墜落者
刺すような鋭い痛みを感じた。切れた頬からは血がにじんでいる。だが、彼はそれを気にしてはいなかった。気にする暇などなかった。
その男がいるのは、数秒後に墜落する戦闘機なのだ。
「ぐ――ッ!」
男は力の限りに操縦桿を引く。桿を引くにつれ、機体が大きく悲鳴を上げた。翼が枝木をへし折り、機体に無数の傷を刻んでいく。
巨木に衝突しなかったのは奇跡と呼んでもいいだろう。男はそんなことを考えながら、地面を削り取って止まった戦闘機の操縦席の中から、広々とした空を見る。木々の間から覗く空には一機の戦闘機。自分が乗っている機体より、一世代新しい。そして、彼を追い回した機体でもあった。
「大丈夫か、ベベ」
優しく呟いた男が自分の出血など気にも留めない様子で、傷だらけの機体を我が子のように撫でる。
エンジンを切った男が地面に降りる。筋肉質で大柄な男。その茶髪には白色も混ざっていたが、老いて見えるようなほどでもない。男の身体にはいくつかの傷があったが、大したことはないという表情のまま、風で乱れた髪を掻き上げる。彼の碧い瞳は上空を旋回しつづける戦闘機から離れることはなかった。
彼がしばらく眺めていると、その戦闘機も引き上げていった。男が死んだと判断したか、燃料が切れたのだろう。
やっと緊張の糸が切れた男が、機体にもたれるように座り込む。彼は水筒を取り出すと、その中身を一気に飲み干す。喉がわずかに熱くなる。
「やっぱ、あんまり美味くねえな」
その安酒の感想を吐き捨てると、ゆっくりと目を閉じる。彼の耳に聞こえてくるのは鳥の囁き。葉の擦れ合う音。それと風の音だ。
「静かだな。隠居するときは、こんなところでのんびりしたいもんだ」
男は静かに笑う。大きくなった風の音に男は気がついた。これは、風の音じゃなかったと。
「おじさん、誰ですか?」
赤い瞳が彼を見ていた。
木の陰から顔を出した少女が、俺の顔を覗き込む。おじさんとは酷いな、そう言い返そうと顔を上げると、彼は片眉を上げた。
最高級品の白磁の皿よりも白いであろう肌。それが強調する朱に染まる頬。だが、男の興味が惹かれた箇所はそこではない。一対の銀翼。鱗の一枚一枚がそれぞれに光を反射し、違う色を見せている。その翼が少女の呼吸に合わせるように、ゆっくりと動いていた。
「って、血が出てるっ!」
少女の驚愕の声に、男は改めて自らの身体を見る。大したことはないのだが、子供の擦り傷や切り傷の尺度としてみれば大ごとなのだろう。
その少女はすぐに男を治療しようとするが、包帯もないため、彼を家に半ば強引に招待した。男にはそれを拒否する時間すら与えられなかった。
招待された男が唯一、気になっていたのは、森に置きっぱなしにされた愛機。一応、木の葉で隠してはおいたが、誰かに持ち去られてはいないか。それだけが気掛かりであった。
男の怪我は一つ残らず治療されて、包帯でぐるぐる巻きになっている。特に医療の心得があったわけでもなかった少女の治療は、どんな怪我でも片っ端から消毒液を塗り、ガーゼを貼ってから、幾重にも包帯を巻きつけるという、実に大袈裟なものだった。特に大きく切った頬の傷の治療のときなんて、その傷口を見て、泣きそうな表情を浮かべながら消毒しようとするので、顔をミイラ男にされては敵わないと、おずおずと傷口に伸ばす少女の手からそれらをひったくり、彼自らが治療した。
「まあ、助かった」
あの程度の怪我で怖気づいたのを反省しているのか、彼の目の前で背中を丸める少女の金色の頭を男は優しく撫でる。頭を撫でたとき、彼はふと隣の家に住んでいた幼子を思い出した。
「い、いつまで撫でるのです……?」
うずくまる少女が涙声で尋ねる。
「あぁ、悪かった」
その声で彼は少女の頭から手を離す。物思いにふけっていて、随分と長い時間、頭を撫でていたようだった。
別に構いませんが、とぼそぼそと言い、立ち上がった少女がすうと息を吸う。
「フレデリカ」
「は?」
少女の突拍子のない言葉に男がつい、聞き返してしまう。
「私の名前です。フレデリカ=トゥーリ」
そう言った少女が、その細い手を男へと差し出す。
「マティアスだ。よろしくな、フレデリカ」
柔和な表情をした彼が、その大きな手で少女の手を握る。それを握り返した少女がにっこりと笑みを浮かべ、昼食があるので持ってきますと足早に部屋から出ていった。




