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婚約者に婚約を考え直したいと言われたので、ベンチでクッキーを食べていた少女に相談しました

作者: 春樹凜
掲載日:2026/11/07



 放課後の学院に設けられた、貴族生徒用の小さな談話室。

 向かい合って座る婚約者の微笑みは、いつも通り穏やかだった。


 リヴァイは公爵令嬢であるイザベラと、幼い頃から婚約を結んでいる。

 二人の関係は極めて良好だと思っていた。

 一度も言い争ったことはなく、彼女はいつだって楽しそうに自分の隣へ寄り添っていた。

 何よりイザベラは、これまで何度も、リヴァイのことが好きだと伝えてくれていたのだ。


「リヴァイ様。わたくしたちの婚約を、一度考え直しませんか」


 だからこそ、リヴァイは、彼女の口から紡がれた言葉の意味がまったく理解できなかった。


 何か言わなければと思うのに、喉が張りついたように声が出ない。

 目の前に座っているはずの婚約者の声が、妙に遠く感じられた。


 長い沈黙の末、ひとつ息を吸ってから、リヴァイはようやく言葉を絞り出す。


「……何か不満があるのなら、直す」

「そういうことではありませんの」

「では、なぜだ」


 リヴァイの胸の奥では、得体の知れない不安が急速に膨らんでいる。

 それでも動揺を悟られまいと、できる限り平静を装った。


 すると、イザベラは膝の上で両手をきつく握りしめ、迷った末に伏し目がちに告げた。


「……リヴァイ様が必要としているのは、わたくしではないような気がするのです」

「そんなことはない。君以上に、次期公爵夫人にふさわしい女性はいない」


 教養や礼儀作法、領地経営に対する理解など、どれをとってもイザベラは完璧であり、彼女以外の相手など考えられなかった。

 リヴァイにとっては、これ以上ないほどの褒め言葉だった。

 ところが、それを聞いたイザベラは、ひどく悲しそうに微笑んだ。


「……やはり、そうなのですね」


 イザベラが、自分の言葉に傷ついている……。

 だが、何が彼女を傷つけたのか、リヴァイにはまったく見当もつかなかった。


 「どういう意味だ」「私の何がいけなかった」と重ねて尋ねても、イザベラは「少し考える時間をください」と繰り返すだけだった。

 やがて彼女は立ち上がり、顔を伏せて談話室を出ていく。


 リヴァイは無様にも腕を伸ばしただけで、引き留めることも、追いかけることもできなかった。

 自分ほどイザベラを大切にしてきた男はいない――そう自負していた確信が、音を立てて崩れていくのを感じていた。


 普段なら学院を出たあと、そのまま公爵邸へ戻り、父から任されている領地関係の書類に目を通す時間だった。

 だが今日のリヴァイは、校舎裏の庭園へとふらふら足を運び、そうして気づけば、人通りの少ない古いベンチに腰を下ろし、深くため息をついた。


 イザベラの悲しそうな、傷ついたようなあの表情が頭から離れない。

 一体どうしたらいいのか……。


 そこへ、乾いた落ち葉を踏むような、小さな足音が聞こえてきた。

 のろのろと顔を上げ、反射的に音の方へ目を向けると、一人の女子生徒が立っていた。


 彼女は、ベンチを占拠しているリヴァイを見て少しだけ迷う素振りを見せたが、やがて「失礼します」と小さく呟き、ベンチの端にちょこんと座った。

 そして、特に隣を気にすることなく、膝の上でクッキーの包みを広げ始める。


 リヴァイは最初、横でもくもくと菓子を齧る彼女を気に留めなかった。

 しかし、一人でどれだけ思考を巡らせても、イザベラの悲しそうな顔の理由が分からない。

 その時、隣から声がした。


「何かお悩みでしたら、お話聞きましょうか?」


 普段ならば決してそんな誘いに乗らないリヴァイだったが。

 ……限界だった。


「君、少し話を聞いてくれないか」


 口にしてから、リヴァイは初めて、隣に座る少女の顔をまともに見た。

