第7話:移動平均線との対話 ~師匠の片鱗~
ダウ理論とライン分析。この二つの武器を手にした俺は、まるでRPGで新しい魔法を覚えた勇者のように、意気揚々とデモトレードのチャートに向かっていた。今までただの落書きにしか見えなかったチャートが、意味のある地形図に変わったのだ。トレンドラインをブレイクすれば「おおっ!」と声を上げ、レジスタンスラインで反落すれば「やはり!」と膝を打つ。
だがしかし、現実はそう甘くない。
「あれ?トレンドライン割ったと思ったら、また戻ってきたぞ…これってダマシってやつか?」
「うーん、この水平線、効いてるような効いてないような…どっちなんだー!」
ライン際に価格が迫ると、心臓はバクバク。エントリーのタイミングも、利食いや損切りの判断も、まだまだ五里霧中だ。せっかく覚えた武器も、使いこなせなければ宝の持ち腐れである。
そんな俺の奮闘ぶりを、源一郎さんはいつものように静かに見守っていた。
「田中君、ラインは確かに強力な道標じゃが、それだけでは霧の中を手探りで進むようなもの。時には、もっと大きな流れ…いわば『平均的な風向き』を知る必要もある」
そう言うと、源一郎さんは俺のデモトレード画面に、数本の色違いの滑らかな曲線を表示させた。それは、以前ちらっと見せてもらった、あの「移動平均線」だった。
「い、移動平均線…!前に風林寺さんが言ってた、羅針盤みたいなやつですね!」
「うむ。移動平均線、略してMA (Moving Average) とも言う。これは、一定期間の価格の平均値を計算し、それを線で結んだものじゃ。文字通り、価格の『動く平均』を示しておる」
源一郎さんは、まず一本の赤い移動平均線を指さした。
「例えばこれは、過去20日間の終値の平均を繋いだもの。そしてこっちの青い線は、過去5日間の平均…といった具合じゃな。短い期間の線は価格の動きに敏感に反応し、長い期間の線はより緩やかに、大きな流れを示す」
「へぇ…いろんな期間があるんですね」
「そうだ。そして、この移動平均線には主に二つの種類がある。『単純移動平均線(SMA)』と『指数平滑移動平均線(EMA)』じゃ」
源一郎さんはノートにそれぞれの特徴を書き出した。
「SMAは、指定した期間の価格を単純に平均したもの。素直な動きをする。一方、EMAは直近の価格に比重を置いて計算するから、SMAよりも価格変動への反応が早い。どちらが良いというものではなく、相場の状況や好みで使い分けるトレーダーが多いな」
俺は、モニターに表示されたSMAとEMAを見比べた。確かに、EMAの方が価格の動きにピッタリと寄り添うように動いているように見える。
「そして、この移動平均線を使った有名な売買サインがある。それが『ゴールデンクロス』と『デッドクロス』じゃ」
源一郎さんは、チャート上で短期の移動平均線(例えば5日線)が長期の移動平均線(例えば25日線)を下から上に突き抜けている箇所を指さした。
「このように、短期線が長期線を下から上に突き抜けることをゴールデンクロスと言い、一般的には買いのサインとされる。逆に、短期線が長期線を上から下に突き抜けるのがデッドクロス。これは売りのサインじゃ」
「ゴ、ゴールデンクロス!デッドクロス!なんか必殺技みたいでカッコイイですね!これさえ覚えれば、もう勝ちまくりじゃないですか!?」
思わず興奮する俺に、源一郎さんはやれやれといった顔で首を振った。
「田中君、君は相変わらず単純じゃのう。確かに強力なサインではあるが、これだけで勝てるほどFXは甘くない。レンジ相場ではダマシも多いし、あくまで判断材料の一つとして捉えるべきじゃ」
「うぐっ…そうですよね…」
「他にも、移動平均線と価格の位置関係から売買のタイミングを計る『グランビルの法則』というものもあるが…まあ、それは追々じゃな。まずは、この移動平均線が、トレンドラインや水平線と同じように、サポートやレジスタンスとして機能することもある、というのを覚えておくといい」
源一郎さんは、ご自身のメインモニターに視線を移した。そこには、俺が見ているようなゴチャゴチャしたインジケーターは一切なく、たった数本の期間の異なる移動平均線とローソク足だけが表示されている、非常にシンプルなチャートだった。
源一郎さんは、そのシンプルなチャートを静かに見つめ、時折マウスで期間を変えたりしながら、独り言のように呟いた。
「ふむ…今のドル円は、日足の20EMAがしっかりと上向きで、価格もその上で推移しておる。主要トレンドはまだ上じゃな。ただ、4時間足で見ると、75EMAに頭を抑えられかけておるか…短期的には一旦の調整が入るかもしれんのう。押し目買いを狙うなら、このあたりが意識されるか…」
俺は、その言葉の意味を完全には理解できなかった。だが、源一郎さんが数本の線とローソク足だけで、まるで相場の未来が見えているかのように語る姿に、ただただ圧倒された。
(風林寺さんは…もしかして、この移動平均線だけで、ずっと戦ってきたのか…?)
そのシンプルさ故の奥深さ、研ぎ澄まされた技術の片鱗に触れた気がして、背筋に軽い戦栗が走った。
「移動平均線…」
俺は自分のデモトレード画面に、教わったばかりの移動平均線を表示させた。トレンドライン、水平線、そして移動平均線。少しずつだが、確実に俺の「武器」が増えていく。そして、それらを使いこなす師匠の姿が、とてつもなく大きく見えた。
「風林寺さんみたいに、俺もいつか…」
そんな大それた夢が、心の片隅に芽生え始めていた。この複雑怪奇なFXの世界で、確かな羅針盤を手に入れたような、そんな高揚感が俺を包み込んでいた。