最終章「蒼天に降る」
──雨が降っていた。
乃木希典は、帰国の船を降りると、一筋の雨粒が頬を撫でるのを感じた。
顔を上げると、青空が広がっている。
「……天気雨、か」
どこか懐かしさを感じながら、彼は足を進めた。
長い留学を終え、日本へ戻ってきた。
だが、家に帰るのが妙にそわそわする。
──桐野は、もういないかもしれない。
そんな気がしてならなかった。
彼は、あくまで一時的に子供たちの世話を頼んだだけだ。
すでに新聞社へ戻り、元の生活に戻っているかもしれない。
いや、それどころか──
「薩摩の人間が、そう何年も他人の家に居座るはずがない」
彼らは誇り高い。
人に頼らず、自らの道を進むことを是とする者が多い。
だからこそ、彼は帰路を急ぎながらも、どこか覚悟していた。
もうあの男はいない、と。
しかし──
「おかえり」
その言葉は、あまりにも自然だった。
玄関を開けると、桐野利秋が、まるで当然のようにそこにいた。
子供たちがじゃれつきながら、彼の膝の上で遊んでいる。
乃木は、言葉を失った。
「……君、まだいたのか?」
桐野は、面倒くさそうに肩をすくめる。
「出ていく理由がねぇからな」
「……いや、そもそも居座る理由もないはずだろう」
「そうか? まあ、俺がここにいるのは狐のいたずらみたいなもんさ」
窓の外を見ると、相変わらず青空の下に、細かい雨が降っていた。
──狐の嫁入り。
乃木は、その光景を見ながら、ふと呟いた。
「狐を妻にしたような……そんな気分ですよ」
桐野は、呆れたように鼻を鳴らす。
「馬鹿を言え」
しかし、その顔にはどこか満足げな表情が浮かんでいた。
雷の時代が終わり、雨の時代が来る。
雷が去った後に降る雨が、新たな武士道を形作る。
乃木は静かに、そう確信していた。
──蒼天に降る。
これは、雷と雨の狭間に生きた男たちの物語だった。
( 了 )