第7話:決戦!バレンタイン当日 ~すれ違いの嵐~
運命の、というには少し大げさかもしれないが、少なくとも日陰 蓮と白峰 凛にとっては、間違いなく特別な一日が始まった。そう、2月14日、バレンタインデー当日である。
蓮は、その朝、いつもより三十分も早く目が覚めてしまった。別に浮かれているわけではない。断じて。ただ、昨夜、妙な夢――凛が巨大なチョコレートトリュフに乗って空を飛ぶという、実に意味不明な夢――を見たせいで、どうにも寝覚めが悪かっただけだ。鏡に映る自分の顔は、心なしか寝不足気味に見える。
(…落ち着け、俺。たかがバレンタインだ。いつも通り、平然と、省エネで過ごせばいい)
そう自分に言い聞かせ、蓮は重い足取りで家を出た。カバンの中には、昨日悩みに悩んで選んだ、あの高級チョコレートが静かに収まっている。…いや、これはあくまで保険だ。万が一、万が一にも凛から貰えなかった場合の、自分への慰め用である。決して、渡すつもりなど毛頭ない。…はずだ。
一方、凛もまた、その朝、いつもより早く家を出ていた。念入りに身だしなみを整え、髪もいつもより丁寧に結い上げた。カバンの中には、昨夜、心を込めて(そして悪戦苦闘の末に)完成させた手作りトリュフの箱が、大切に仕舞われている。箱には、何度も書き直したメッセージカードも添えてある。
(大丈夫。これは、あくまで日頃の感謝の印。他意はない。平常心で渡せばいいのよ)
凛は、自分に言い聞かせるように呟いた。だが、心臓は朝からずっとドキドキと早鐘を打っており、指先は緊張で少し冷たい。今日一日、平静を保てる自信は、正直なところ、あまりなかった。
学園に到着すると、そこはもう完全にバレンタイン一色だった。廊下のあちこちで、女子生徒が男子生徒に可愛らしくラッピングされたチョコレートを渡す光景が見られる。男子生徒たちは、期待と不安が入り混じった表情で、そわそわと落ち着かない様子だ。
蓮は、そんな浮かれた空気を「くだらん」と一蹴しつつも、無意識のうちに凛の姿を探していた。彼女は、もう誰かに渡したのだろうか? それとも、これから…?
教室に入ると、早速、数人の女子生徒が蓮の元へやってきた。
「日陰くーん、はい、これ義理チョコね! いつもお世話になってるから!」
「蓮先輩、よかったら…!」
意外なことに、蓮にもいくつかの義理チョコ(そして、もしかしたら本命も混じっているかもしれないが、蓮には判別不能)が手渡された。クラスでの彼の捻くれた言動が、一部には「クールでミステリアス」と映っているらしい。まったく、世の中は不可解だ。
蓮は「あ、ああ…どうも…」と、ぎこちなくチョコレートを受け取る。嬉しいというよりは、戸惑いの方が大きい。そして、受け取るたびに、ちらりと凛の方を見てしまう。(…白峰は、まだか…? いや、別に期待なんかしていない。していないったら!)内心の動揺を悟られまいと、必死でポーカーフェイスを保つ。
凛の方にも、友人たちから「凛、はい友チョコ!」「これ、美味しいから食べてみて!」と、可愛らしいチョコレートがいくつか渡されていた。凛は、にこやかに(しかし内心はそれどころではない)お礼を言いながら、カバンの中の『本命』の重さを感じていた。
そして、彼女の視線もまた、無意識のうちに蓮の方へと向かう。彼が、他の女子生徒から次々とチョコレートを受け取っている姿。その度に、凛の胸がきゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。
(…彼は、あんなにたくさん貰っているのね…。私の、こんな手作りのいびつなチョコレートなんて、もう必要ないのかもしれない…それに、迷惑かもしれないわ…)
昨日までの決意が、急に揺らぎ始める。自信が、どんどん萎んでいくのを感じた。
そんな二人の様子を、特準室のソファで(今日はなぜか朝から特準室に入り浸っている)キィが、面白そうに観察していた。
「レン、いっぱいチョコ貰ってるねー! モテモテじゃーん!」
「リンも! 可愛いチョコいっぱい! でもさー」
キィは、二人の間を行ったり来たりしながら、無邪気に(そして無慈悲に)言葉を続ける。
「一番なのは、リンからのチョコなんでしょー? なんで渡さないのー? 早くしないと、一日終わっちゃうよー! チョコ、腐っちゃうよー!」
キィの悪気のない煽りが、二人の焦りと葛藤に、さらに油を注ぐ。
授業中も、二人は全く集中できなかった。蓮は窓の外を眺め、凛はノートに意味不明な数式(?)を書き殴る。休み時間になれば、互いの存在を意識しすぎて、廊下でばったり会っても、目を合わせることすらできない。話しかけようとしても、タイミング悪く他の生徒に声をかけられたり、先生に用事を頼まれたり。まるで、見えない力が二人を引き離そうとしているかのようだ。
(…もしかして、これもキィの仕業か…? いや、あいつはくっつけようとしてるはずだから、違うか…?)
蓮は、混乱する思考の中で、そんなことまで考えてしまう始末だった。
時間は無情にも過ぎていく。
昼休みが終わり、午後の授業が始まり、そして終わる。
結局、凛は、チョコレートを渡すタイミングを、完全に見失ってしまっていたのだ。
放課後のチャイムが鳴り響く。それは、まるで試合終了のホイッスルのように、二人の胸に重く響いた。
(…もう、ダメか…)
蓮は、ガッカリと肩を落とした。
(…渡せなかった…)
凛は、カバンの中の手作りトリュフの箱をそっと撫でた。
二人とも、諦めと、後悔と、そしてほんの少しの未練を抱えたまま、重い足取りで特準室へと向かう。
今日、このまま何も起こらずに終わってしまうのだろうか?
いや、そんなはずはない。なぜなら、特準室には、あの予測不能なキューピッド(?)が待ち構えているのだから―――。