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『 金木犀の記憶』

作者: 小川敦人

『 金木犀の記憶』


静岡市葵区の沓谷にある蓮永寺は、通称「三松のお寺」と呼ばれている。静岡市と旧清水市を東西に結ぶ「北街道」のバス停にも「三松」という停留所がある。境内には徳川家康の側室となった「お万の方」の供養塔(静岡市指定文化財)がある。


秋が深まると、境内の金木犀とイチョウが、それぞれの香りで季節の移ろいを告げる。甘く切ない金木犀の芳香と、銀杏の実の野性的な匂いが混じり合い、記憶の奥底に沈殿していく。


金木犀は二度咲きする。一度散った花が、気候次第でもう一度開くことがある。


普通なら十月のうちに散ってしまう金木犀が、この年に限って十一月まで花をつけていた。まるで、誰かとの約束を守るために。


一九六八年の秋。僕たちが出会ってから二年が過ぎようとしていた。


彼女の小柄な身体に宿る真っすぐな性格と、きらきらと輝く瞳が、僕の心を離さなかった。出会いは偶然だった。友人同士のデートに付き添ううち、なぜか二人だけで話し込んでしまい、気づけば恋に落ちていた。


彼女の家は三松のお寺のすぐ近くにあった。古い日本家屋で、玄関先には小さな庭があり、秋になると柿の木が実をつける。週に何度か、愛用のバイクで彼女に会いに行った。エンジン音を殺して家の前に停めると、決まって彼女が玄関から顔を出す。その笑顔を見るためだけに、僕は何度でもこの道を走った。


休みの日はいつも会う約束をしていた。十一月三日、文化の日。この日も約束通り、デートをすることになっていた。朝、電話のベルが鳴った。


「ねえ、今年の金木犀、まだ咲いてるの」


受話器の向こうから、彼女の少し弾んだ声が聞こえる。


「え、まだ?もう十一月なのに」


「昨日お寺の前を通ったら、まだ香りがしたの。見に行かない?」


「うん、今からバイクで行く」


秋晴れの空は高く澄み渡り、冷たい風が頬を刺す。バイクにまたがり、いつもの道を三松へ。彼女の家の前でエンジンを止めると、すぐに彼女が出てきた。紺色のワンピースの上に薄手のカーディガンを羽織っている。


「待たせた?」


「ううん、ちょうど今準備してたところ」


そう言って微笑む彼女の横顔に、僕の胸は高鳴る。二年間一緒にいて、手を繋ぐことも、肩を並べて歩くことも、日常になったはずなのに。それでも、彼女の前に立つと、高校一年生のあの日の初々しい緊張が蘇ってくる。


バイクを押しながら、僕たちは三松のお寺へ向かった。彼女の家からは、歩いてすぐの距離だった。


山門をくぐると、風が運んでくる。甘く、どこか懐かしく、そして少し切ない香り。金木犀だ。


「本当だ。まだ咲いてる」


彼女が小走りで木に近づく。小さなオレンジ色の花が、まだ枝にしがみつくように咲いていた。ところどころ、散った花びらが地面を彩っている。


「不思議ね。こんなに遅くまで」


「きっと、まだ誰かに見てほしかったんだ」


「誰に?」


「さあ。でも、こうして僕たちが来たから、花も報われたんじゃないかな」


彼女がくすりと笑う。その笑い声が、秋の静けさに溶けていく。


境内を歩いていると、奥に小山があることに気づいた。その頂には小さなお堂が建っている。


「あそこ、行ってみよう」


彼女の提案で、僕たちは小山を登り始めた。落ち葉を踏みしめる音だけが、静寂を破る。お堂の前にたどり着くと、そこは茂みに囲まれ、まるで世界から切り離されたような場所だった。


木々の葉が秋の午後の光を透かして、僕たちだけの秘密の隠れ家を作り出していた。


お堂の横には、古い石段があった。僕たちはそこに並んで腰を下ろした。少し離れたところから、金木犀の香りが風に乗って届いてくる。銀杏の匂いも混じって、秋という季節の全てがそこにあった。


