分だった。自分で書いてて穂貴にはムカつくし、「今回はネタなしでド真面目な作品を書こう」なんて自分で決めちゃったもんだからはっちゃけられないしで。いやぁ難産だった。
でも構成とかは悪くないと思うんだよなぁ。なんかありがちな気もするけど。まあ僕自身実はギャルゲーみたいなのって殆どやったことないから、全部イメージなんですけどね。