策動(16)
ギルマスさんは一瞬驚きの色を浮かべた後、後頭部を掻き、照れくさそうに微笑んだ。
「……はは、いいってことよ」
その瞬間、ソイルさんが腕を組み、肩を揺らしながら茶化すように言った。
「なんだよ、すっかりいいお爺ちゃんじゃねえか」
茶目っ気を含んだ言葉に、場の空気が幾分か軽くなる。
けれど、それを耳にしたギルマスさんの眉間には、はっきりとした不満の溝が刻まれた。
「ソイル……お前、ほんとにギルド報酬一割増にしてほしいみたいだな」
ソイルさんは懲りることなく、片手を腰に添えて僕の方へと向き直った。
「いいか、ハンナ、ああいうお爺ちゃんなんだぞ、ギルマスは」
「おじいちゃん?」
僕は純粋な疑問を浮かべながら首を傾げた。
ギルマスさんは腕を組み、威圧するように低い声を出した。
「ソイル……俺を年寄り扱いするとは……本気で報酬はいらんようだな」
「年寄り?」
さらに深い疑問を込めて首を傾げる。未知の言葉を確かめるように言葉を反復した。
ソイルさんは意地悪な笑みを浮かべ、ギルマスさんに向けて指を差しながら僕の肩を軽く叩いた。
「ああ、若く見えるかもしれないが、あれで五十近いんだ」
なるほど……。
ようやく言葉の意味が掴めてきた。
どうやら、「おじいちゃん」という言葉は年寄り、おそらく年を重ねた者を指す言葉らしい。年を経たというだけで呼び方を変えるというのも奇妙な習慣に思えるが、人族の風習一つ一つに疑問を投げかけても意味はない。
だが、それより気になることがある。
「ふーん……五十って年寄りなの?」
僕は首を傾げながら、純粋な疑問を投げかけた。
三百年の寿命を持つ神族の方々からすれば、五十など未熟とまでは言わないまでも、一生の六分の一を過ごしただけの若さ。この「年寄り」という呼称が何を基準にしているのか、理解に苦しむ。
ギルマスさんが顔を上げ、大仰に両腕を広げた。
「おお、ハンナ、お前ってやつは……! そうだよな! 五十で年寄り扱いなんて、ありえねぇよな!」
わざとらしく目元を拭いながら、感激に満ちた様子で言葉を放つ。
その傍らでソイルさんが肩を震わせながら笑い声を上げ、会話に割って入った。
「ハンナ、お前の周囲はそんなに早死にだったのか? 五十といったら、もう後進に道を譲る年齢だぞ」
どうやらソイルさんは、僕の周りに長命の者がいなかったから、僕が五十を年寄りと考えないのだと推測したようだ。
むしろ百歳でさえ若輩として扱われる環境に育った故の言葉だったのに、まったく反対の解釈をされるとは。
「後進が頼りないから任せられないんだろうが」
ギルマスさんは腕を組み、言葉に力を込めて放った。
その鋭い眼差しから、これは単なる冗談ではなく日頃から溜め込んでいたものがあるように見えた。
すると、すかさずツィタさんが一歩前へと身を乗り出した。からかうような笑みと共に、片目を一瞬閉じた。
「なに、ギルマス。後継者を探しているの?」
ギルマスさんはわざと視線を逸らし、彼女の存在を無視するかのように背を向けた。
「……いや。探していない」
素っ気なく答えたその背に、ツィタさんが銀髪を指先で遊ばせながら追い打ちをかける。
「だったらここにいるじゃない――ふさわしい後継者が」
指先を宙で踊らせ、意地悪く微笑む。
ギルマスさんは眉を寄せ、苛立ちを声に滲ませた。
「だから探してないって言ってるだろうが……」
「なに、もうボケが始まったの?」
ツィタさんは天然を装ったように首を傾けながら、言葉を続ける。
「さっき自分で後進が頼りないって言ったじゃない」
「……ちっ」
ギルマスさんは反論の余地を奪われたせいか、苦虫を噛みつぶしたような表情で舌打ちし、苦しい言い訳を繰り出す。
「ツィタは後進じゃないから該当しない。それだけだ」
ツィタさんはまつげを瞬かせ、ゆっくりと笑みを深めていく。
「ああ、なるほど。たしかに頼り甲斐があるから『後進』には見えないのは仕方ないかしらね」
満足げな表情を浮かべ、まるで称賛を受けたかのように胸を張る姿が印象的だ。
(……実質的には否定されてるのに、どうしてそうなるんだ)
心の中で思わず言葉が漏れる。
