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第8話:初めての実弾トレードと経済指標の洗礼


移動平均線という強力な羅針盤を手に入れた俺は、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように、毎日チャートとにらめっこしていた。トレンドライン、水平線、そしてMA。それらを組み合わせることで、以前よりも格段に相場の流れが読めるような気になっていた。…あくまで「気になっていた」だけなのだが。

そんなある日、源一郎さんがいつものようにお茶をすすりながら、ポツリと言った。

「田中君、そろそろ…本物の戦場に出てみるか?」

「え…本物の戦場、ですか?」

「うむ。デモトレードはあくまで練習試合。実弾…つまり、君自身の金で取引してみるんじゃ。ごく少額で構わん。それでしか得られん経験というものがある」

実弾トレード。その言葉の響きに、俺の心臓はドクンと大きく脈打った。確かに、いつまでも仮想マネーで遊んでいるわけにはいかない。だが、自分のなけなしの貯金を危険に晒すのは、正直言って怖い。

「…とは言っても、いきなり大金をつぎ込むのは無謀じゃ。まずは、そうじゃな…君の小遣いの範囲で、1万円でも入金してやってみるといい。それで一度、本当の『痛み』を知るのも勉強じゃ」

源一郎さんの言葉に後押しされ、俺は震える手でネットバンクを操作し、とあるFX会社の口座に1万円を入金した。たった1万円。されど1万円。俺にとっては、一週間分の食費に相当する大金だ。

口座に「残高:10,000円」と表示されたのを見ただけで、胃がキリキリと痛み始める。

「いいか、田中君。取引量は最小単位。そして、必ず損切り注文ストップロスオーダーを入れること。これを怠れば、その1万円はあっという間に紙くずになるぞ」

源一郎さんの念押しに、俺は何度も頷いた。

そして迎えた、初めてのリアルトレード。

選んだ通貨ペアは、もちろんUSD/JPY。チャートには、教わったばかりのトレンドラインを引き、数本の移動平均線を表示させる。ダウ理論に従い、上昇トレンド中の押し目を狙う作戦だ。

「よし…MAも上向き、トレンドラインで反発した…今だ!」

祈るような気持ちで「買い」注文のボタンをクリックする。最小ロットである1000通貨。

『ピコン!ご注文約定しました』

デモトレードと同じ効果音なのに、心臓のバクバク具合が全く違う。画面に表示される損益が、プラス10円、マイナス20円と動くたびに、寿命が縮む思いだ。

幸い、俺の最初の取引は、わずか30pipsほど上昇したところでチキン利食い。それでも、300円の利益。たった300円。だが、自分の力で、現実のお金を稼いだという事実は、何物にも代えがたい達成感を俺に与えてくれた。

「やった…やったぞ、風林寺さん!」

「うむ、まずは初陣勝利、といったところか。だが、浮かれるなよ」

しかし、その喜びも束の間だった。次の取引では、エントリー直後に価格が逆行し、あっという間に損切りラインに到達。マイナス200円。たった200円の損失なのに、まるで心臓をえぐられるような痛みを感じた。デモとは訳が違う。これが、源一郎さんの言っていた「痛み」か…。

そんな浮き沈みを繰り返していたある金曜日の夜。源一郎さんが珍しく険しい顔でモニターを見つめていた。

「田中君、今夜はアメリカの雇用統計の発表がある。いつもより相場が荒れるぞ。初心者は手を出さん方が無難じゃ」

「こ、雇用統計…?」

以前、源一郎さんが「経済指標の王様」とかなんとか言っていたやつだ。

発表時刻の午後9時半(日本時間)。俺は固唾を飲んでチャートを見守っていた。その瞬間、事件は起きた。

それまで比較的穏やかだったドル円のレートが、まるで爆発したかのように、一瞬で数十pipsも垂直に跳ね上がったのだ!

「うわあああっ!?」

俺は思わず叫び声を上げていた。あまりの急騰に、頭が真っ白になる。もし、この時ポジションを持っていたら…想像するだけで恐ろしい。

「見たか、田中君。これが経済指標の力じゃ。予想と結果が大きく乖離すれば、市場はこうやって牙を剥く」

源一郎さんは冷静に言った。レートはその後も乱高下を続け、あっという間に1円以上も動いていた。

「テクニカル分析だけでは、こういう突発的な動きには対応しきれん。経済の大きな流れ…ファンダメンタルズというものも、決して無視できんのじゃ」

その言葉の重みを、俺は数週間後にさらに痛感することになる。

2011年3月11日、金曜日。あの日、俺はいつものように源一郎さんの部屋でチャートを眺めていた。午後2時46分。突然、経験したことのない大きな揺れが襲った。テレビの画面が、緊急地震速報に切り替わる。東北地方で、マグニチュード9.0。

言葉を失った。テレビに映し出される津波の映像は、現実のものとは思えなかった。

為替市場も、この未曾有の大災害に即座に反応した。リスク回避の動きから、急激な円高が進行。ドル円は数日のうちに、あっという間に数円も下落した。

「風林寺さん…これ…」

「…日本が試練の時を迎えたということじゃな」

源一郎さんは、静かに、しかし厳しい表情でモニターを見つめていた。その後、G7(先進7カ国)による協調介入が行われ、円高の流れは一旦食い止められたが、市場の混乱はしばらく続いた。

俺はその間、トレードどころではなかった。ただ、為替レートというものが、いかに現実の世界の出来事と密接に結びついているのか、そして、個人の力などでは到底抗うことのできない巨大な力が市場を動かしているのだということを、骨身に染みて感じていた。

もし、あの円高の局面で大きな買いポジションを持っていたら、一瞬で全てを失っていただろう。

「テクニカルも大事じゃが、それだけでは勝てん。ファンダメンタルズも学ばにゃならん。そして、何よりも…運と、生き残るための嗅覚じゃな」

源一郎さんの言葉が、重く俺の心にのしかかる。

初めての実弾トレード。経済指標の洗礼。そして、東日本大震災。

FXという世界の奥深さと恐ろしさ、そしてその向こう側にある、計り知れない何か。俺は、その入り口に立ったばかりだということを、改めて思い知らされた。

それでも、いや、だからこそ、俺はこの世界から目を背けたくないと思った。

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