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第13話:師匠の過去と移動平均線の哲学


「うがーっ!またチキン利食いだ!なんで俺は、あとちょっとを我慢できないんだーっ!」

金曜日の午後。俺、田中翔太は、文京区にある風林寺源一郎さんの仕事部屋で、いつものようにデモトレードの画面に噛みつきそうな勢いで叫んでいた。欧州の債務問題がくすぶり続け、市場は相変わらず神経質な動きを見せている。そんな中、俺はわずかな利益を確保してはホッと胸をなでおろし、大きなチャンスを逃しては頭を抱える、という情けないトレードを繰り返していた。

プロフィットファクターだの、リスクリワードレシオだの、頭では理解しているつもりでも、いざ自分の(たとえ仮想でも)お金が絡むと、途端に欲望と恐怖のサルサダンスが心の中で始まってしまう。星野ひかりちゃんという、ある意味「規格外」のトレーダーと知り合って刺激は受けたものの、俺自身の問題は解決していない。

「田中君、君のチャートは随分と賑やかじゃのう。まるで祭りの夜店のようじゃ」

俺のモニターを覗き込みながら、源一郎さんがいつものようにお茶をすする。移動平均線、MACD、RSI、ボリンジャーバンド…俺のチャートは、確かにインジケーターでごった返していた。情報が多ければ多いほど有利なはず、という素人考えの典型だ。

「だって…どれもこれも大事な情報のような気がして…」

「ふむ。では聞くが、君は今、どの情報を一番頼りにしておるのかね?」

源一郎さんの問いに、俺は言葉に詰まった。正直、その時々で都合のいいサインを出しているインジケーターに飛びついているだけのような気がしないでもない。

ふと、俺は源一郎さんのメインモニターに目をやった。そこには、相も変わらず数本の移動平均線とローソク足だけが表示されている、驚くほどシンプルなチャート。この複雑怪奇なFX市場で、なぜ師匠はこれほどまでにシンプルなチャートで戦い続けられるのだろうか?

「あの…風林寺さん」俺は思い切って尋ねてみた。「風林寺さんは、どうしてそんなに移動平均線だけを…いや、移動平均線をそんなに信頼しているんですか?他にもたくさん、便利なインジケーターがあるのに…」

源一郎さんは、湯呑みを置くと、少し遠い目をした。

「…昔はな、ワシも君と同じじゃったよ」

「え?」

「いや、君以上に酷かったかもしれんな。新しいテクニカル指標が出れば飛びつき、海外の高価なセミナーにも足を運び、果ては『絶対に勝てる』と謳う怪しげな自動売買ソフトに大枚をはたいたこともある」

源一郎さんの口から飛び出した意外な言葉に、俺は目を丸くした。この冷静沈着な師匠にも、そんな時代があったとは。

「結果は…まあ、お察しの通りじゃ。知れば知るほど混乱し、情報に溺れ、大損をこいた。まるで泥沼じゃったな。何が真実で、何を信じればいいのか、全く分からなくなってしもうた」

源一郎さんの声には、自嘲と、そして深い苦悩の色が滲んでいた。

「そんな時じゃよ。ふと、埃を被っていた古い相場の本を手に取った。そこに書かれていたのは、ごくごく基本的な、移動平均線の使い方じゃった」

「最初は馬鹿にしとった。『こんな単純なものが、今の複雑な相場に通用するものか』とな。だが、他に頼るものもなくなったワシは、藁にもすがる思いで、移動平均線だけを表示したチャートを来る日も来る日も眺め続けたんじゃ」

源一郎さんは、自分のモニターの移動平均線を、まるで長年連れ添った相棒でも見るかのような優しい目で見つめた。

「そして、ある時気づいたんじゃよ。『多くのものは、多くを惑わす。相場の本質というものは、もしかすると、もっとずっと単純なところにあるのかもしれない』と」

「単純なところに…?」

「うむ。移動平均線とは、結局のところ、一定期間における『市場参加者の平均的な合意価格』を示しておる。その線がどちらを向き、価格がその線に対してどう動いているのか。それを素直に読み解くことこそが、市場の大きな流れを掴むための、最も確かな手がかりになるのではないか、とな」

源一郎さんは続けた。

「もちろん、移動平均線とて万能ではない。だがな、田中君。一つの道具を徹底的に使い込み、その特性を骨の髄まで理解すれば、他の多くの道具を中途半半端に使うよりも、ずっと深く相場が見えてくることがある。それは、どんな世界でも同じじゃろう」

「聖杯探し…か。誰もが一度は通る道かもしれんな」源一郎さんは小さく笑った。「だが、残念ながら、FXの世界に『絶対に勝てる魔法の杖』など存在せん。大切なのは、自分自身が心から信頼できる『羅針盤』を見つけ、それを信じて航海を続けることじゃ。ワシにとっては、それがたまたま移動平均線だった、というだけのことじゃよ」

師匠の言葉は、俺の心に深く染み渡った。情報過多に陥り、あれもこれもと手を出し、結局何一つ自分のものにできていなかった自分。シンプルなものを極めることの価値。そして、師匠がその境地に辿り着くまでに、どれほどの苦悩と試行錯誤があったのだろうか。

「風林寺さん…」

「まあ、君もいずれ、自分だけの『羅針盤』を見つけることになるじゃろう。それまでは、迷い、悩み、失敗するがいい。それもまた、トレーダーとして成長するための、かけがえのない経験じゃ」

源一郎さんの言葉は、厳しさの中にも、弟子を見守る温かさに満ちていた。

その日から、俺は自分のチャートからいくつかのインジケーターを非表示にした。そして、改めて移動平均線と、ダウ理論やライントレードといった基本的な分析手法に、じっくりと向き合い始めた。

「師匠の言う『単純さの奥にある何か』…俺にも見えるだろうか」

すぐに答えが出るわけではない。それでも、俺の心には、確かな道筋が照らされたような気がしていた。

金曜日の午後の日差しが、部屋のモニターを柔らかく照らしている。俺は深呼吸すると、新たな気持ちでチャートに向き合った。まだ見ぬ「FX Gladiators」の舞台を夢見ながら。


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