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策動(19)

 人波を抜けてたどり着いたのは、通りに面した家だった。入り口に柔らかな笑顔の女性が立っている。

「こんにちは、おばちゃん!」

 ハネナガの声が弾け、小さな手が大きく弧を描いて女性に挨拶する。

 久しぶりに会う親戚にでも声をかけるような気安さ。

 ……フィルダ様の従者でありながら、何の縁もない相手に対してあのような態度を取るのはどうなのか。

 一歩引いて様子を伺いながら、胸の中に言いようのないもやもやが渦巻く。

 それがハネナガの特技であり、特性なのだと理解はしている。

 場に馴染む術に長けているのは確かだし、フィルダ様は人族をことさら拒むようなことはなかったから、ハネナガの行動を咎めることもないだろう。

 それでも、あの自由奔放な振る舞いが何とも落ち着かない。


 一方、ハネナガに声をかけられた女性の顔には優しい笑顔が広がる。その表情からは、二人の間に幾度もの交流があったことが見て取れた。

「おや、ハンナちゃん、こんにちは。そっちの子は?」

 言葉にあわせて視線がこちらに移る。その瞬間、体が緊張で硬くなった。

 空気を察したかのように、ハネナガが俺の肩に指先を軽く置いた。

「うん、紹介するね、僕の兄のオズ」

 女性の表情が一変する。目が丸く見開かれ、眉が高く持ち上がった。驚きと疑問が混じった眼差しで、女性は俺とハネナガの顔を交互に見比べている。

「兄? ハンナちゃん兄弟がいたのかい? あまり似てないように思えるけど」

 その言葉に冷たいものが背中を走る。咄嗟のことなのでどう振る舞うべきか判断できない。

 しかしハネナガの表情には動揺の影もない。翡翠色の瞳は穏やかさを湛え、口元には自然な微笑みが浮かんでいる。


「あ、兄と言っても血はつながってないんだ。一緒に育っただけで」

 ごく当たり前のことを説明するような落ち着きがその言葉には宿っていた。

 女性は俺の顔を隅々まで観察し、ややあって理解したように頷くと、軒先から差し込む柔らかな陽光を背に、目を細めた。

「ああ、そういうことかい。こんにちは、オズ」

「……こんにちは……」

 声を出すまでに一呼吸置いてしまった。

 女性に何と返すべきか迷い、ようやく口を開いたものの、声は小さく風にさらわれるように消えた。

 女性は首を傾げて俺を見つめ、心配そうに眉を寄せる。

 その視線が胸の奥をざわつかせる。

「おや、ハンナちゃんと比べると、元気がないみたいだね。大丈夫かい?」

 柔らかな声に込められた気遣いの言葉が真正面から突き刺さる。

 肩が小さく震え、背中を緊張が走った。

 返事をしようと唇を開くが、言葉が浮かんでこない。


 すぐ隣でハネナガが一歩前に出る。小さな声が間隙を埋めるように響いた。

「うん、オズはちょっと人見知りなんだよ」

 女性の表情が一変する。眉が持ち上がり、瞳が大きく見開かれ、その視線が胸を射抜くように感じられた。

「おや、そうなのかい。兄ならもっとしっかりするもんだよ」

 咄嗟の作り話に基づいて諭され反論の言葉が喉元まで上がったが、それに気づいたのか、ハネナガがさっと口を挟んだ。

「だいじょうぶ、オズはこう見えて頼りになるんだ」

 その言葉に、胸の中のもやもやが僅かに晴れていく。

 しかし、安堵したのも束の間。

「……そうなのかい? じゃあ、頼りになるオズちゃんと知り合いになった記念にどうぞ」

 柔和な表情で差し出された掌。その上に載る夏みかんを見つめたまま、体が凍りついた。


「ありがとう!」

 横からハネナガの腕がすっと伸び、手際よく受け取り、明るく微笑んで礼を述べた。

 その仕草は自然で、初めからそうなると分かっていたかのような流れだった。

 感謝の念が湧く一方で、女性の表情にはまだ疑いの影が残っていた。眉間には細い皺が刻まれ、目は俺とハネナガの間を行き来している。

「……ほんとに大丈夫なのかい?」

 ハネナガは俺の袖を引っ張りながら、明るく応じた。

「大丈夫大丈夫、行こう、オズ。おばちゃん、どうもありがとうってオズも言ってる」

「……あ、ああ」

 喉の奥で言葉が引っかかりながらも、かろうじて声を絞り出した。


 俺たちは路地裏の細い小道へと足を踏み入れた。静けさへと身を隠す。昼の日光が届かないその空間は、一息つくにはもってこいの場所だった。

「……ふぅ」

 背中が汗で湿っているのを感じながら、俺は深く息を吐いた。

 ハネナガもため息をつく。小柄な体を誇張するように肩を落とし、壁際に寄りかかりながら呆れた眉で見上げてくる。

「はぁ……ただのおばさん相手になんなの、オズは」

