策動(18)
~オナガside~
道を行き交う人々の喧騒が、耳を刺すように押し寄せてくる。雑踏に押されるように、俺は目の前を歩くハネナガの小さな背中を見失わないよう必死でついていった。
すれ違う人々の肩が何度も俺の腕に触れ、その度に体が強張る。
「おい、いったいどこへ連れていくんだ?」
言葉が歯の間から勢いよく飛び出し、最後の音節に怒りが滲んだ。
ハネナガは唐突に立ち止まり、かかとを軸に振り返った。背筋を伸ばし、前髪の隙間から覗く翡翠色の瞳が俺の顔を読み取るように見つめる。
「シチビから聞いたでしょ。追跡してほしい相手のところだよ」
周囲の騒がしさを押し切るように言い放つ彼の唇は、質問に答えながらも片方の端がわずかに上がり、楽しんでいる様子が見て取れた。
確かに任務は伝えられていた。だが、この状況は……。
「それは聞いたが、何もこんな人混みの中を」
四方から押し寄せる他者……人族だから他人というべきか、の気配に喉が狭まり、呼吸が浅くなる。
ハネナガは踵を返して歩き出した。足取りは軽く、混雑を楽しむかのように。前を向いたまま声だけが風に乗って届いた。
「こういう人混みだからいいんだよ。オナガも……って、そうだ、名前」
喧騒の中、言葉の続きが聞き取れず、足を止めて首を傾げた。
「名前?」
「そのままの名前だと周囲に違和感を持たれるから、別の名前を名乗るようにしないと」
ハネナガは立ち止まり、俺との間に腕を伸ばせば届くほどの距離で向き直った。胸を張り、まるで異論を許さないかのように顎を僅かに上げて言い切った。周囲の喧騒にもかかわらず、彼の声は鮮明に聞こえた。
「なっ……!?」
思わず足を止め、右手を胸元でぎゅっと握りしめる。
「この名前は創造された時に頂いたもの、それを変えるなど……!」
声が震え、言葉の端に怒りと戸惑いが混ざり合う。胸の奥から湧き上がる抗議の念を抑えきれず、息が鋭く鼻から吐き出される。
こいつは頂いた名前をなんだと思っているのか。
ハネナガは胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。いつもの無邪気さを抑え、諭すように話し出した。
「別に名前を変えろって意味じゃないよ。目立たないように偽名を名乗れって話だよ」
言葉に合わせて両手を広げ、次の瞬間には周囲の人波へと視線を滑らせた。
俺は両手を固く握り、腹の底から言葉を絞り出した。
「我が名に恥じることは何もない」
ハネナガは距離を詰め、眉を寄せた。翡翠色の瞳に浮かぶ表情には、諦めに似た静けさが浮かんでいた。つま先に体重を移して背を伸ばし、俺の耳元で囁く。
「恥ずかしいかどうかじゃなくて、目立つかどうかだよ。追跡者たるオナガが目立つのは具合が悪いでしょ?」
ハネナガの主張に一理あることも分かっている。だが、納得できない感情が胸の内側で渦を巻く。名を偽ることへの拒絶感は簡単には拭えない。
名前はただの符号ではない。それは、自分自身の一部であり、誇りでもある。
「ぐ……」
言葉が喉の奥で引っかかり、沈黙が続く。
偽名を名乗ることを受け入れるわけではないが、参考までに、本当に参考までに聞いておくことにする。
「……なんて名前にしたんだ?」
「ハンナ」
その一言に思考が止まった。瞬きを三度し、聞き間違いでないと理解できた時、思わず大きな声をあげてしまった。
「ハンナ……!? それは女性名のような印象を受けるが」
人混みの喧騒の中、予想外に自分の声が通った。通りすがりの数人が顔を向け、不審な目を向ける。慌てて口元を手で覆い、俯いてやり過ごす。
ハネナガは周囲の反応など眼中にないように、あるいは視線が自分に向いているわけではないから気づきもしていないのかもしれないが、軽やかな口調で答える。
「その場しのぎの偽名で、性別だのどうでもいいじゃん」
その無頓着さに額に皺が寄り、足が一歩遅れた。
「それはそうかもしれないが……」
心の片隅にある引っ掛かりで、どうしてもハネナガの言葉に素直に頷くことができない。
任務の性質を考えれば、目立たないこと、正体に辿りつかれないことが何よりも重要だ。それは理解しているし、偽名を使うのが有効であるのも納得はできる。
だが、それでも――。
ハネナガが振り返った瞬間、目に映ったのは計算された笑み。唇の端がかすかに上がり、どこか狡猾さをにじませている。こういう表情をしているときのこいつは、たいていよからぬことを企んでいる。
「オナガが決めないなら僕が勝手に決めるけど、それでいい?」