 特別目を引くところのない、ごく普通の少女だった。

 そのせいか、以前どこかですれ違ったことがあるような気もするが、気のせいだろう。

 当然、知り合いなどではないし、不躾な頼みだと分かっていた。


 だが、女子生徒は無視することなく、クッキーを食べる手をぴたりと止め、こくりと頷いた。


「私でよければ」

「実は婚約者に、婚約を考え直したいと言われた」

「それはまた、おやつの合間にちょっと聞くにはずいぶん重たいお話ですね」


 少女はそう言ったものの特に嫌な顔ひとつせず、二枚目に手を伸ばしながら向き直った。


「君は、なぜだと思う?」

「今のお話だけでは、さすがに何とも……。何か、婚約者様を怒らせるような心当たりはないのですか?」

「ない。少なくとも、今日までは関係も良好だと思っていた」


 リヴァイは、自分がどれほど婚約者として、すべきことを欠かしていなかったかを説明した。


 週に一度は必ず会い、定期的に贈り物を欠かさない。

 将来の領地経営についても真剣に話し合っている。

 他に親しい女性を作ることもなかったし、リヴァイなりに大事にしていたつもりだった。


「それなのに、突然婚約を考え直したいと言われた。理由が分からないんだ……。一体私の何が不満だったんだ」


 リヴァイが吐き出すように言うと、少女はぱりぽりとクッキーを咀嚼し終わったあと、淡々と尋ねた。


「ちなみにその贈り物というのは、最近では何を?」

「隣国で流行している香水だ」

「もしかして……青い硝子瓶に薔薇が刻まれた香水ですか?」

「ああ、それだ」


 少女は、クッキーを口元へ運びかけたまま止めた。


「あれは確か、かなり強い薔薇の香りがするものですよね」

「……そうなのか?」

「香りを確かめずに贈ったのですか?」

「店主に、今もっとも令嬢たちの間で流行している品だと勧められた。瓶も美しかったし、贈り物にはちょうどよいと思ったんだ」

「婚約者様は、普段から香水をよくお使いになるのですか?」

「いや。ほとんど使わない」

「香りのお好みは?」

「強い香りは、苦手だったはずだ」


 自分で答えた瞬間、リヴァイは眉を寄せた。

 少女も同じことを思ったらしく、何とも言えない顔でこちらを見ている。


「で。強い香りが苦手な方へ、中身も確かめずに、流行しているという理由だけでその香水を贈ったのですか?」

「…………」


 何も言い返すことができなかった。

 少女はじっとリヴァイの顔を見つめ、さらに問いかけた。


「では、婚約者様のお好きな花は?」

「鈴蘭だ。だが、香りの強いものは苦手だから、部屋には飾らない。庭で眺める方が好きだと言っていた」

「お好きなお菓子は?」

「林檎を使った焼き菓子だ。ただし、シナモンが強いものは好まない」

「好きな色は?」

「淡い青だ。瞳の色に合うと言われるからではなく、幼い頃に母君から贈られたリボンと同じ色だから好きなのだそうだ」


 即答するリヴァイに、リアは少し意外そうに瞬いた。


「……ずいぶんよくご存じなのですね」

「当然だ。イザベラのことなら、たいていは知っている」

「それなのに、どうして香りの強い香水を贈ったのですか?」

「…………」


 再度放たれた質問に、リヴァイはやはりまた言葉に詰まった。


 その時ふと、数年前、イザベラに鈴蘭を模した小さな髪飾りを贈った日のことを思い出す。


『わたくしが、この花を好きだと覚えていてくださったのですね』


 あのときの彼女は、今よりずっと幼い顔で、弾けるように笑っていた。

 リヴァイはその笑顔が見たくて、王都中の店を何日も回ったのだ。

 彼女の喜ぶ姿を見られただけで、胸の奥が温かくなったのを覚えている。


 だが今回の香水を選んだとき、自分は一度でもイザベラの笑顔を思い浮かべただろうか。

 思い出せるのは、「今一番の流行品です」と胸を張った店主の言葉と、それならイザベラも喜ぶだろうと、安易に決めてしまった自分のことだけだった。

 

