第6話:バレンタイン前夜のソワソワ
いよいよ明日は、バレンタインデー。
その事実が、特殊状況対応準備室(仮)の空気を、普段とは全く異なるものに変えていた。日陰 蓮も、白峰 凛も、そしておそらくはキィでさえも(彼女の場合は別の意味かもしれないが)、どこか落ち着かない様子で、そわそわとした時間を過ごしていたのだ。
特準室のソファで、蓮はいつものように文庫本を開いていたが、その視線は活字の上を滑るばかりで、全く内容は頭に入ってこなかった。彼の思考を占拠しているのは、明日のこと、そして、あの手作りトリュフのことだ。
(…白峰のやつ、本当に俺にくれるつもりなのか? いや、単なる『感謝の印』だと言っていた。他意はない、と。だが、あの一生懸命な様子は…それに、味見した時の、あの顔…)
思い出すだけで、顔が熱くなる。蓮は、慌てて文庫本で顔を隠した。
(もし、貰えたとして…俺はどういう反応をすればいいんだ? いつものように皮肉の一つでも言って誤魔化すか? いや、それではあまりにも…かといって、素直に喜ぶなんて、俺らしくない…)
柄にもなく、受け取った後のシミュレーションまで始めてしまう始末。まったく、どうかしている。これも全て、バレンタインという非合理的なイベントと、あの次元迷子のお節介のせいだ。
一方、凛もまた、自分のデスクで書類整理をしているフリをしながら、内心は嵐のようだった。
(…明日、渡せるかしら…? あのトリュフ、形はいびつだけれど、味は日陰君も『悪くない』と言ってくれたし…でも、彼のことだから、『お前が作ったにしては』という部分が本音かもしれないわ…)
自信と不安が交互に押し寄せる。そして、蓮の反応を想像すると、心臓がドキドキと音を立てる。
(もし、受け取ってもらえなかったら? あるいは、迷惑そうな顔をされたら…? いや、彼はそういう人ではない、はず…たぶん。でも…)
考えれば考えるほど、凛の顔は赤くなり、思考はまとまらなくなっていく。完璧主義者の彼女にとって、このコントロール不能な感情は、非常に厄介なものだった。
そんな二人のソワソワぶりは、当然、周囲の人間にもバレバレだった。
特に、クラスメイトたちは、この分かりやすい二人の様子を、格好の娯楽として楽しんでいる節がある。
「よお、日陰! 明日、期待してんじゃねーの?」
休み時間、クラスメイトの1人ががニヤニヤしながら蓮の席にやってくる。
「…何のことだか、さっぱり分からんな」
蓮は、ポーカーフェイスを装って答える。
「またまたー! 白峰さんからの本命チョコだろ? もう学園中の噂だぜ!」
「そうだそうだー! あの凛様が手作りしてるって話だぞ!」
他の男子生徒たちも、囃し立てる。
「…くだらん。俺は帰る」
蓮は、いたたまれなくなり、足早に教室を出た。その後ろ姿に、「照れちゃってー!」という声が追いかけてくる。まったく、どいつもこいつも…。
凛の方も、女子生徒たちからの生暖かい視線と質問攻めに遭っていた。
「ねえ、凛! 明日のチョコ、やっぱり日陰君にあげるんでしょ?」
「もう、隠さなくてもいいって! みんな応援してるんだから!」
「どんなチョコ作ったの? 見せて見せてー!」
凛は、「ち、違います! これは日頃の感謝を…!」と必死で否定するが、その真っ赤な顔が何よりもの証拠になってしまっている。彼女の鉄壁のポーカーフェイスも、恋する乙女(?)の前では役に立たないらしい。
そして、キィ。
彼女は、そんな蓮と凛の様子を、特準室のソファで『白峰凛・生態観察記録』のノートをこっそり読みながら、実に楽しそうに観察していた。
(ふふふ…レンもリンも、すっごくドキドキしてる! 明日は絶対、最高のバレンタインになるに違いない! キィの応援パワー、ちゃんと効いてるみたい!)
キィは、自分の『ラブラブ大作戦』が順調に進んでいると確信し、満足げに頷いていた。そして、明日のクライマックスに向けて、最後の仕上げ(?)をしようと、腰のポーチから石ころを取り出し、なにやらブツブツと念じ始めた。
「明日は、レンとリンが、最高にドキドキして、最高にハッピーな気持ちになって、そして、ちゃーんと素直になれますように! えいっ!」
石ころが、一瞬だけ、温かい光を放ったような気がした。
…果たして、その願いは、ストレートに届くのだろうか。それとも、またしてもキィの力は斜め上の結果を招き、とんでもないカオスを呼び起こすのだろうか…?
バレンタイン前夜。
蒼葉学園は、甘い期待と、切ない不安と、そして小さな次元迷子の無邪気な(しかし強力な)願いに満ちて、静かに夜を迎えようとしていた。
明日、何かが起こる。
それは、蓮も、凛も、そしておそらくはキィ以外の誰もが、予感していることだった。