ギルマスの言葉は明らかに「お前は対象外」という意味なのに、ツィタさんはそれを『実力を認められている』という解釈に巧みに変換した。
(強い、と言われる者の中にも、実に様々な種類があるものだ)
ギルマスさんは重たげな溜息を吐き出し、天井へと視線を漂わせた。
「……俺は時々お前の楽観的な物の見方に頭を抱えるよ」
その声には長い年月を経て積み重なったような疲労と諦念が滲んでいた。
ソイルさんが腕を組み、心底可笑しいというように大口を開ける。
「まあ、ツィタがギルドマスターになった日には、一ヶ月でギルドは崩壊するだろうな……げふっ」
ソイルさんの言葉が言い終わる直前、鈍い音が響く。
ツィタさんが無言で身体を半回転させ、その勢いのままソイルさんの脇腹に一撃を叩き込んでいた。
動きに派手さはなく、自然体で、躊躇のかけらもない。動きそのものが速いというより、反射的と言える。
「ソイル、あんた……一発殴られたいようね?」
ツィタさんは危険な笑みが浮かべていた。
「いや、もう殴られてる。ギルマス、ギルド内暴力が発生したぞ、これは懲罰ものじゃないのか!」
ソイルさんは脇腹を押さえながら、ギルマスさんに助けを求めるように訴える。
だが、当のツィタさんは、銀髪を指先で払うように後ろへ流しながら、余裕の表情でこう返した。
「やーねぇ、【賢者】の私が【戦士】のソイルを殴るなんて、そんなことあるわけないじゃない。仮に私が手を出したとしても、それはきっと撫でるようなものでしょ。だから、もし今、ソイルが痛みを感じているとしたら私には関係ないわ。何か悪いものでも食べたんじゃない?」
(……なんという屁理屈)
理論と呼ぶにも値しない主張をここまで堂々と展開できるのは、ある種の才能かもしれない。
ソイルさんは顔を朱に染め、拳を強く握りしめながら声を張り上げた。
「そんなわけあるか!」
ツィタさんは優雅に手を翻し、さらに追い打ちをかける。
「えっ、なに? ひょっとしてソイルって、【賢者】に殴られたぐらいで泣き言言っちゃうタイプ? それじゃ前衛戦闘職、引退した方がいいんじゃない?」
その挑発に、ソイルさんの額に青筋が浮かび上がる。
もはや冗談で済ませる領域を超え、抑えきれない怒りになりつつあるようだった。
「……この野郎……!」
騒動の渦中、ギルマスさんが腰を落とし、小声で僕に語りかけてきた。
「わかるか、ハンナ。ツィタは……ああいうヤツなんだ。たしかに『できる』ヤツだが……でも、依頼するなら――最終手段と考えた方がいい」
その眼差しはどこまでも真摯で、経験から滲み出る誠実な忠告であることが窺える。
「わかった」
僕は短く頷いた。演技ではなく、心からの理解を込めて。
確かにソイルさんは揶揄するようではあったけど、それだけで腕力に訴えるのは、僕の目にも軽率な判断に映る。
戦力としての有用性は未知数だが――感情に任せて暴力に走るようでは、活用の場が限られてしまう。
その時、ソイルさんが不満げな声を上げた。
「なあ、ギルマス、いいのかよ、これで?」
脇腹をさすりながら、痛みより苛立ちの方が強い様子で問いかけた。
ギルマスさんは深い息を吐き出すと、ツィタさんへと向き直る。
「あー……わかった、わかった。ツィタ、いったんハンナを連れて外に出てくれ」
ツィタさんは腰に手を当て、眉を顰める。
「なによ、ギルマスまでソイルの肩を持つってわけ?」
「アホか。俺はギルドマスターだぞ。どっちの肩も持たん」
ギルマスさんの台詞は中立を強調していたが、きつく組み直された腕は苛立ちを抑え込むためのもののようであった。
「……はいはい、まぁ、しょうがないわねえ」
ツィタさんは肩をすくめ、軽く息を洩らした。
そして、少しだけ諦めたような、それでいてどこか楽しむような表情で僕を見やった。
「いきましょうか、ハンナ」
ツィタさんは何か悪戯心が芽生えたかのように口角を上げる。
「冒険者への依頼というものを――私が手取り足取り、教えてあげましょう」
「う、うん……」
僕は本能的な警戒心を抱きながらも、彼女の後ろに続き、冒険者ギルドを後にした。




