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境遇と災い

 その翌日から、軽い朝食を済ますとすぐに飛行機の元へ修理へ行ってしまう居候の男に昼食を持っていくことが、フレデリカの日課になっていた。

「もうすぐ修理終わりそうですね」

 バスケットを大事そうに抱えたフレデリカが、森に佇む戦闘機の様子を眺めながら、その修理に勤しむ男に話しかける。彼女の表情は少し寂しそうだ。しかし、マティアスが振り向く直前に笑顔を繕う。

「その飛行機が直ったら、どうするんですか?」

 他人事を装って彼に尋ねる少女の表情は、今にも崩れそうなくらいに揺らいでいた。彼と過ごす日々が日常になっていた。元の生活に戻ってしまうことを想像すると、ぽっかりと心に穴が開いたように感じる。

「さあな。軍に戻れるわけもないし、ふらふらしてるさ」

 いっそのこと、この村に住んではどうか。そう口走ろうとする口を、少女はぐっと噛み締める。ここは竜族の住む村。人間が住んだとすれば、かなりの苦難があるはずだ。それを彼に背負わすようなことはできないし、したくもない。

 少女は何も言わないまま、操縦席に上がり込み、その中で丸くなる。銀色の翼も小さく折りたたまれて、背中に収まっている。

「好きだな、そこ」

 操縦席を覗き込んだマティアスが小さく笑う。その大きな手が少女の頭を撫でる。

「子ども扱いしないでください」

 掴むでもなく、はたくでもなく、やわやわとその手を払い除けたフレデリカが、不服そうに唇を尖らせる。その顔をさざめいた葉の隙間から射す光が照らした。

「ねえ、昼食にしましょう」

 狭い操縦席の中で、大きなバスケットを開ける。その中からいくつものパンが顔を出す。まだほのかに温かく、焼きたてであることが窺える。すべてが小ぶりで、綺麗な流線型をしている。

「さあ、どうぞ」

 汚れた手を拭いたマティアスは差し出されたバスケットの中から、比較的大きめのパンをひとつ掴むと、ありがとな、と礼を言ってそれを齧る。

 それを見届けたフレデリカも、その中のひとつを手に取り、食べはじめた。

 二人は操縦者を守る厚い鉄板を隔てて背中合わせになり、空を見上げる。さわさわと木の葉の擦れ合う音が、二人の耳を優しく撫でる。無数に射す日光がその森をぽかぽかと暖めていく。二人は遠くから聞こえる鳥の鳴き声を子守唄に、眠りに落ちていた。

 枝から落ちた一枚の葉がバスケットの上を音もなく滑り、少女の傷一つない真っ白の手のひらに収まった。


 その日の空の色は、昨日に比べると濁った白が目立っている。

 男は今日も戦闘機を修理していた。とは言え、昨日の段階で大まかな修理は終わり、小さな傷の修復という退屈な作業だった。左翼に空いた小さな穴を塞いでいると、後ろで木の枝を踏み折りながら、こちらに来る音を聞いた。

「フレデリカか?」

 返事はなかった。マティアスは念のために、腰に忍ばせておいた拳銃に手を掛ける。

「誰だ?」

 二度目の問いかけにも、声は返ってこない。さっきの一回以来、足音も消えている。

 足音を消せるなら、さっきの音は……。彼があの音が罠だと気がついたのは、その人影がマティアスの背後を取ってからだった。

「ばーん!」

 突然の大声に、マティアスの肩がわずかに跳ねる。

「やぁ、元気?」

 彼の肩を乱暴に叩きながら、その少女は大笑いしている。大人しそうな見た目のフレデリカとは違い、快活そうな少女だ。竜族の例外なく背中に生えた翼は、炎のように鮮やかな赤色をしている。フレデリカの妹で、名をヘルガという。彼女の腕には見慣れたバスケットがあり、風でわずかに揺れている。

「やっぱり、お姉ちゃんがよかった?」

 ヘルガが、にやりと目を細める。バーでどの女が好みかを聞くときの友人の下世話な目と、全く同じ目をしていた。マティアスは、その少女の眉間を指で弾く。ヘルガが短い悲鳴を上げてのけ反った。痛みよりも驚きが強いようで、目を何度も開閉させている。

 マティアスはこの少女がフレデリカの姉妹だと強く実感した。特にすぐに拗ねるところが。

「いい加減に機嫌を直してくれよ」

 姉と同じく操縦席に入ってしまったヘルガにどうすればいいか思いつかず、頭を掻くマティアス。

 しばらく硬直していた二人は、ぐぅという間抜けな音で同時に噴き出した。

「どっちのお腹が鳴った? おじさんだよね?」

「ま、そういうことにしておくさ」

 互いの顔を見合わせながら、けらけらと笑う。

「なんか、お姉ちゃんが懐いてる理由がわかった気がするよ」

 少女は一人で納得したように、何度も頷く。

「おじさん、恐くないんだよ。優しいんだね」

「さあな。フレデリカにも言われたが、俺自身にはわからんさ」

 照れてる照れてる、とヘルガが笑う。その笑みを少し寂しそうに歪ませ、ヘルガが話しはじめる。

「お姉ちゃんさ、ずっと孤独だったんだ。人間の血が濃く出てるからって疎まれてるの。あたし達だって元々、人間と竜の混血なのにさ。竜の方がいいんだって」

 少女は部外者であるマティアスに、この村での彼女の境遇のこと、過去にあった嫌がらせのことを事細かく話した。その話が進むたび、マティアスの顔色は曇っていく。最後には真剣な眼差しで、その話に耳を傾けていた。

 その話の締めに、ヘルガは彼にひとつ、小さな頼みごとをしてきた。

「お姉ちゃんを独りにしないであげて。孤独じゃないことを知っちゃったお姉ちゃんに、もう孤独は堪えられないはずだから」

 ヘルガ、君がいるじゃないか。マティアスには、それを言うことはできなかった。遠くから響いてくる、幾重にも折り重なった爆音を聞いたのだ。

「この森を吹き飛ばす気か……。ヘルガ、村に戻って、避難するように伝えてくれ」

 落ち着き払ったマティアスが顔色ひとつ変えず、辺りを見回しているヘルガに告げる。

「おじさんは……?」

 小さく笑った彼は、雲を切り裂いて姿を現したかつての親友の機影を見つめている。

「俺が持ってきた災いだ。自分で始末をつけるさ」

 幸い、修理は終わっている。マティアスはエンジンを起動させる。重い駆動音が森に響き渡る。この音は空を飛んでいる彼らにも届いているだろう。じきにここに敵機が集まってくるはずだ。

 彼はゆっくりと神に祈る。その間、この男には爆音も、エンジンの駆動音、プロペラの回りはじめた音も聞こえていない。

 瞼をゆっくりと開けたマティアスは、操縦桿をゆっくりと掴んだ。空に浮かぶ影は五つ。

「上等じゃないか」

 プロペラが本調子で回転を始め、彼を乗せた機体は、ゆっくりと前に進みはじめた。

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