しばらく黙って景色を眺めていた。風が吹くたびに、イチョウの葉が黄色い雨のように舞い落ちてくる。その静けさの中で、彼女が囁くように言った。


「ねえ、私たち、来年の春にはもう高校三年生だね」


「うん」


「卒業したら、どうなるのかな」


その声に滲む不安を、僕は感じ取った。大学進学、就職。二年後の未来は、まだ霧の向こうにある。僕たちがずっと一緒にいられる保証なんて、どこにもない。


「どうなるかなんて、わからない。でも」


僕は彼女の方を向いた。彼女も僕を見つめている。


「でも、僕は君といたい。ずっと」


彼女の瞳が揺れた。それとも、午後の光が映り込んだだけだろうか。


「私も」


彼女の声は風のように小さかった。でも、その言葉は確かに僕の胸に届いた。


気づけば、僕たちの顔は近づいていた。金木犀の香りが、二人を包み込む。風が止んだ。時間が止まったような静寂の中で、僕は彼女の唇にそっと触れた。


ほんの一瞬。でも、その一瞬が永遠のように長く感じられた。


唇を離すと、彼女は顔を赤らめて俯いた。僕も心臓が激しく打っているのを感じた。


「ごめん」


「ううん」


彼女が顔を上げる。その目には涙が浮かんでいた。でも、彼女は笑っていた。


「ありがとう」


なぜ彼女が礼を言うのか、僕にはわからなかった。でも、その笑顔の前では、言葉は必要なかった。


それから僕たちは、もう一度手を繋いで小山を下りた。金木犀の木の前を通り過ぎるとき、彼女が立ち止まった。


「この花、来年も咲くかな」


「咲くよ。きっと」


「また来年も、ここに来よう。十一月三日に」


「うん、約束」


そう言って、僕たちは小指を絡めた。


山門を出るとき、振り返ると、小山の上のお堂が夕日に照らされて輝いていた。そして、金木犀の香りが、まだ僕たちを追いかけてくるようだった。



あれから五十七年。僕は今でも、あの日の金木犀の香りを忘れることができない。


彼女とは大学で別々の道を歩むことになった。彼女は東京の大学へ、僕もまた東京の別の大学へ。しかし、不思議なことに、僕たちは離れることができなかった。やがて学生同士で同棲を始め、卒業後に結婚した。


子供が生まれ、孫が生まれ、気づけば半世紀以上が過ぎていた。彼女は十五年前に旅立った。穏やかな最期だった。


十一月三日。バイクはもう乗っていないが、車で三松のお寺を訪れる。彼女の実家は既になく、あの頃の面影を残すものは少ない。あの小山に登り、お堂の横に立つ。金木犀はもう、十一月には咲いていない。あの年だけの、特別な奇跡だったのだろう。


茂みに囲まれた、あの秘密の隠れ家。ここで僕たちは初めてのキスをした。


風が吹くと、どこからか金木犀の香りがするような気がする。錯覚だとわかっている。それでも、その香りに包まれると、僕は十六の秋に戻っていく。


バイクで彼女の家に向かった日々。彼女の笑顔。震える手。あの初めてのキスの甘さ。全てが、金木犀の香りとともに蘇ってくる。


僕の記憶の中では、あの日の金木犀は永遠に咲き続けている。そして今も、秋になるたび、街のどこかで金木犀の香りに気づくたびに、僕はあの淡い純粋な恋の感覚を思い出すのだ。


それは、遠い昔の痛みではない。今も胸の奥で静かに灯り続ける、温かな光なのだ。


金木犀は二度咲きする。一度散っても、条件が整えば再び花をつける。


僕もまた、そうありたいと思う。彼女を失い、一度は散ったように感じた人生。しかし、金木犀が二度目の花を咲かせるように、僕もまだ、咲くことができるのではないか。


あきらめずに、この人生を過ごしたい。


彼女が愛したあの香りを胸に、残された日々を、精一杯生きていきたい。


それが、あの日、茂みに囲まれた秘密の場所で交わした、小さな約束への答えなのだと、僕は信じている。


恋は、金木犀の香りとともにやってきた。そして、その香りは、人生を共に歩む約束とともに、今も僕たちの心に刻まれ続けているのだった。


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