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 エーリがロシアに着いて三日が過ぎた。

 その三日間の殆どはモスクワ周辺の観光名所を巡ることに費やされ、何か用事があってロシアを訪れたというよりも観光目的でロシアまで来たのだろうとホテルの人間はそう思っていた。

 実際、エーリは観光を楽しんでいたし、少々ガラの悪いバーに出入りする事以外、特別な事をしている素振りを見せなかった。目的を知っている連れでもいたなら、彼の行動を不審がっていただろう。そして三日目の晩に彼の行動の理由を理解して納得しただろう。

 その日、エーリはいつものようにガラの悪い場所へ向かっていた。

 いつもならば、そのままバーに入るはずだったが、その日彼はバーを素通りをしてどんどんと人気のない場所へと入っていった。

 やがて行き止まりまで来るとエーリは立ち止まって煙草に火を付けた。

「よう、元気そうだな」

 振り向きもせずに言いながらエーリは両手を上に上げた。

「……そのまま何もせず振り向いて下さい。妙な素振りをしたら撃ちます」

 憎悪を含んだような神経質な声が聞こえてエーリは少し笑う。

 どんな顔をしてこちらを睨んでいるのか、見ずに分かる気がした。実際振り返ってみれば予想通りの厳しい顔をした隻眼の男がこちらを睨んでいた。激しい憎悪と嫌悪感を隠そうともしない顔だった。

 黒髪になっているのは追ってくる人間の目を眩ませるためだろう。目立つ目の傷を隠そうとしているのか、いつもの黒い革製の眼帯ではなく、医療用の白い眼帯をしていた。そうなると少し印象が変わったようにも見えたが、顔立ちは見慣れた顔だった。

 黄金の翼の幹部にいた男‘隻眼の鷹’と呼ばれた男だ。

 手には小型のオートピストルが握られている。

「煙草、吸っても良いだろう?」

「………」

 男は答えなかったが、エーリがゆっくりと煙草に手を掛けて突然撃ってくるようなことはしなかった。

 或いは見境も無くなっているのではと懸念していたが、頭の中はまだ「正常」に保っているようだった。

「俺に何の用だ? 探していたんだろう?」

「……お嬢様が、死にました」

「知っている。ニュースで見た。まさかお前が生き残っているとは思わなかったが」

 ロハの表情が憎悪に揺れる。

「貴方のせいですっ」

 エーリは分からないと言う風に首を振った。

「俺のせいだと言われても納得出来ない。あのお嬢ちゃんが勝手に選んだ事だ」

「ですが、貴方が行方知れずにならなければお嬢様は……っ!」

 ぎり、と奥歯が鳴る。

 こういった表情を見るのは初めてかもしれない。だが、エーリは彼がこういった表情を持っていることは初めから知っていたような気がした。冷静さの下に、彼はいつもこの表情を押し込めていたのだ。

 ロハは冷静な男だった。人当たりが良く穏やかで組織内では「外交」を任せられるような男だった。その下にどんな表情を隠していようと、常に冷静な判断が出来る点はエーリも彼のことを評価していた。ただ、信念があるガイルとは違い彼には何もない。彼にあるのは「お嬢様」だけなのだ。

 もしも、同じ物を目指していたなら少し変わっただろう。だが、彼の目指したのはお嬢様の希望をかなえることだけ。だからロシア作戦の時に生き残ったのがガイルではなく彼だと知った時、もう組織は駄目だと思ったのだ。

 エーリは煙草の煙を吐き出す。

「俺が残った所で何も変わらなかった。俺は何もしなかった。嬢ちゃんのやることに手出ししなかった。結果、俺がここに存在しない可能性があるだけで現状に代わりはないはずだ」

「そんなことは、実際に貴方が組織に残っていなければ分からないことです。貴方がお嬢様を見捨てず、残っていたなら、お嬢様は助かったんだ」

「理論が破綻している」

 エーリは煙草をふかしながら、ゆっくりと彼に一歩近づいた。

 彼は少し後退する。

「俺は自分がしたくないことは死んでもやらない。だからお前が言っている可能性は起こり得なかった」

「そんな子供みたいな理論、この社会で通じると思っているんですか!」

「この社会だから通じるんだよ。自分の信念曲げてまでやるだけの価値が見えなければ無意味なんだよ。……そんなこと、信念の欠片もないお前に言ったところで理解しないだろうな」

「うるさいっ! 貴方に………人を本気で好きになったことのない貴方に何が分かるんですか!」

「………」

「私にはお嬢様が全てだった。裏切られて、片目を失って、拾われてあのお屋敷に入った時から、私にはお嬢様しかいなかったんです。それを失うことがどんな気持ちか貴方には分からないでしょう。フリーダさんが亡くなった後、屋敷で笑って過ごしていた貴方なんかには!」

