第15話:決意の「FX Gladiators」エントリー ~それぞれの想い~
橘玲奈――あのクールで知的な女性トレーダーとの出会いは、俺、田中翔太の心に強烈な楔を打ち込んだ。彼女の自信に満ちた佇まい、ファンダメンタルズとスキャルピングを自在に操る高度な技術。そして、「移動平均線だけで、今の相場を渡り合えるのか」という、俺の信念を試すかのような言葉。
悔しいが、今の俺では彼女の足元にも及ばないだろう。だが、それでいい。目標は高い方が燃えるというものだ。源一郎さんの「君は君の道を行けばいい」という言葉を胸に、俺は以前にも増してFXの鍛錬に打ち込んだ。移動平均線を軸としたシンプルな手法に磨きをかけ、ダウ理論で相場の大きなうねりを捉え、ライントレードでエントリーとエグジットの精度を高める。来る日も来る日も、チャートと向き合い続けた。
その甲斐あってか、少額リアルトレードの成績は、少しずつだが安定してきた。月単位でのプラス収支も、珍しいことではなくなってきた。もちろん、メンタルの壁は依然として高く、チキン利食いやリベンジトレードの誘惑と戦う日々は続いている。それでも、半年前の自分と比べれば、格段の進歩だと自負できた。
(今の俺なら…もしかしたら…)
心の隅で、あの「FX Gladiators」への想いが、再び鎌首をもたげてきていた。ネットの掲示板では、次期大会の開催が間近に迫っているという噂が飛び交っている。
そんなある日の夕食後。いつものように源一郎さんの仕事部屋でチャート分析をしていた俺は、意を決して口を開いた。
「あの…風林寺さん」
「ん?どうした、田中君。また何か変なローソク足でも見つけたか?」
源一郎さんは、お茶をすすりながら冗談めかして言った。
「いえ…その…『FX Gladiators』なんですけど…俺、エントリーしてみようと思うんです」
俺の言葉に、源一郎さんの動きがピタリと止まった。湯呑みを持ったまま、じっと俺の顔を見つめている。その目は、いつものように鋭いが、どこか探るような色を帯びていた。
「…本気か?」
「はい。今の俺の実力がどこまで通用するのか、試してみたいんです。もちろん、まだ風林寺さんの足元にも及ばないことは分かっています。でも…挑戦したいんです」
しばらくの沈黙。部屋には、パソコンのファンの音と、壁にかかった古時計の秒針の音だけが響いていた。
やがて、源一郎さんは大きなため息をついた。
「やれやれ…ワシの忠告も、馬の耳に念仏じゃったようじゃな。今の君が行けば、火中の栗を拾いに行くようなもの。いや、火中の栗を拾いに行って、そのまま自分が焼かれるようなもんじゃぞ」
「それは…覚悟の上です」
俺は、まっすぐに源一郎さんの目を見返した。もう、心は決まっていた。
源一郎さんは、俺の眼差しから何かを感じ取ったのか、ふっと表情を和らげた。
「…そうか。そこまで言うなら、止めはせん。いや、むしろ行かせてやるべきかもしれんな」
「え…?」
意外な言葉に、俺は目を丸くした。
「井の中の蛙が大海を知らずに満足するよりは、大海に出て己の未熟さを知り、それでもなお高みを目指す方が、よほど見込みがあるというものじゃ。ならば、ワシの教えが、この荒波の中でどこまで通用するのか…世間に、そして何より君自身に見せてみろ」
源一郎さんの声には、厳しさの中にも、確かな期待が込められていた。
「ただし、田中君。無様な負け方は許さんぞ。勝てとは言わん。だが、君がこれまで学んできた全てを出し切り、最後まで諦めずに戦い抜け。それが、ワシに対する最低限の礼儀じゃ。分かったな?」
「は…はいっ!ありがとうございます、風林寺さん!」
俺は、込み上げてくる熱いものをこらえながら、深く頭を下げた。師匠が、俺の挑戦を認めてくれた。それだけで、全身に力がみなぎってくるようだった。
その週末、俺は「FX Gladiators Vol.7」のオンラインエントリーフォームに、緊張しながら必要事項を打ち込んでいた。ハンドルネームは…悩んだ末に「移動平均の翔」とした。ダサいかもしれないが、今の俺の全てだ。
そして、「送信」ボタンをクリックする。これで、もう後戻りはできない。
数日後、ネットの参加者リストが一部公開された。そこに、俺はいくつかの見知った(あるいは、気になる)名前を見つけた。
『橘 玲奈』――やはり、彼女もエントリーしていた。あのクールな瞳の奥に、どんな闘志を秘めているのだろうか。
そして、もう一人。
『星野ひかり』――えっ、ひかりちゃんも!?あの天真爛漫な彼女が、このガチなバトルに出るというのか?「面白そうだから出てみます、先輩!」と、屈託なく笑う彼女の顔が目に浮かぶ。彼女は、俺にとって一緒に戦う仲間であり、同時に絶対に負けられないライバルになるだろう。
そういえば、以前このバトルの話を桜井遥さんにした時、彼女は微笑んでこう言っていた。「翔太くんならきっと大丈夫よ。でも、私はああいう競争は苦手だから、応援に徹するわね」遥さんの優しいエールも、俺の力になっていた。
時は2012年末。日本では、第二次安倍政権が誕生し、「大胆な金融緩和」「機動的な財政出動」「成長戦略」を三本の矢とする「アベノミクス」への期待感が、市場にじわじわと広がり始めていた。長らく続いた円高デフレからの脱却を目指すこの政策は、為替市場にも大きな転換をもたらす予感を漂わせていた。ドル円は、80円台前半から、年末にかけてゆっくりと、しかし確実に円安方向へと舵を切り始めていた。
「相場が、大きく動こうとしている…」
源一郎さんは、日々のニュースとチャートを見比べながら、そう呟いた。この大きなうねりが、「FX Gladiators」の戦いにどう影響するのか。それは、まだ誰にも分からない。
だが、俺の心は決まっていた。師匠の教えと、自分自身の成長を信じて、この戦いに全てを賭ける。
「見ていてください、風林寺さん。そして、橘さん…ひかりちゃんも…俺は、俺のFXで、必ず何かを掴んでみせる!」
文京区の小さな部屋で、一人の冴えない三十路男の、大きな挑戦が始まろうとしていた。