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第5話:師匠の教え「相場は戦場だ」


デモトレードを始めて数日。俺、田中翔太は、早くも「自分、FXの才能あるんじゃね?」という、典型的な勘違い野郎と化していた。

確かに、最初の数日は仮想資金をジェットコースターのようにアップダウンさせていたが、源一郎さんから「ローソク足の組み合わせで、ちょっとした先の動きが読めることもあるぞ」なんてヒントをもらい、ネットで聞きかじった「なんか強そうなローソク足のパターン」を試しては、一喜一憂していた。

「よしっ!また勝った!5000円ゲットだぜ!」

パイプ椅子の上でガッツポーズを決める俺。気分はもう億トレーダーだ。まあ、実際は1円も儲かってないし、むしろ電気代と源一郎さんに出してもらっているお茶代で赤字なのだが。

「田中君、随分とご機嫌じゃな。何かいいことでもあったのかね?宝くじでも当たったとか」

背後から、いつものように飄々とした源一郎さんの声がする。

「風林寺さん!聞いてくださいよ!俺、なんか掴んだ気がするんです!このローソク足の形が出たら買い、こっちが出たら売り、みたいな!これでデモ資金、昨日から3万円も増えたんですよ!」

得意満面で報告する俺に、源一郎さんは「ほう」と相槌を打ちながら、俺のノートパソコンの画面を覗き込んだ。

「なるほどな。『三兵さんぺい』に『明けの明星みょうじょう』か。確かに古典的なサインではあるが…」

源一郎さんは顎に手をやり、ふむ、と唸った。そして、次の瞬間、その表情が一変した。穏やかだった目が、まるで鷹のように鋭く細められる。

「田中君、君は相場というものを、テレビゲームか何かと勘違いしておるんじゃないかね?」

「え…?」

突然の低い声に、俺は背筋が凍るのを感じた。さっきまでの和やかな雰囲気はどこへやら。部屋の温度が数度下がったような気さえする。

「いいか、田中君。相場は戦場だ。そこには硝煙も銃声もないが、世界中の猛者たちが、知力と資金力、そして欲望と恐怖を剥き出しにして鎬を削り合っている。君のようなヒヨッコが、聞きかじった程度の知識で勝ち続けられるほど、甘い場所ではない」

源一郎さんの言葉は、一言一句が重く、俺の浮ついた心を容赦なく打ちのめす。

「君が今やっているのは、安全な塹壕の中から、おもちゃの鉄砲を撃っているようなものだ。だがな、実弾が飛び交う本当の戦場に出れば、そんなものは何の役にも立たん。一瞬で吹き飛ばされるのがオチだ」

「う……」

返す言葉もない。確かに、デモトレードでは損失が出ても「まあ、仮想だし」と軽く考えていた部分があった。

「FXで最も重要なことは何か、わかるか?」

源一郎さんの問いに、俺は必死に頭を巡らせる。

「えっと…たくさん儲ける方法、ですかね…?」

恐る恐る答えると、源一郎さんは深々と溜息をついた。

「それも間違いではないが、もっと根本的なことだ。それはな、『生き残ること』じゃ」

「生き残る…?」

「そうだ。どんなに素晴らしい手法を持っていても、一回の致命的な負けで市場から退場してしまっては意味がない。だからこそ、『リスク管理』…特に『損切り(ストップロス)』が何よりも重要になる」

「そんぎり…?」

初めて聞く言葉だった。

「自分の予測が外れたと認めた時に、あらかじめ決めておいた損失額で潔く決済することだ。人間はな、どうしても損を確定させるのが苦手な生き物じゃ。だが、小さな傷で済むうちに撤退しなければ、傷口はどんどん広がり、やがては致命傷になる」

源一郎さんは、デモトレード画面の「証拠金維持率」という項目を指さした。

「この証拠金が、君の命綱だ。これが一定の水準を下回れば、『強制ロスカット』といって、君の意思とは関係なく、全ての取引が強制的に決済される。文字通り、市場から叩き出されるわけじゃな」

俺は、先日デモトレードで資金を大きく減らした時の、あの嫌な感覚を思い出した。

「思い出してみろ。あの時、君は冷静な判断ができたか?損失を取り返そうと、ムキになって取引量を増やしたりしなかったか?」

図星だった。俺は顔を赤らめ、俯くしかなかった。

「相場の世界ではな、時として想像を絶するような事態が起こる」

源一郎さんは、ふと窓の外に目をやり、遠い目をした。

「つい最近…そう、今年の5月6日だったか。アメリカの株式市場で『フラッシュ・クラッシュ』と呼ばれる、ほんの数分間で株価が前代未聞の暴落を見せるという事件があった。多くの専門家ですら、何が起きたのか即座には理解できなかったほどの混乱じゃ」

「フラッシュ…クラッシュ…」

ニュースでそんな言葉を聞いたような気もするが、その時は対岸の火事としか思っていなかった。

「あれは株式市場の話だが、為替市場も無関係ではない。世界は繋がっておるからのう。何の前触れもなく、一瞬にしてレートが数百pipsも飛ぶことだってあり得る。そんな時、損切りを設定していなければどうなるか…わかるな?」

ゴクリと喉が鳴る。数百pips…それがどれほどの金額になるのか、今の俺にはまだ正確にはわからない。だが、とんでもないことになる、ということだけは肌で感じられた。

「相場は常に正しい。間違っているのは、常に我々の方じゃ。その現実を謙虚に受け止め、自分の間違いを素早く認めて撤退する勇気。それがなければ、この世界では生き残れん」

源一郎さんの言葉は厳しかったが、その奥には、俺に対する真摯な想いが込められているようにも感じられた。

しばらくの沈黙の後、源一郎さんはおもむろにモニターの一つを指さした。そこには、俺が毎日書き写しているUSD/JPYのチャートに、滑らかな一本の線が追加されていた。赤い線だ。

「まあ、そんな恐ろしいばかりの世界でもない。道標となるものもある」

「その…線は、なんですか?」

初めて見るその線に、俺は思わず尋ねた。

「これは…『移動平均線』じゃ。わしが長年、この戦場で頼りにしてきた、いわば羅針盤のようなものだ。この線の流れさえ読めれば…まあ、その話はまたいずれじゃな」

源一郎さんは、それ以上は語らず、意味ありげに微笑んだ。

「移動平均線…」

俺はその言葉を、心の中で何度も繰り返した。

「いいか、田中君。今日わしが言ったことを、肝に銘じておけ。決して浮かれるな。常に最悪を想定しろ。そして、生き残れ。それができれば、いつか君も、この世界の面白さ…いや、恐ろしさの先にある何かを掴めるかもしれん」

その日、俺はデモトレードの画面を閉じた。そして、大学ノートの最初のページに、震える字でこう書き込んだ。

「損切りを徹底する。生き残る。」

移動平均線という、新たな謎の言葉とともに、俺のFXへの道のりは、より一層、深く、そして厳しいものへと変わっていく予感がした。


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