「わからねーよ」

 エーリは煙草を地面に落とす。

 跳ね返った吸い殻を踏みつけて、冷たい表情をロハに向ける。

「……人を本気で好きになるって何だ? 大切なヤツが死んで、全てを恨んで復讐するのが愛か? 毎日暗い顔をして泣いていれば良かったのか? 後を追って死ねば良かったのか?」

 エドを失って、一人が耐えられずラリーの屋敷に厄介になることになった。屋敷の中で修繕作業をしたり、屋敷に住んでいる女中や執事をからかって遊んだ。

 復讐する気なんて起きなかった。突然すぎて涙すら出なかった。死のうと考えなかった訳ではないが、彼女の泣き顔を見るような気がして出来なかった。それで生きるにはそうするしかなかったのだ。エドのおかげで安定した気持ちが、また崩れてしまう前に、立ち上がる手段を探すしかなかったのだ。

 そうしなければ死よりももっと深い場所に落ちてしまう気がしたのだ。

「俺は確かにラリーから後見人を引き受けた。約束はお嬢が成人するまで。それ以降は、お嬢が決めればいいと思っていた」

 選ばなかったのは彼女の方だ。

 それでも万一自分が必要になる可能性を考えて、エーリは彼女が成人しても暫く傍らに残った。諫める立場にあるガイルがいたからだ。ガイルの言葉に耳を傾け、考えを変えることがあったならエーリの力が必要になるだろうと思った。けれど、結局ガイルは殉死し、彼女の言葉に唯々諾々と従う彼しか残らなかった。

「………お前はラリーが誰のために俺をお嬢の後見人に付けたと思っている?」

「どういう意味ですか?」

「ラリーがあの会社の名前に‘ユートピア’という名称を使ったのはどうしてだと思う? どうして俺が、ウォールナットと呼ばせたと思う?」

 ラリーが息を引き取る瞬間に立ち会っていなければ、エーリも誤解していただろう。ラリーはエーリに自分の娘を託すことでエーリに‘生きる理由’を残そうとしたのだと勘違いをしていただろう。

 でも、それは違う。

 あの時、彼は言ったのだ。

 すまない、と。

 その言葉が真理だった。だから親友の最後の我が儘を聞いてエーリはそこに留まっていたのだ。

「先代は……自分の理想を形にするつもりで組織を作った。それ以外に、何があると言うんですか?」

「理想、ね」

「先代はいつも言っていました。この世界を少しでも争いのない世界にしたいと。そのために私たちは戦ってきた。お嬢様はその意思を継がれた。貴方が後見人になったのはお嬢様をお守りするためでしょう」

「………だから、お前じゃ駄目だったんだ」

 男の瞳に怒りが燃え上がる。

「何が言いたいんですか」

「お前の考えが、レイアを殺したんだ」

「っ!!」

 耳を劈く鋭い音を立てて、エーリの真横を銃弾が通過する。

 硝煙の匂いが立ちこめている。耳の辺りが少し熱い。

 エーリは真っ直ぐ男を見つめた。

 彼はただ、怒りに肩を上下させながら、白い煙を吐く短銃を握っている。

 元々ライフルでの狙撃を得意としていた男だが、この短距離で外す訳がない。恐らく動揺が勘を鈍らせたのだろう。エーリに当たるはずの銃弾は、真後ろの壁にめり込むようにして止まった。

「もう一度……言って、見ろ。今度は、その目、撃ち抜いてやる」

「やってみろよ。だが言っておいてやる。お前は絶対に後悔する」

「貴方を殺して私が後悔するとでも言いたいんですか?」

「……お前、その顔でお嬢に会えるのか?」

「………!」

 図星を突かれたように彼は固まった。

 死ぬつもりだったのだろう。

 エーリを殺して自分も死ぬ。最初からそのつもりでエーリを捜していた。組織を復活させたいとか、そんなのは口実だっただろう。エーリを挑発しておびき寄せて心中するつもりだったのだ。

「お前はお嬢が死んだことよりも、自分が生き残ったことの方が辛いんだろう。だから、誰かを恨まずにいられなかった」

「はっ……そんなことを言って私を動揺させるつもりですか?」

「どうとっても構わない」

 彼だって本当は気付いているのではないだろうか。

 自分が妄信することで、彼女の歩むスピードを速めてしまったこと。本当は立ち止まって振り返るべき時に振り返らせず、背を押してしまったのは、ロハが彼女を信じて止まなかったからだ。

 挑発するように、エーリは笑う。

 そして英語でゆっくりと付け加えた。

「Go ahead. Make my day.」


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