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第3話:蓮のソワソワとキィの「秘密発見」!

白峰 凛が自分にチョコレートを渡そうとしている(かもしれない)―――キィからもたらされたその衝撃的な(そしておそらくは大幅に脚色された)情報は、日陰 蓮の平穏な精神状態を根底から揺るがしていた。もはや『平穏』などという言葉は、辞書から削除すべきかもしれない。


以来、蓮は完全に落ち着きを失っていた。授業中、窓の外を舞う枯葉を眺めては、ため息なのか諦めなのか分からない息を吐き出し、休み時間になれば、無意識のうちに凛の姿を探してしまう。凛がクラスメイト(主に男子)と談笑しているのを見れば、理由もなく胸の奥がチリチリと焼けつくような感覚に襲われ、かといって自分から声をかけるなどという高等技術は持ち合わせていない。まるで、初めての感情に戸惑う思春期の中学生のようだ。実に非合理的で、エネルギー効率の悪い状態である。蓮は、そんな自分自身に心底うんざりしていた。

(…馬鹿な。俺が、あの白峰ごときに、こんなにも振り回されるなんて…ありえない。断じてありえない。これはきっと、冬の気候変動によるホルモンバランスの乱れか何かに違いない)

そう結論付けようとしても、心臓は正直にドクドクと脈打つのだった。


(もし、万が一、億が一…白峰が俺にチョコをくれるとしたら…一体どんな代物だろうか?)

蓮の思考は、何度否定しても、結局その一点に回帰してしまう。

(あいつのことだ、カカオ含有率からテンパリングの温度、コーティングの分子構造に至るまで、完璧な計算に基づいて作られた、寸分の狂いもない芸術品のようなものを…いや、待てよ? キィの報告では、レシピ本を熱心に読んでいたと言っていた。ということは、手作り…?)

手作り。その言葉の響きは、甘美であると同時に、底知れぬ恐怖を蓮にもたらした。あの白峰凛が作る手料理…。以前、彼女が善意(という名の押し付け)で作ってくれたクッキーは、ビスケットというより鉱石に近い硬度を誇り、見た目は完璧だったはずのゼリーは、口にした瞬間、味覚中枢を破壊するかのような衝撃を与えてくれた。

(…手作りチョコ…想像しただけで歯が浮きそうだ…いや、もしかしたら、奇跡的に美味いものができる可能性も…? いやいや、ないない。期待するだけ無駄だ)

期待と不安。甘党としての微かな希望と、凛の料理スキルへの絶望的な不信感。そして何より、(認めたくはないが)凛からのプレゼントを心のどこかで期待してしまっている自分自身への猛烈な苛立ち。蓮の心の中は、まるで出来の悪いメレンゲのように、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていた。実に面倒くさい。


そんな蓮のソワソワした挙動不審ぶりを、特準室の小さな住人、キィが見逃すはずがなかった。

(レン、最近ずーっとリンのこと気にしてる! リンが近くに来ると、ドキッてしてるの、キィにはお見通しだよ! これは何か、レンにも秘密があるに違いない! キィが調査してあげる!)

持ち前の(はた迷惑な)好奇心と行動力を遺憾なく発揮したキィは、今度は蓮の周辺を探ることに決めた。ターゲットは、蓮が聖域サンクチュアリとして死守している、特準室のソファ周りと、彼の机の引き出しである。

「レン、お部屋が散らかってると、良い運気も逃げちゃうよ! キィがお掃除手伝ってあげるね!」

キィは、そんなもっともらしい(そして胡散臭い)口実をつけて、蓮のパーソナルスペースへと侵入を試みる。

「おい、余計なことするな。俺のテリトリーに勝手に入るんじゃない」

蓮が制止するのも聞かず、キィはソファのクッションをひっくり返し、蓮が読みかけで置いていた文庫本を勝手に整理し始め、そしてついに、彼の机の一番奥の引き出しへと手を伸ばした。


そして、キィは『それ』を発見してしまったのだ。

蓮が誰にも見られまいと、厳重に(?)隠していた、一冊の古びた大学ノート。表紙には、蓮らしからぬ、どこか懐かしい雰囲気の、少し色褪せた猫のシールが貼られている。

「あれ? レン、こんなノート持ってたんだ! なになにー?」

キィは、何の悪気もなく、そのノートを手に取り、興味津々といった様子でパラパラとめくり始めた。蓮が「あっ! やめろ!」と叫びながら止めようとしたが、一歩遅かった。キィの動体視力と反射神経は、時々、人間離れしているのだ。


