第12話:小さな成功体験とメンタルの壁
「FX Gladiators」。その名を意識するようになってから、俺、田中翔太のFXへの取り組み方は、自分でも驚くほど変わった。以前はどこか「お勉強」の感覚が抜けなかったが、今は違う。一つ一つの知識、一本一本のライン、全てのインジケーターのサインが、あの舞台で戦うための武器になるのだと思えば、自然と気合が入る。
源一郎さんの指導も、心なしか熱を帯びてきたように感じられた。「あの舞台に立つというなら、生半可な覚悟では話にならんぞ」と、相変わらず口は厳しいが、その分、より実践的なテクニックや相場観を授けてくれるようになった。
ダウ理論で大きな流れを掴み、トレンドラインと水平線で戦うべき価格帯を見極め、移動平均線でトレンドの強弱と方向性を確認し、オシレーター系指標で過熱感を警戒し、ボリンジャーバンドでボラティリティと反転の可能性を探る――。
複雑に絡み合っていた知識が、少しずつ有機的に繋がり始め、俺なりの「戦い方」のようなものが見え始めていた。
その甲斐あってか、デモトレードでの成績は目に見えて向上した。そして、源一郎さんの許可を得て再開した少額のリアルトレードでも、先月、ついに月間収支でプラスを達成したのだ!
「や、やりましたよ、風林寺さん!今月、5800円のプラスです!」
通帳の数字ではなく、取引履歴の数字ではあるが、それでも自分の力で利益を出せたという事実は、俺に大きな自信を与えてくれた。
「ほう、5800円か。大したもんじゃないか、田中君。これでタコ焼きくらいは買えるな」
源一郎さんはいつもの調子だったが、その目元は少しだけ優しく細められているように見えた。…気がした。
しかし、好事魔多し。神様はそう簡単に俺を億トレーダーにはしてくれないらしい。
少しずつ勝てるようになってくると、新たな、そして非常に厄介な敵が俺の前に立ちはだかった。それは、市場でもなければ、他のトレーダーでもない。俺自身の「心」だった。
例えば、狙い通りにエントリーして含み益が出始めると、途端にソワソワし始めるのだ。
(お、1000円プラス…ここで利食いしちゃおうかな?この後下がったら嫌だし…)
結局、わずかな利益で決済してしまう「チキン利食い」。そして決まって、その後レートは俺が予想した方向にグングン伸びていき、「ああーっ!持っていれば1万円の利益だったのにーっ!」と頭を抱えることになる。
逆に、損失が出始めると、今度は損切りができない。
(いや、まだだ…きっと戻るはずだ…ここで切ったら負けが確定しちゃうし…)
そうこうしているうちに損失はみるみる膨らみ、結局、最初に決めていた損切りラインよりもずっと大きな損失で泣く泣く決済するか、あるいは耐えきれずにナンピン(損失が出ているポジションをさらに買い増し・売り増しする行為)して、さらに傷口を広げる始末。
そして、一度大きな損失を出すと、「取り返してやる!」とムキになり、冷静さを欠いた無謀なトレードを繰り返してしまう「リベンジトレード」の泥沼へ。
「なんで俺はこうなんだ…!頭では分かってるのに!」
自己嫌悪に陥る日々。源一郎さんに相談すると、「ふむ、それは『プロスペクト理論』というやつじゃな。人間は利益を得る喜びよりも、損失を被る苦痛をより強く感じるようにできとる。だから、利益は早く確定させたくなるし、損失は認めたくないんじゃ」と、また難しい横文字で説明された。
さらに、「君のトレードの『プロフィットファクター(総利益÷総損失)』や『リスクリワードレシオ(一回の平均利益÷一回の平均損失)』を計算してみろ。おそらく、褒められた数値にはならんはずじゃ」と言われ、実際に計算してみると、その効率の悪さに愕然とした。
そんな壁にぶち当たり、気分転換も兼ねて、俺は週末に神保町へ足を運んだ。古書店街をぶらつき、FXや投資関連の専門書を扱う書店に立ち寄るのが、最近のささやかな楽しみだった。
専門書が並ぶ一角で、分厚いテクニカル分析の本を立ち読みしていると、不意に隣から明るい声が飛んできた。
「わー!その本、難しいですよね!私、最初の10ページでギブアップしちゃいました!」
声の方を見ると、ショートカットが似合う、快活な雰囲気の若い女性が立っていた。歳は俺よりいくつか下だろうか。大きな瞳をキラキラさせて、こちらを見ている。
「あ、えっと…そうですね、なかなか歯ごたえがあって…」
人見知りの俺は、しどろもどろに答えるしかない。
「私、星野ひかりって言います!FX、始めたばっかりなんですけど、楽しくて!あ、もしかして、先輩もトレーダーさんですか?」
彼女は、星野ひかりと名乗ると、あっけらかんとした笑顔でそう言った。その屈託のなさに、俺は少し面食らった。
「い、いや、先輩なんて…俺もまだ勉強中の身で…田中翔太です」
「田中先輩ですね!よろしくお願いします!私、昨日なんかよく分からないけど、ユーロ売ったらめっちゃ儲かったんですよ!あれって、ギリシャがまたなんかヤバいからですかね?」
ひかりちゃんは、FXの知識はまだ浅いようだったが、物怖じしない性格と、持ち前の明るい直感で、短期的なトレンドフォローを中心に意外なほど利益を上げているらしかった。特に、2012年に入ってから再び深刻化していた欧州ソブリン危機の影響で、ユーロ関連の通貨ペアが大きく乱高下する中、その波にうまく乗っているようだった。
「ひかりさんは、短期トレードが得意なんですね」
「得意っていうか、よく分かんないから、なんかイケイケな方に乗っかっちゃえー!って感じです!あはは!」
俺がこれまで源一郎さんから教わってきた、理論に基づいた慎重なアプローチとは全く違う。だが、彼女の天真爛漫なトレードスタイルと、市場の混乱をむしろ楽しんでいるかのような姿は、どこか新鮮で、俺の凝り固まった頭に新しい風を吹き込んでくれるような気がした。
「もしよかったら、今度トレードの話とか聞かせてくださいよ、田中先輩!」
「え、あ、はい、俺でよければ…」
ひかりちゃんと連絡先を交換し、別れた後、俺は少しだけ気分が軽くなっていることに気づいた。自分一人で悶々と悩んでいたメンタルの壁。もしかしたら、彼女のような存在が、何かを変えるきっかけになるのかもしれない。
その夜、源一郎さんにメンタルの弱さについて改めて吐露すると、師匠は静かに言った。
「技術を磨くのはもちろんだが、それと同じくらい…いや、それ以上に、己の心を制することが肝要じゃ。相場で最も手強い敵は、常に自分自身の欲望と恐怖。その二つを乗りこなし、冷静な判断を下し続けることこそ、トレーダーにとって永遠の課題じゃろうな」
欧州の危機は深まり、市場は不安定な動きを続けている。俺の目の前には、テクニカルやファンダメンタルズだけでなく、「メンタル」という巨大な壁が立ちはだかっていた。だが、星野ひかりという新しい風と、源一郎さんの変わらぬ導きを胸に、俺はこの壁を乗り越えてみせると、静かに闘志を燃やすのだった。