 イザベラを喜ばせたい気持ちは、今も変わっていない。

 それなのにいつから、自分は彼女が喜ぶものではなく、世間の令嬢が喜ぶものを選ぶようになっていたのだろう。


 黙ってしまったリヴァイだが、少女の追求は止まらない。


「週に一度、何をお話しになっていたのですか?」

「公爵夫人になるための教育の進捗や、出席予定の式典についてだ」

「婚約者様がお好きな本や、最近あったことなどについて会話をしたことは?」

「昔は……あったと思うが。ここ最近はそんな話は」

「では、婚約者様から、一緒に何かしたいと望まれたことはありませんか?」

「……一度、庭を歩きたいと言われたことはある」


 ――リヴァイの脳裏に、一カ月前のお茶会の記憶が蘇った。


『庭の鈴蘭が、今年も咲いたそうです』

『そうか』

『よろしければ、お茶のあとに少し見に行きませんか?』


 その日窓の外では、冷たい風に木々の枝が揺れていた。


『今日は寒い。庭はまた今度にしよう』


 イザベラが風邪を引かないようにと配慮してのことだった。


『……そうですね』


 イザベラはいつものように穏やかに笑っていた。

 だからリヴァイは、彼女が納得したものだと思った。


 だが、今にして思えば、イザベラは返事をする前、一度だけ窓の外の庭へ目を向けていた。

 いつもの笑みも、ほんの少しだけ寂しそうではなかったか。


 似たようなことは、それだけではなかった。

 新しい菓子の話をしてくれたときも、自分は手元の書類を見ながら相槌を打っていた。


 最近忙しいですねと気遣ってくれたときはどうだろうか。

 実際にリヴァイはここ最近は多忙を極めていた。

 しかし、イザベラに心配をかけたくないと思い、「君の心配は必要ない」と答えて話を切った。


「その婚約者の方ですが、忙しいあなたを案じて、将来をともにする婚約者として、何か力になれないかと尋ねたんじゃないでしょうか。それなのにそんな言い方をされたら、傷つきますよね」