 その言い方にむっとして、思わず言い返した。

「ああいうのは苦手なんだよ」

 思ったより強い口調になり、声が鋭く尖って狭い路地裏に反響する。

 心の準備もなく知らない相手の前に出されたのだ。当然の反応だ。

 誰もがハネナガのように常に笑顔で愛想を振りまけるわけじゃない。


 ハネナガは壁に背中を預けたまま、片眉を上げて俺を見つめる。

「ああいうのっていうか、大半が苦手でしょ」

「うるさいな」

 図星を突かれ、唇を噛んだまま吐き捨てる。

 そもそもフィルダ様の従者たる俺達が、フィルダ様以外と親しくすること自体が不適切な行動なのだ。まして、それが人族など、誇りの欠片もあったものではない。


 ハネナガは両手を背後で組み、軽く背伸びして姿勢を整えた。壁にもたれながら容赦ない声を投げかけてくる。

「まったく、オズはそういうところあるよね、距離が遠い相手だとうまく話せないのに、距離が近い相手だと皮肉まみれなの」

「べつにそれで困ってない」

 声を落として返すと、深いため息とともにハネナガの小さな肩が揺れる。

「はぁ……せめて標的に接触するまではどうにか対応してよ?」

 その言葉で我に返った。

 そうだ、俺たちにはやるべきことがあるんだ。くだらない言い合いをしている場合ではない。

「……そう、その標的だよ。さっきのは違うのか?」

 俺は眉をひそめて問いかけた。胸の奥に疑念が残る。さっきの女が本命だったのではないか、という不安が消えない。


 だが、そんな俺の疑問をハネナガはあっさり一蹴する。

「違うに決まってるじゃん」

 あっけらかんとした言い方だが、返す声は鼻を抜けていて、気楽さを装っているようにも聞こえる。

「だったらなぜ?」

 一歩踏み出し、真正面から顔を覗き込む。ハネナガの遊びに付き合わされたのかと、疑問より苛立ちが先立つ。

 だが、ハネナガから聞かされたのは思ってもみないことだった。


「……思いついたばかりの偽名で反応できるかどうかの確認だよ。いきなり本番に臨ませるなんて、そんな無謀なことさせるわけないでしょ」

「……」

 俺は言葉を返せずに黙り込んだ。

 直前の子供らしい言動に巻き込まれているから、これも遊びの一環かと疑ってしまったが、こいつなりに、俺のことを考えていたらしい。

 ハネナガも、見た目通りの年齢というわけではないのだから、そういった配慮もできるのだ。

 ただ、その配慮がいつされるかが予想がつかないだけで。


 ハネナガの視線が上がり、肩が軽く揺れて笑みがこぼれる。

「まあ、いざ練習してみたら、偽名以前の問題だったのは、さすがに予想外だったけど」

「練習なら練習と最初に言ってくれれば……」

 口を尖らせながら、わずかに身を乗り出して反論する。悔しさが言葉の端にじむ。

 ハネナガは一瞬目を大きく見開いた後、肩を竦めて頭を振った。その表情には「これだから」という諦めが浮かんでいた。

「言ってどうなるの? 言ってたら愛想良くできたとでも?」

「愛想とか人族に振りまくようなものじゃない」

 返す声が強まり、言い終えて視線を鋭く逸らす。どこか自分自身への言い訳のような響きが残る。


 ハネナガの喉から小さな笑いが漏れる。首を傾げ、顔だけをこちらに向けた姿勢には、からかいの意図が見え隠れしていた。

「それって神族の方々ってこと? オナガが愛想を振りまいているとこなんて見た覚えない」

「……ハネナガがいる時に俺が愛想を振りまく必要もないだろう?」

 俺は視線を逸らしながらも、ハネナガがいない時にはちゃんと振りまいているという意を暗に含ませた。実際にしたことはないが。

 ハネナガの表情が一瞬で変わる。目が丸く見開かれ、唇が言葉を失ったかのように小さく開く。しかしすぐに口角が上がり、わざとらしい驚きの声が空気を震わせた。

「へええ、そうなんだ。つまり、僕が標的を教えた後はオナガを突き放しても問題なく対応できる、と?」

「……ま、まあ、そういうことがないわけでもない……かもしれない」

 俺は口ごもりながら視線を泳がせた。


「はぁ……フィルダ様やシュミル様相手ならいざ知らず、僕相手に虚勢張っても意味ないでしょうに」

 ハネナガのため息が路地に響く。

「断じて虚勢なんかではない」

 語気を強めて言い返したものの、苦しい言い分であることは自覚していた。

「はいはい、わかった、わかったよ。そういうことにしておく」

 ハネナガは背中を壁にもたれかけ、片手をひらひらと振った。言葉は譲歩していても、わずかに上がった口角は俺の心情など見透かしていることを示唆していた。


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