ノートの中身は、まさに蓮の内面ダダ漏れの、秘密の記録庫だった。几帳面な(しかしどこか捻くれた)文字でびっしりと書き込まれていたのは…

『新作コンビニスイーツ辛口批評:〇〇製菓・冬限定ティラミス…マスカルポーネ感希薄。ココアパウダーの質も凡庸。及第点以下』

『理想の冬の過ごし方 ver.4.0:①暖かい部屋で積読消化 ②猫(実家の)とこたつで丸くなる ③新作チョコレートのテイスティング ④可能なら温泉…(誰かと? いや、一人が至高)』

そして、最も致命的で、最も見られてはならないページ。

『白峰凛・生態観察記録(極秘):長所…頭脳明晰、容姿端麗(当社比)、努力家(方向性は時々疑問)。短所…融通が利かない、致命的な方向音痴、料理スキルは破壊神レベル、犬を見ると著しく語彙力と思考力が低下する傾向あり、意外とドジな面も散見される、時々、本当に時々だが、可愛いと思ってしまう瞬間がなくもない…(これ以上は思考のリソースの無駄であるため記録中断)』


「わー! レン、面白いこと書いてるー!」

キィは、無邪気に声を上げた。特に『白峰凛・生態観察記録』のページに釘付けだ。「リンのこと、すっごい見てるんだね! ポジティブな評価よりネガティブな評価の方が多いけど、最後の『可愛い』ってところに本音が隠れてるんでしょ! キィ、そういうの詳しいんだから!」

「なっ…! ち、違う! それはあくまで客観的なデータ収集と分析に基づいた記録だ! 特殊状況対応におけるリスクマネジメントの一環であってだな…!」

蓮は、顔を真っ赤にしてノートを奪い返そうとする。これはまずい。非常にまずい。これだけは、絶対に、天地がひっくり返っても、白峰凛本人に見られるわけにはいかない代物だ!万が一見られたら、社会的にも精神的にも抹殺される!

「えー、でも、ちゃんと『可愛いと思ってしまう瞬間がなくもない』って書いてるよ? しかも、わざわざ『本当に時々だが』って付け加えてるところが、レンらしいっていうか…」

キィは、面白がって、容赦なく蓮の心の傷(?)を抉る。


「返せーーーーーーっ!!」

もはや羞恥心などという高級な感情は、彼方へ吹き飛んでいた。蓮は、野生の本能のままに、ノートを持つキィに飛びかかった。ノートを巡って、特準室で前代未聞の、そして非常に見苦しい追いかけっこ&取っ組み合いが始まったのだ!

「きゃー! レンが本気で襲ってくるー! 暴力反対ー! セクハラー!」

キィは、ノートを盾にしながら、軽快な身のこなしで部屋中を逃げ回る。ソファを飛び越え、机の下をくぐり抜け、時には凛のデスクの上にまで駆け上がる始末。

「やめなさい! 二人とも! 部屋の中で暴れないでください!」


ガチャリ。

ちょうどその時、タイミング良く(悪く?)特準室のドアが開き、凛が戻ってきた。彼女は、目の前で繰り広げられている、あまりにも幼稚で、しかしどこか必死な光景――顔を真っ赤にしてキィに飛びかかる蓮と、ノートを抱えて逃げ回るキィ――に、呆然と立ち尽くした。

「…いったい、何をしているのですか、あなたたちは…?」


「リン! 助けてー! レンがキィの大事なノートを奪おうとしてるのー!」

キィは、凛の姿を見つけると、ノートを抱えて彼女の後ろに隠れようとする。

「白峰! ちょうどいい! こいつからそのノートを取り返してくれ! あれは学園の平和と未来に関わる、超弩級の国家機密書類なんだ!」

蓮は、もはや支離滅裂な言い訳をしながら、必死で凛に助けを求める。


凛は、状況が全く飲み込めない。蓮が「国家機密」とまで言うノートとは一体何なのか。そして、なぜ彼はあんなにも必死で、見たこともないほど顔を真っ赤にしているのか。ただならぬ気配を感じ取り、凛は困惑しながらも、なんとか二人を止めようとした。