 リヴァイからすべての話を聞いた少女から放たれた辛辣な言葉が、胸を刺す。

 だが、何も反論できなかった。


「では」


 ここで少女は食べかけのクッキーを包みへ戻し、少しだけ声を落とした。


「婚約者様のことは、お好きなんですか?」

「もちろんだ」


 間髪入れずに答えたリヴァイに、少女は首を傾げる。


「それを直接お伝えしたことは?」

「……………ない」

「他人の私には即答できるのに?」

「…………」


 婚約者だからではなく、心の底から彼女が好きだと言える。

 けれど、言葉にして伝えたことは一度もなかった。


「それでは、婚約者様を綺麗だとか、可愛いと思ったことは?」

「いつも思っている。笑う顔も、難しい顔をして本を読んでいるところも、美味しいものを食べて頬が緩むところも、すべてが愛おしい」

「面と向かっては言いました?」

「……そのようなことを顔を見て言うのは、気恥ずかしくてできなかった」

「一緒にいられて嬉しいと伝えたことは?」

「……ない」

「ほかの誰でもなく、その方と結婚したいと伝えたことは?」

「君なら立派な公爵夫人になれるとは、伝えていた。それで、私の気持ちも伝わるものだと」


 少女はしばらく何とも言えない顔でリヴァイを見つめた。

 そして、呆れたような表情でため息をつく。


「それだと、『あなただから結婚したい』ではなく、『公爵夫人としては合格だから結婚したい』としか伝わらないと思いますよ」


 リヴァイは、息を呑んだ。


 ――やはり、そうなのですね。

 談話室で見たイザベラの悲しそうな微笑みが、脳裏に蘇る。


 彼女は、自分でなくてもよいのではないかと不安を口にした。

 それなのにリヴァイは、彼女の教養や能力を並べたてただけだ。

 あれでは、イザベラの不安を否定するどころか、肯定したも同然だった。


 そもそも、なぜ自分は、何も言わなくても気持ちは伝わっていると思っていたのだろう。

 これまでイザベラは、好みに合わない贈り物であっても丁寧に礼を言い、仕事の話ばかりするリヴァイにも、穏やかに微笑んでくれていた。

 庭へ行きたいという願いを断ったときでさえ、不満ひとつ口にしなかった。


 リヴァイは、彼女が何も言わないことを、何も不満がないのだと勝手に受け取っていた。

 何より、幼い頃からイザベラが自分を慕ってくれていることを知っていた。

 だから、その気持ちはこの先も変わらないものだと、疑いもしなかったのだ。


「私は、彼女の優しさに甘えていたのか」

「そうかもしれません。言わなくても分かってくれる。少しくらい後回しにしても、ずっと好きでいてくれる。どこかで、そう思っていたのではありませんか?」


 少女の言葉は、あまりにも正しかった。


「きっと、その方は何度も小さな合図を出していたと思います」

「……ああ。私は、全部見落としていたようだ」


 リヴァイは深く項垂れた。


「しかし、もう遅いだろう。彼女は私との婚約を望んでいない」

「婚約者様は、あなたを嫌いだとおっしゃったのですか?」

「いや」

「婚約を解消したいと?」

「一度、考え直したいと……」

「それなら、まだ何も決まっていないではありませんか」


 少女は目を吊り上げてリヴァイを見た。


「本気で一度も気持ちをぶつけたことがないのに、勝手に諦めるのですか?」

「だが、今さら何を言っても――」

「今回、その方は初めて、自分の気持ちをあなたに伝えたのでしょう? それなら今度は、あなたが本当の気持ちを伝える番ではありませんか?」


 少女の言葉に、リヴァイは顔を上げ、強く拳を握りしめた。

 確かに、彼女の言う通りだった。

 何も伝えないまま諦めるのは、ただ、自分が傷つくことから逃げているだけだ。

 そう気づくと、胸の中にあった迷いが消えた。


 リヴァイの表情が変わったことに気づいたのか、少女は小さく頷いた。


「上手に話そうとしなくてもいいと思います。今、私に話したことを、そのまま婚約者様へ伝えてください」


