第1話:三十路の溜息と路地裏の出会い
西暦2010年、如月。巷では「リーマンショックの余波」なんて言葉が、まるで挨拶代わりのように飛び交っていた。テレビをつければエコカー減税だの、事業仕分けだの、なんだか景気のいい話と悪い話がチャンポンになって、俺、田中翔太、三十歳、独身、しがない中小企業の営業部所属の気分みたいにどんよりと淀んでいた。
「はぁ……」
今月何度目かわからない溜息が、安っぽいアパートの六畳一間に吸い込まれていく。壁に貼ったまま忘れていたアイドルのポスターが、心なしか呆れたようにこちらを見ている気がする。いや、気のせいだ。彼女はいつだって微笑んでいる。プロだ。
それにひきかえ俺は、プロ失格の烙印を押されたばかりだった。
昨日のことだ。大事な契約がかかったプレゼンで、俺は見事に…そう、見事にパソコンをフリーズさせ、あげくコーヒーまでぶちまけるという合わせ技一本を食らってしまったのだ。部長の雷が落ちたのは言うまでもない。「田中君、君は一体何をしに来たのかね? リラックス効果のあるアロマでも焚きに来たのかね? んん?」と、後頭部にねっとりとした視線を感じながらの説教タイムは、俺のけして高くない自己肯定感を、マリアナ海溝のさらに奥深くまで叩き落としてくれた。
「ま、アロマ焚いた方がまだマシだったかもな…」
自嘲気味に呟き、よれよれのスーツに袖を通す。満員電車に揺られ、今日も今日とて「すみません」「申し訳ございません」が口癖の営業スマイル製造機と化すのだ。将来の夢?そんなものは学生時代に就職氷河期という名の巨大な冷凍庫にぶち込まれ、カチカチに凍り付いてしまった。
そんな、いつもと変わらないはずの雨の日の夕暮れだった。
外回りの営業先からの帰り道、普段は通らない古びた商店街の裏路地をショートカットしようとした時だった。ザーザーと降りしきる雨音に混じって、微かなうめき声が聞こえた気がした。
「ん…?」
気のせいか、と一度は通り過ぎようとした。どうせ猫か何かだろう。今の俺に、他人を気遣う余裕なんてミジンコほどもない。…はずだった。
「ぐっ…うぅ…」
明らかに人間の、それも老人の苦しそうな声。見て見ぬふりは、さすがに後味が悪い。渋々といった体で声のする方へ足を向けると、古びた電柱の陰で、小さな体躯の老人が蹲っていた。年の頃は…70代、いや80に近いだろうか。着古した作務衣のようなものを纏い、傍らには一本の傘が無残にひっくり返っている。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
思わず駆け寄ると、老人は顔を歪め、左足首を押さえていた。
「あぁ…すまない、どうやら足を…ひねってしまったようでな…」
額には脂汗が滲み、声はか細い。
「救急車呼びますか!?」
「いや、それには及ばん…と思う。ただ、ちと一人では立てそうになくてな…情けない」
老人は力なく笑った。その顔には深い皺が刻まれ、いかにも好々爺といった風情だが、雨に濡れた白髪の下の瞳は、妙に澄んでいて力強い光を宿しているように見えた。
「とにかく、雨も強いですし、どこか雨宿りできるところまで…! 肩、貸しますんで!」
正直、面倒だとは思った。自分のことで手一杯なのに、なぜこんな時に、と。だが、目の前で苦しむ老人を放っておけるほど、俺の心はまだ完全に凍り付いてはいなかったらしい。それに、このままでは風邪をひいてしまうだろう。
「すまない…恩に着る」
老人の細い腕を自分の肩に回し、ゆっくりと立ち上がらせる。思ったよりも体重は軽かったが、全体重を預けられるとさすがにズシリとくる。
「ご自宅、この近くなんでしょうか?」
「あぁ、そう遠くない。そこの角を曲がった…」
老人が指さす方へ、一歩、また一歩と進む。雨はますます勢いを増し、俺の安物のスーツも、老人の作務衣も、ぐっしょりと濡れていく。
(なんで俺がこんな目に…)
心の中で悪態をつきながらも、なぜだか不思議と嫌な気分だけではなかった。むしろ、ほんの少しだけ、ほんの僅かだが、誰かの役に立っているという感覚が、凍り付いていた心の表面を微かに溶かすような、そんな奇妙な温かさを感じていた。
これが、俺の三十年の冴えない人生が、ほんの少しだけ、いや、劇的に変わるかもしれない、運命の出会いの第一歩だなんて、この時の俺は知る由もなかった。ただ、足元で跳ねる雨粒を眺めながら、早くこの状況から解放されたい、それだけを考えていた。