「落ち着きなさい、二人とも! まずはそのノートを見せなさい! いったい何が…」


凛がそう言いかけた瞬間だった。逃げ回っていたキィが、床に散らばっていた枯葉まだあったのかに足を滑らせ、派手にすっ転んだ! その拍子に、抱えていたノートが手から滑り落ち、放物線を描いて、凛の足元へとポトリと落ちた。

「あっ…!」

蓮とキィが、同時に悲鳴に近い声を上げる。

凛は、床に落ちた古びた大学ノートを拾い上げた。表紙には、色褪せた猫のシール。中身は分からない。だが、蓮があれほど必死になっていたものだ。きっと、彼にとって非常に大切な、プライベートなものなのだろう。彼のあんなに取り乱した姿を見るのは初めてだ。凛の心に、好奇心がないわけではなかった。特に、蓮が叫んでいた「国家機密」という言葉(もちろん嘘だと分かっているが)は、妙に心を惹きつける。だが、人の秘密を、本人の許可なく覗き見るのは、彼女の持つ倫理観、美学に反する。そして何より、目の前で息を切らし、顔を真っ赤にして固まっている蓮の、まるで迷子の子供のような表情が、妙に…放っておけないような気がしたのだ。

凛は、ふっと小さく息をつくと、ノートを開くことはせず、その表紙をそっと撫で、そして蓮に向かって差し出した。

「…あなたのプライベートな記録なのでしょう? 私が勝手に見るわけにはいきませんわ」

その声は、いつものように冷静で、しかしどこか棘のない、穏やかな響きを持っていた。

「…ですが、理由はどうあれ、部屋の中で追いかけっこをするのは感心しません。備品を壊したらどうするのですか」

凛は、付け加えるように、少しだけ咎めるような視線を蓮に向けた。

「…あ、ああ…すまん…悪かった…」

蓮は、拍子抜けしたように、そして安堵したように、ノートを受け取った。凛の予想外の、そして非常に大人な対応に、戸惑いと、感謝の気持ちが湧き上がる。と同時に、(危なかった…! もし中を見られていたら、俺は社会的に死んでいた…!)という冷や汗が、どっと背中を伝った。


「さ、さて!」

凛は、咳払いをして、気を取り直すように言った。その頬は、なぜか少しだけ赤いような気がした。気のせいかもしれないが。

「無駄なエネルギーを使うのはこれくらいにして、私はこれから重要なミッションに取り掛かります」

そう宣言すると、凛はどこからか取り出した大きな紙袋を、ドンとテーブルの上に置いた。中から出てきたのは、ベルギー産だかフランス産だか知らないが、見るからに高級そうなクーベルチュールチョコレートの塊、オーガニック栽培されたというナッツやドライフルーツ、そしてピカピカに輝く真新しい製菓道具の数々。

「…なんだ、それは」

蓮は、まだ少し動揺を引きずりながらも、訝しげに尋ねる。その甘い香りは、彼の本能を刺激するには十分すぎた。

「見ての通りよ。チョコレート」

凛は、自信があるのかないのか判然としない、微妙な表情で答えた。

「バレンタインに向けて、日頃の感謝の気持ちを形にするのです。これから私は、完璧なトリュフを創造しますわ」

その瞳には、未知の化学実験に挑むマッドサイエンティストのような、あるいは難攻不落の古代遺跡に挑む考古学者のような、どこか悲壮な(?)決意の光がみなぎっている。

(…感謝の気持ち…? 完璧な、トリュフ…? こいつが??)

蓮は、自分の心臓が、先ほどの争奪戦とはまた違う理由で、ドクンと大きく跳ねるのを感じた。凛の手作りチョコ。それは、果たして天使の贈り物となるのか、それとも悪魔の罠となるのか。少なくとも、退屈とは無縁の、波乱に満ちた放課後になることだけは間違いなさそうだ。

蓮は、これからキッチンで繰り広げられるであろう惨劇(あるいは、万が一の奇跡?)を予感し、そっと天を仰ぎ、そして無意識のうちに、自分の胃のあたりをさするのだった。

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