第9話:MACDとRSI ~オシレーター系指標の罠~
東日本大震災から数ヶ月。被災地の復興はまだ道半ばだったが、為替市場は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。とはいえ、俺、田中翔太の心は晴れなかった。あの日、目の当たりにした市場の激動と、自分の無力さ。そして、源一郎さんの言っていた「ファンダメンタルズ」という、あまりにも巨大で掴みどころのない存在。
「経済ニュースを読んでも、何がどうレートに影響するのか、さっぱり分からん…」
俺は、新聞の経済面にため息をついた。株価だの国債利回りだの、チンプンカンプンな単語が並んでいるだけに見える。
そんな俺の様子を見てか、源一郎さんが声をかけてきた。
「田中君、ファンダメンタルズを理解するには時間がかかる。焦ることはない。それよりも、今の君には、もう少しテクニカルの武器を増やしておくのもよかろう」
「武器、ですか?」
「うむ。これまで学んだのは、主に相場の大きな流れ(トレンド)を追うためのものじゃったな。今日は、相場の勢いや『買われすぎ』『売られすぎ』といった過熱感を見るための道具を教えよう。これらは『オシレーター系指標』と呼ばれる」
源一郎さんは、俺のデモトレード画面に、チャートの下部に表示される新たな二つのグラフを追加した。一つは二本の線が絡み合うように動き、もう一つは一本の線が一定の範囲を上下している。
「まず、こちらが『MACD』。Moving Average Convergence Divergenceの略で、日本語では移動平均収束拡散法とでも言うかのう」
「ま、まっくりでぃー…?なんか早口言葉みたいですね」
「このMACDは、短期と長期の二本の指数平滑移動平均線(EMA)の差(MACDライン)と、そのMACDラインの移動平均線の二本の線で構成される。この二つの線がクロスする時が、売買のサインとされることがある」
源一郎さんは、MACDラインがシグナルラインを下から上に抜ける「ゴールデンクロス」と、上から下に抜ける「デッドクロス」を指し示した。
「また、MACDが0ラインより上にあれば強気相場、下にあれば弱気相場と判断する見方もある」
俺は早速、デモトレードでMACDのクロスを試してみた。確かに、ゴールデンクロスで買うと価格が上昇し、デッドクロスで売ると下落する場面もある。
「おお!これも結構使えますね、風林寺さん!」
しかし、しばらく試していると、クロスしたと思ったらすぐに逆方向へ行ってしまう、いわゆる「ダマシ」にも頻繁に遭遇した。
「うーむ、そう単純でもないか…」
「次に、こちらが『RSI』。Relative Strength Index、相対力指数と言う」
源一郎さんは、もう一つのグラフを指さした。そこでは一本の線が0から100の間を上下している。
「これは、一定期間の価格変動の中で、上昇分の割合がどれくらいかを指数化したものじゃ。一般的に、70~80%以上で『買われすぎ』、20~30%以下で『売られすぎ』と判断される」
「買われすぎ!売られすぎ!それって、つまり買われすぎてたら売ればいいし、売られすぎてたら買えばいいってことですよね!?簡単じゃないですか!」
俺は、まるで聖杯でも見つけたかのように興奮した。これなら、底値で買って天井で売れる!
「まあ、落ち着け、田中君」源一郎さんは苦笑する。「確かに、RSIが70を超えたから売り、30を割ったから買い、という逆張りの手法はある。だが、それが通用するのは、主に価格が一定の範囲を行ったり来たりする『レンジ相場』の場合じゃ」
「れんじそうば…?」
「そうだ。強いトレンドが発生している時には、RSIが70以上に張り付いたまま上昇を続けたり、逆に30以下に張り付いたまま下落を続けることも珍しくない。そんな時に『買われすぎだ!』と安易に売り向かえば、どうなるか…わかるな?」
俺は、以前デモトレードで上昇トレンド中に逆張りして大失敗した記憶を思い出し、背筋が寒くなった。
「つまり…トレンドが出てる時は、あんまり役に立たないってことですか?」
「そういうことじゃな。オシレーター系の指標は、トレンドフォロー系の移動平均線とは得意な場面が異なる。その特性を理解せずに使うと、大火傷をする元じゃ」
源一郎さんは、さらに続けた。
「それと、これらのオシレーター系指標には、『ダイバージェンス』という重要なサインが出ることもある」
「だいばーじぇんす?」
「うむ。価格は高値を更新しているのに、オシレーターは高値を更新できない、あるいは価格は安値を更新しているのに、オシレーターは安値を更新できない、といった逆行現象のことじゃ。これは、トレンドの勢いが弱まっている、あるいは転換が近い可能性を示唆することがある」
源一郎さんがチャート上で過去のダイバージェンスの例をいくつか示してくれた。確かに、その後、相場が反転しているように見える。
「MACD、RSI、ダイバージェンス…覚えることがたくさんありますね…」
頭がパンクしそうだった。新しい道具を手に入れて喜んだのも束の間、その使い方や注意点の多さに、改めてFXの奥深さ(という名の面倒くささ?)を感じる。
「近道はないんじゃよ、田中君」源一郎さんは、俺の心を見透かしたように言った。「一つ一つの道具の特性を理解し、実際の相場でどう機能するのか、あるいはしないのかを、自分の目で確かめ、経験を積んでいくしかない。そして、どんな優れたインジケーターも万能ではない。あくまで、君の判断を助けるための一つの材料に過ぎんということを、忘れてはならん」
その日から、俺のチャート画面には、移動平均線に加え、MACDとRSIが表示されるようになった。そして、それぞれの指標が示すサインに一喜一憂し、時にはダマシに遭って頭を抱え、それでも諦めずに相場と向き合う日々が続いた。
「聖杯なんて、やっぱりないのかもな…」
ぼんやりとそんなことを考えながら、俺はまた一つ、FXの深淵に足を踏み入れたのだった。