 そう言って、少女はベンチから立ち上がり、制服のスカートの皺を伸ばした。


「ありがとう。君と話したおかげで考えがまとまった。そうだ、名前を聞かせてくれないか」

「リアです」

「ではリア。もしうまくいったら、必ず礼をする」

「そのお言葉、忘れないでくださいね。私、お礼はあまり遠慮しない方なので」


 リアは悪戯っぽく笑うと、残っていたクッキーの包みを抱え、小さく手を振った。

 その軽い足取りが庭園の向こうへ消えるまで見送ってから、リヴァイもベンチを立った。




◆




 翌日の放課後。

 リヴァイは、イザベラの暮らす公爵邸を訪れた。


 昨夜のうちに、「どうしても直接伝えたいことがある」と手紙を送り、短い時間でも構わないから会ってほしいと頼んでいたのだ。

 通されたのは、庭に面した小さな応接室だった。


 完璧に話そうとする必要はない。

 今まで伝えてこなかった気持ちを、自分の言葉で話せばいいのだと言い聞かせながら待っていると、やがて扉が開き、イザベラが侍女を連れて静かに部屋へ入ってきた。

 その表情には、昨日と同じように穏やかな微笑みが浮かんでいる。

 けれど、目元には隠しきれない疲れが滲んでいた。


 その顔を見た瞬間、何か言わなければならないのに、喉が強く締めつけられたように声が出なくなった。

 このままでは、また何も伝えられないまま終わってしまう。


 焦りながら視線を逸らし、何気なくイザベラの後ろに立つ侍女を見たリヴァイは、思わず目を見開いた。

 学院の制服ではなく、髪をきちんと結い、落ち着いた色の侍女服を身につけている。

 それでも間違えるはずがない。

 昨日、庭園のベンチでクッキーを食べながら相談に乗ってくれた少女――リアだった。


 リヴァイが目を丸くしていると、リアはイザベラの死角で、口元にそっと人差し指を当てた。


「しーっ」


 リアは何事もなかったようにお茶を用意すると、イザベラへ一礼した。


「お話がおありと伺っておりますので、私は廊下に控えております」


 そう告げて、扉をわずかに開けたまま部屋を出ていった。

 聞きたいことは山ほどあったが、今はリアの正体より、目の前にいるイザベラの方が大切だ。


 それでも、先ほどまでの緊張は不思議と少しだけ和らいでいた。

 リヴァイは一度息を整えてから、ゆっくりと口を開いた。


「私は昨日、君以上に公爵夫人にふさわしい人はいないと言ったが。……あれでは、君が不安になるのも当然だったと、あとから気づいた」


 イザベラはわずかに肩を震わせ、黙って聞いている。

 その沈黙の中、リヴァイは逃げずに、言葉を重ねた。


「義務でもなく、私は本当に毎週、君に会いたかった。贈り物も、君に喜んでほしくて選んでいた。その気持ちに嘘はない」


 そこで一度言葉を切り、リヴァイはイザベラを真っ直ぐに見た。


「だが、会うことや贈り物をすることだけで、私の気持ちは伝わっていると思い込んでいた。君がどう感じているのかを考えず、ずっと好きでいてくれることに甘えていたんだ」


 そして、最近贈った香水がイザベラの好みに合うかどうかすら確かめていなかったと素直に謝った。


 すると、イザベラがぽつりとこぼした。


「……以前は、わたくしの好きな花や本を覚えて、贈り物を選んでくださっていました。それが少しずつ流行の品へ変わっていっても、お忙しいのだから仕方がないのだと、自分に言い聞かせていました」

「イザベラ……」

「お会いしても、公爵夫人になるための教育や、式典や領地のお話ばかりでした。それも将来のために必要なことだと、分かっていたつもりです。ですが……」


 イザベラは震える息を吐いた。


「ですが、だんだん分からなくなったのです。リヴァイ様が毎週会いに来てくださるのは、わたくしに会いたいからなのか。それとも、婚約者としての義務だからなのか。それに、何かお力になりたいと申し上げても、リヴァイ様はいつも『心配はいらない』とおっしゃるだけで、わたくしを頼ってくださることもありませんでした。それが、とても寂しくて」


