第3話:弟子入り志願と最初の課題
「この世界に…興味が湧いたかね?」
源一郎さんの言葉は、静かだが有無を言わせぬ力強さで、俺、田中翔太の心のど真ん中に突き刺さった。モニターに映る無数のグラフと数字の羅列は、相変わらずチンプンカンプンだ。だが、この部屋を満たす独特の緊張感、そして目の前の老人が放つ、静かな情熱のようなものに、俺は確実に惹きつけられていた。
(世界の金の流れを読む…か。今の俺とは、まるで正反対の世界だ)
毎日、上司の顔色を読み、取引先の機嫌を伺い、月末の支払いに怯える日々。そんな俺が、世界の経済を相手にする? まるで出来の悪い冗談のようだ。でも、もし…万が一、億が一、そんな世界に足を踏み入れることができたなら?
「あのっ、風林寺さん!」
気づけば俺は、雨で濡れたままのスーツの裾を握りしめ、声を張り上げていた。
「俺、今の自分を変えたいんです!毎日、何のために生きてるのか分からなくて…もし、もしこのFXってやつで、何か掴めるものがあるなら…俺に、教えてください!弟子にしてください!」
勢い余って頭を下げた俺に、源一郎さんはしばらく何も言わなかった。カチカチ、ピコピコという電子音だけが、やけに大きく部屋に響く。まずい、調子に乗りすぎたか?見ず知らずの、しかも仕事で大失敗したばかりの冴えない三十路男の戯言だと思われただろうか。
「…ふむ」
沈黙を破ったのは、源一郎さんの深い溜息にも似た息遣いだった。
「田中君、君はFXというものを、何か打ち出の小槌か何かと勘違いしておらんかね?」
顔を上げると、源一郎さんの瞳は、先ほどまでの穏やかさとは打って変わって、鋭く俺を見据えていた。
「え…いや、そういうわけでは…」
「この世界はな、一攫千金を夢見て飛び込んできた人間が、ものの数日で全てを失い、時には人生そのものを棒に振ることも珍しくない場所だ。魑魅魍魎が跋扈する、血も涙もない戦場でもある。それでも、君はやるというのかね?」
源一郎さんの言葉は、冷水を浴びせられたように俺の熱を冷ました。そうだ、そんな美味い話があるわけがない。
「それに、わしは人に何かを教えるのは得意ではない。見ての通り、ただの偏屈な爺じゃ」
そう言って、源一郎さんはモニターの一つに目をやった。そこには、何やら赤いグラフが急降下しているのが見える。
「おやおや、ギリシャの雲行きが本格的に怪しくなってきたようじゃのう。こりゃ、ユーロはしばらく荒れるかもしれん」
独り言のように呟く源一郎さんの横顔は、やはりただの老人には見えなかった。
(ギリシャ…?ユーロ…?)
ニュースで聞いたことがあるような単語だが、それがこの部屋のグラフとどう繋がるのか、俺にはまだ想像もつかない。
「FXの魅力は確かにある。少ない資金…まあ『証拠金』と言うんだが、それを元手に、『レバレッジ』という仕組みを使えば、元手の何倍、何十倍もの大きな取引ができる。24時間、世界のどこかの市場が開いているから、サラリーマンでも夜中に取引できる。勝てば、確かに大きな利益を手にすることも可能だ」
「へ、へぇ…!」
思わず身を乗り出す俺に、源一郎さんは釘を刺すように続けた。
「だが、その『レバレッジ』は諸刃の剣。負ければ、あっという間に証拠金が吹き飛ぶ。下手をすれば、借金を背負うことだってある。その覚悟はあるか?」
ゴクリと喉が鳴る。借金。その言葉の重みは、今の俺にも痛いほどわかる。
それでも…ここで引き下がったら、俺はまた元の冴えない日常に戻るだけだ。何も変わらない。いや、変わりたいんだ。
「覚悟…あります!どんなに厳しくても、教えていただけるなら、俺、本気で…!」
「…ふぅむ」
源一郎さんは、しばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがて諦めたように小さく笑った。
「まあ、雨の中わしを助けてくれた恩もある。それに、君のその目は、昔の自分を見ているようで、どうにも無下にはできんようじゃ」
「ほ、本当ですか!?」
「ただし、条件がある。わしの言うことには絶対に従うこと。そして、これから出す最初の課題を、完璧にこなすこと。それができなければ、弟子入りの話は綺麗さっぱり忘れてもらう。いいな?」
「はいっ!何でもやります!」
俺は力強く頷いた。
源一郎さんは、机の引き出しから新品の大学ノートとボールペンを取り出し、俺に手渡した。
「では、最初の課題だ。今日から一週間、毎日欠かさず、このUSD/JPY…つまり、米ドルと日本円の通貨ペアの、1分足のチャートの動きを、このノートに手で書き写してもらう」
「え…チャートを、手で…?」
モニターに映る、あのギザギザのグラフのことだろうか。それを手で?
「そうだ。ローソク足の形、高値、安値、始値、終値。それを1分ごとに、だ。そして、その時々のニュース(特に経済関連)、君が何を感じたか、何を考えたかも、余白に細かく記録すること」
「い、1分ごとって…一週間もですか…?」
気が遠くなるような作業量だ。
「それができんようなら、FXで生き残ることなど夢のまた夢じゃ。相場のわずかな息遣いを感じ取る訓練だと思え。どうする? やるかね、やらんかね?」
源一郎さんの目が、再び鋭く光る。
俺は、目の前のノートとボールペンをギュッと握りしめた。
(やるしかない。ここでやらなきゃ、俺は一生変われない!)
「やります!やらせてください!」
こうして、俺、田中翔太の、FXトレーダーへの道…というよりは、まずは地獄の(?)チャート書き写し生活が、2010年の春、ギリシャの危機が静かに忍び寄る東京の片隅で、幕を開けたのだった。