1 形見・・・
私は平均寿命まで生きられたとしてもあと15年もないのでこれを書き残しておこうと思う、子供もいないので誰に伝えるということもないのだけど、こんな人生もあったんだよと、誰かが受け止めて「人生は一度切り」と前向きになってくれたらうれしい。
それは私が叔母の遺品整理をしている時に見つけた書類の束、プリントアウトのA4の紙が50枚ほどまとめられていた。
その封筒の上書きには「人生最高の7日間と人生最悪な8年間」とあった
私にとって叔母はファンキーシニアのおばさんだった、70過ぎてもスパッツに短パンと上は胸に大きな模様がデザインされたロング袖のTシャツといういでたち。ブラジャーはきついと言ってしたことがない。叔母曰く 「ノーブラでも大丈夫、この大きな模様にみんな目が行くから」とズボラでおしゃれな叔母だった。髪も白髪を気にしなかったが、あるとき深緑とグレーの混ざったオリーブアッシュに染めて、「ほんとは紫にしたかったんだけどね・・・」などと言ってチャレンジ精神がある人だった
昔叔母が海外で暮らしていたことはなんとなく知っていたが、親せきの間では
好き勝手な人生とやっかみ半分呆れ半分で噂されていた。
もともと叔父が会社を辞めて世界放浪の旅に出た時叔母も同行していたからだ
叔父はその時39、叔母は33。結婚8年目だった。
何でそんなことになったのかというと、叔母が話してくれたサマリーは・・・
叔父はその年両親を相次いで失くし、自分の人生を考え直したらしい。叔父の母親はマスターズにも参加するスポーウーマンだったが心不全である日突然亡くなり、その3週間後に父親がガンで逝ってしまった。特に叔父の父親は多趣味で定年間際なのに、フライングして、定年後にやりたかったことを色々始めていた、カメラやゴルフ、釣りや陶芸、クルーズのパンフレットも集めていた。それが突然のガンで余命わずかとなり、病院のベッドでとても悔しんでいたという。
それもあってか、叔父は人生を振り返った時にこれでいいのかと立ち止まって自問したらしい。
叔母に言わせると、「あと3年で年収1000万くらいになったのにねえ、それがゼロだもの迷ったわよ。」と愚痴っぽく言っていたが「でもね、人生は一度切りだもの・・最初は1年で帰国してどこかの工場で住み込みで働こうかなと、まだ30半ばだったからね。それがまさか15年にもなるとは思わなかったわ・・・」と語っていたのを思い出した。
どうやら叔父は自分探しをするために会社を辞めて旅に出たのだけど、叔母が予想した「3年もあれば答えが見つかると思って・・・」という予想をはるかにこえて長居をしたようだ。費用は家を売りローンを返して手元に残ったお金とわずかな貯金でなんとか凌いてた様だ」
私が小さい頃に「おジジは何の仕事をしているの?」と(たぶん、親せきに聞いてこいといわれたのだと思うが)、そう聞いた時に「おじさんはね吟遊詩人をしているんだよ」と言われ、子供ごころに言いくるまれたと感じた。
帰国した叔父と叔母は東京から2時間ほどの温泉地の小さな家に住んでいた。叔母は手芸が得意だったので、アクセサリーから洋服迄、色々なものを作っていたようだが、家庭菜園が一番のお気に入りで、
「究極のモノ作りは己で食べるものを己で作ること」という信念を持っていた。
いつも「いいこと?人生にはお金と健康と創造力が必要なのよ、創造力がないとね、お金が無くなった時に、盗むとか人や店を襲うとしか考えないけど、創造力があればもっといろいろな選択肢が浮かんで乗り越えられるのよ」とも言っていた。
そんな叔父も3年前に自分の父と同じようにガンになり、あっという間に亡くなった。
叔母はそれから元気に一人暮らしをしていたが、友達の見舞いに行ってその病院で倒れた。3日後に妹(私の母)と私が看取った。
私は介護施設で働いているので、なんとか引き取ろうとしたが、叔母は「絶対特養なんかに入れないで、それならここで死ぬわ」といって、本当に2日後逝ってしまった
そして、今私は叔母の遺品整理をしている。
どうやらこれは海外放浪中に住んでいたアメリカで体験した、叔母にとっては一生で最高の思い出だったらしく、日記としてまとめられていた。
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今までの人生で最高な7日間だった。忘れないうちに書いておこうと思う
書き出しはそう書かれてあった・・・・