 リヴァイは一度目を伏せ、それからもう一度、イザベラと向き合った。


「すまなかった。君に心配をかけたくないと思っていた。だが、私のしていたことは、君を遠ざけることだったんだな」


 リヴァイは深く頭を下げた。

 それから、胸の内にしまい込んできた思いを、一つひとつ言葉にしていく。


 菓子を食べるときだけ、少し幼い顔になるところ。

 難しい顔で本を読んでいるところ。

 誰かが困っていると放っておけないところ。

 普段は穏やかなのに、譲れないことには頑固になるところ。


「私は、公爵夫人になれる女性なら誰でもいいわけではない。イザベラ。君だから、隣にいてほしい」


 そして気恥ずかしさから、これまで何度も飲み込んできた言葉を、初めて口にする。


「……私は、君が好きだ」


 イザベラは目を見開いたまま、何も答えなかった。

 その瞳から、大粒の涙だけが次々とこぼれ落ちる。


 だが、沈黙が長くなるほど、リヴァイの胸の奥で不安が膨らんでいった。

 やはり、すべてが遅すぎたのだろうかとそう思いかけたとき、イザベラの唇が小さく震えた。


「わたくしも、リヴァイ様が好きです」


 それは、イザベラがこれまでにも何度か伝えてくれた言葉だった。

 けれど、自分も同じ思いを返したあとで聞くその一言は、これまでとはまるで違って胸に響いた。

 イザベラは涙を拭おうともせず、震える声で続けた。


「家同士が決めた婚約なのだから、愛情まで求めるのは贅沢なのだと、何度も自分に言い聞かせました。それでも、好きだからこそ、愛されていないまま結婚することが怖かったのです」


 リヴァイはイザベラの前まで歩み寄ると、そっと手を差し出した。

 イザベラは一瞬だけ迷ったあと、その手に自分の手を重ねる。

 細い指を包みながら、リヴァイは静かに首を横へ振った。


「贅沢ではない。私も、君に好きでいてほしい」


 イザベラの瞳から、また一粒涙が落ちた。


「私はこれからも、言葉が足りないことがあると思う。だが、分からないままにしない。君の話を聞き、私の気持ちもきちんと伝える。贈り物も、流行だけで選ばない。分からなければ、君に聞く。だから、もう一度だけ私に機会をくれないだろうか」


 イザベラは何度も小さく頷き、涙で潤んだ瞳でリヴァイを見上げた。


「はい。もう一度、よろしくお願いいたします」


 その返事に、リヴァイはようやく息をついた。


「わたくしも、不満があれば我慢して笑うのではなく、きちんとお伝えします」

「そうしてくれ」

「それから、お忙しい時は私にも頼ってください」

「約束しよう」

「時々は、一緒に庭を歩いてください」

「時々ではなく、毎週でも構わない」


 真面目にリヴァイが答えると、イザベラが泣きながら笑った。

 リヴァイもつられるように笑い、重ねられた彼女の手を、もう一度そっと握り直した。




◆




 それから数日後。

 リヴァイは、イザベラと庭を歩くという約束を果たすため、再び公爵邸を訪れていた。


 ただし、その日は少し風が冷たかったため、二人が選んだのは吹きさらしの庭ではなく、陽光が差し込む公爵邸の温室だった。

 色とりどりの花々に囲まれた暖かな小道をゆっくりと歩き、中央に用意された丸テーブルへ向かい合って座る。

 そうして淹れたての茶を一口飲んでから、リヴァイはイザベラの後ろへ控える侍女へ、真っ直ぐに視線を向けた。


 あの日、仲直りをしたあと、リヴァイはあの侍女が何者なのかとイザベラに尋ねていた。

 リアは下級貴族の娘で、最近イザベラの侍女となり、公爵家に仕えながら同じ学院に通っているのだという。


 彼女を以前どこかで見かけた気がしたのも、すべてはイザベラのそばに控えていたからだ。

 仕え始めてまだ日が浅かったため、顔だけは覚えていても、すぐには誰なのか思い出せなかったのだ。


「さて、リア。先日はずいぶん世話になったな」

「何のことでしょう」

「とぼけるな。私の横でクッキーを齧りながら、痛いところを突いてくれただろう」


 リヴァイが呆れたように言うと、イザベラが驚いたように二人を見比べた。


「学院で? リア、あなたリヴァイ様となんのお話しをしたの?」


 リアはしばらく何食わぬ顔を貫こうとしていたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。


「ほんの少し、お話を伺っただけです。リヴァイ様が一人で落ち込んでいらっしゃるのを偶然お見かけしましたので」

「では、最初から私が誰なのかは知っていたんだな」

「もちろん存じておりました」


 あっさりと認めたリアに、リヴァイは眉間へ皺を寄せた。


「それなら、なぜ何も知らないふりをした?」

「イザベラ様の侍女だと明かしてしまえば、正直にお話ししてくださらないと思いましたので」


 リアは悪びれる様子もなく、胸を張った。


「お嬢様は、婚約を考え直したいとおっしゃりながらも、リヴァイ様のことを好きなままでした。ですが、肝心のリヴァイ様がどう思っていらっしゃるのかは、私には分かりませんでしたから」