戯れの延長のような、軽やかな言葉。だが、自分で偽名を考えるあてがあるわけでもない。
「……ためしになんてつけるつもりなんだ?」
心中に広がる漠然とした不安を押し殺しながら、問い返した。
ハネナガの顔に広がる笑みは、悪戯を思いついた子供そのもの。ハネナガは純粋に今の状況を楽しんでいる。ハネナガ自身に悪意はないだけにタチが悪い。
そう、ハネナガに悪意はないのだ。
子供らしさを武器にするハネナガは、その「らしさ」の維持を日頃から行う必要があり――なんでも、そうしないと、いざという時に「らしくない言動が出てしまうから」ということだが――その一環で、享楽的とも言える行動をしばしばとり、今がまさしくそうだというだけなのだ。
「オナガだからオナ」
「オナ!?」
思わず声が裏返った。
ろくでもない提案であることは予想していたが、予想以上にろくでもない名前だった。
俺の驚きを心底愉しそうに、腹を抱えて笑うハネナガ。
その体勢から下から覗き込むような姿勢に変えて、もう一言。
「もしくは僕のハンナに合わせて、オンナ?」
怒りと羞恥が混じり合い、顔から首筋へと熱が広がる。頬に火がついたような感覚。
「……いくら偽名でも、ふざけすぎだろう!」
喉元から言葉を絞り出した瞬間、通行人の視線が一斉に集まる。背筋を冷気が走り、慌てて目を伏せ、後ろへ一歩下がった。
まるで自分だけがその場に浮いてしまったような居心地の悪さが全身を包む。
ハネナガに悪意はなく、その遊びが必要なことであるにしても、それを理由にろくでもない偽名を受け入れることなどできるわけもない。
ハネナガは足を止め、小柄な体で大げさにため息をついた。
「はぁ、僕はすでに二つ案をあげたよ。オナガが自分で考えつかないなら、この中のどっちかにするけどいい?」
名案を披露したとでも言わんばかりの態度に反発心が膨れ上がる。
胸の内で渦巻く苛立ちを押し殺すように、鼻から深く息を吸い込み、口からゆっくりと吐き出した。
「……いいわけないだろ」
低く沈めた声で返すと、ハネナガは間髪入れず言い返してきた。
「じゃあ、考えてよ。オナガがこれがいいと決めたものに難癖はつけないから」
思いつくあてがあるわけではないが、この様子ではハネナガに譲歩を期待するのは無駄に思えた。
周囲の雑踏を遮るように目を閉じ、思考を内側へ向ける。
オナガという名前の痕跡を残しつつ、人目を引かない偽名。頭の中で浮かんでは消える候補の断片たち。
「く……オ……オガ……オギ……」
唇が自ずと動く。眉間に深い刻み目を残したまま、さらに数秒、言葉を探し続けた。
そして、静かに口を開いた。
「……オズでいい」
一拍置いて、ハネナガが振り向いた。頬が小さく膨らむ。
さっきまでの茶化した様子はどこにも見当たらず、純粋に感心したような表情を浮かべている。
「いいじゃん、オズ。それっぽいし、覚えやすい」
素直に褒められたはずなのに、こんなにもあっさり受け入れられると逆に落ち着かない。
その笑顔の背後に、また何かを企んでいるのではないかという疑念が頭をもたげる。
「……適当すぎたりしないか?」
俺が尋ねると、ハネナガは片手をひらひらと振った。
「いやいや、簡潔でいいと思うよ。それで決まりだね、オズ」
そう言いながら彼は軽やかな足取りで歩き出した。人波を縫うように迷いなく進むその背中が、妙に頼もしく見える。
その後ろ姿を見送りながら、俺は口元を動かす。
「……オズか……」
小さく呟いたその音の響きが、思いのほかしっくりと胸に収まった。
偽名とはいえ、自分の新たな一面を表す名前として悪くないのかもしれない。
「で、この偽名がどう役に立つんだ?」
疑問の言葉は周囲の喧騒に紛れそうになったが、ハネナガには届いたようだ。
振り返ったハネナガの顔には、露骨な呆れが浮かんでいる。眉尻は下がり、目には「なんでそんなことがわからないの」という無言の批判が滲んでいた。
「どうもなにも、これから紹介に行くんだから必要に決まってるじゃん」
「紹介!?」
予想外の言葉に声が上ずる。
「誰に会うんだ? なんのために?」
立て続けに問いを投げかけるが、ハネナガの反応は肩をすくめる程度。唇を閉ざしたまま、人混みの中を水面を渡るように進んでいく。こちらを振り返る気配もない。
「おい……!」
呼び止めても返事はない。
仕方なく、俺は慌てて歩みを再開し、その小さな背中を見失わないように視線を固定した。
口で言うより、実際に見た方が早い――ということなのかもしれない。だが、それでも何かしらの説明はしておいてほしいものだ。