「リア……」


 イザベラが、気恥ずかしそうに頬を染める。


「お話を伺って、リヴァイ様がお嬢様を大切に思っていることは分かりました。ただ、少々……いいえ、壊滅的にお言葉が足りないだけで」


 即座に訂正され、リヴァイは何も言い返せなくなった。


「……もしあのとき、何を尋ねてもご自分の行動を正当化するばかりでしたら、お嬢様には本気で別の殿方を探すよう進言するつもりでした」

「そこまで考えていたのか」

「大切なお嬢様の一生がかかっておりますので」


 きっぱりと言い切るリアに、イザベラは困ったように眉を下げた。


「リア。わたくしを心配してくれたのは嬉しいけれど、勝手なことをしてはいけないと、いつも言っているでしょう」

「申し訳ありません」


 口では謝っているものの、リアの顔には反省の色がほとんど見えない。


「ですが、お二人ともどう見ても想い合っていらっしゃるのに、お一人は何も言わず、もうお一人は勝手に諦めようとなさるので、見ていられなかったのです」

「……それについては、返す言葉もないな」


 リヴァイは小さく息を吐いた。

 彼女のあの容赦のない指摘がなければ、今もイザベラの本当の気持ちには気づけていなかっただろう。


「感謝している。君のおかげで、イザベラと本音を話すことができた」


 リヴァイが素直に礼を告げると、リアは意外そうに目を丸くした。


「お叱りにならないのですか?」

「君に助けられたのは事実だ。叱る理由などどこにもない」

「わたくしからもお礼をさせて。リアがいてくれなければ、わたくしたちは今も互いの気持ちを知らないままだったかもしれないもの」


 二人から揃って礼を言われ、さすがのリアも少し照れたように視線を逸らした。

 その様子に、リヴァイは以前交わした約束を思い出す。


「そういえば、うまくいったら礼をすると約束したな」

「覚えていてくださったのですか?」

「ああ。できる範囲で、望みを叶えよう」

「わたくしにも協力させて。欲しいものでも、してほしいことでも、遠慮なく言ってちょうだい」


 リアは指先を顎へ当てて少し考えたあと、にっこりと笑って言った。


「それでは、私にぴったりのお婿さんを見つけてください」

「「え?」」


 二人の困惑したような声がきれいに重なった。

 けれどリアは気にせずにこやかに続ける。


「私がお二人のご縁をつなぎ直したのですから、次はお二人が私のご縁を探す番ではありませんか? ですので、その多大な功績に免じてお願いいたします」


 流れるようにそう言われ、リヴァイは言葉を失った。

 一方で隣では、イザベラが堪えきれずに笑い始めている。


「ふふっ。いいではありませんか。ちなみにリアは、どんな方がいいの?」

「そうですね。優しくて、誠実で、私の好きなものをきちんと覚えてくださる方がいいです」

「ほかには?」

「自分の気持ちを、きちんと言葉にしてくださる方ですね」


 リヴァイは気まずさを誤魔化すように、小さく咳払いをした。


「……最後の条件は、絶対に譲れないのか?」

「もちろんです」


 リアは満面の笑みで答えた。


「言わなくても分かると思っている方だけは、避けたいので」


 イザベラが弾けるように声を上げて笑い、リヴァイも反論できずに苦笑した。




 こうして、すれ違いかけた二人の婚約は、以前よりも確かなものになった。

 もっとも、二人が最初に力を合わせて取り組むことになったのは、結婚の準備ではなく、ちゃっかり者の侍女にぴったりの婿を探すことだったのだが。



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