策動(14)
扉が開く音に合わせて、室内の人々の視線がこちらへと注がれる。
木の床に響く足音と共に、数人の眼差しが僕と男性を捉えた。
次の瞬間、その場の雰囲気が変化したような印象を受けた。明るくなった?だらけた雰囲気が引き締まった?様々なものが入り交じる名状しがたい変化だった。
「ギルマスじゃねえか」
「マスターおかえりなさいませ」
あちこちから声が飛び交う。
その中に、耳を引く言葉が混じっていた。
「マスター?」
足を止め、声を上げる。視線は男性に向けたまま、首を傾げた。
男性――いや、「マスター」は、右手を軽く宙で動かした。
その所作には余裕が滲み、目元に笑みが宿っている。
「はは、冒険者ギルドの管理人みたいなものだよ」
(管理人……)
その言葉に、僕はさらに興味を覚えた。
管理という語から連想するのは、天界における天帝の存在。全体の秩序を司る頂点の者。
となると、マスターが「役割」で、ギルマスというのが「名前」なのだろうか?
「管理人? 偉いってこと?」
無邪気さを織り交ぜた問いに、ギルマスさんは目尻を下げて笑った。
「ははは、エラい苦労する人ってことだ」
愉快そうなその声から、僕の質問が気に入ったことが窺えた。
その時、別の方角から新たな声が割って入った。
「おいおい、ギルマス、なんだ、その子は? 孫か? ひ孫か?」
男性らしい低音の、からかいを含んだ調子の声。
僕が振り向くと、赤い髪と緑の瞳を持つ男性の姿が視界に飛び込んできた。
声の主は目を細め、口の端を持ち上げて意地悪く笑っている。
ギルマスさんは眉を寄せ、冗談に応じるように言葉を返した。
「孫でもひ孫でもねえ! というか、ひ孫とか言ったソイル、いい度胸してるじゃねえか」
周囲の数人がくすくすと笑いを零した。
赤髪の――ソイルと呼ばれたその人物は、片手を腰に当て、肩をすくめるような仕草を見せた。
「いや、人さらいと言わなかっただけいいじゃねえか」
ギルマスさんが半眼になりながらも口角を緩めているのを見て、このやりとりが日常の一部なのだと理解できた。
(……なるほど)
天帝に重ねてみたが、かなり違う構図だったようだ。
このギルマスと呼ばれる人は、確かに中心に位置しているように見える。だが威厳で統治するというより、親しみと冗談の応酬で場を取り持つ存在――そんな印象が浮かび上がる。
関係性だけで言えば、僕達護仕とフィルダ様の方が近いかもしれない。
もっとも、周囲の人族がギルマスさんに対して、僕達のような忠誠心をもっているとは思えないけど。
「そんなこと言った時点で出禁確定だったぞ」
ギルマスさんが引き締まった口元からにやりと笑みを漏らした。
その言葉を受け、ソイルさんは表情を強張らせ、両手を宙に舞わせた。
「だから言わなかっただろ!」
肩をすくめながら動揺を滲ませた声で応じる。目を丸くし、体をのけぞらせる姿は見る者の笑いを誘う。
ギルマスさんは口角を上げたまま、今度は意地悪な表情を浮かべた。片眉を持ち上げ、芝居がかった調子で言葉を紡ぐ。
「しょうがない、次の依頼のギルド報酬一割増で手を打とう」
詳しい意味はわからないが、ソイルさんには不都合な条件らしい。
「そりゃ横暴だぜ、ギルマス」
ソイルさんは両手を広げ、半分は本気、半分は冗談めいた抗議の声を響かせた。
僕はその言葉に反応し、首を傾げた。
「横暴?」
言葉の意味を求める子供のように、無邪気な調子で問いかける。こういう場面こそ、純粋さを装うのが効果的だ。
ギルマスさんは笑みを浮かべて膝を折り、僕と目線の高さを合わせた。片手でソイルさんを指しながら語る。
「いいか、坊主もああいう大人になったらいかんぞ」
「ああいう?」
再び首をかしげる。どの言動を指しているのかわからない、という演技をしてみせる。
ギルマスさんは苦笑を浮かべながら肩をすくめた。
「ろくでもない大人ってことだ」
たしかにソイルさんには少し軽はずみな気質が窺える。
けれど、それを即座に「ろくでもない」と断じる根拠があるかどうかは、まだ判断しかねる。
「ろくでもないはひでえよ。俺は模範的な冒険者だろうが」
ソイルさんは胸を張り、堂々と、そして大仰に反論の言葉を投げかけた。
ギルマスさんはため息交じりに笑い、眉間に浅い皺を刻んだ。
「……まぁ、お前より問題児はたしかにいるが、お前を模範にしていいかどうかは疑問があるな」
呆れを含んだ言葉が飛ぶ。冒険者とひとくちに言っても、その中には様々な人物が存在するらしい。
そこまで考えて、当然のことと思い直す。
神族と言ってもフィルダ様のような至高の存在から、凡愚とも言える存在までいるのだから。
「俺を模範にしなかったら、誰を模範にするんだよ」
ソイルさんが両手を腰に添え、強気な姿勢を見せた瞬間、新たな声が場に割って入った。
「そんなの私に決まってるでしょ」
鋭い声がソイルの言葉を切り裂くように空間に響いた。
声の主は銀色の髪を肩口で切り揃えた女性だった。艶やかな銀髪が静かに揺れ、黒い瞳がこちらを射抜くような鋭さを放っている。
「げ、ツィタ」
ソイルさんの驚きと困惑が入り混じった声が漏れる。
ツィタ――そう呼ばれた銀髪の女性は、ゆっくりと歩を進めながら、冷えた視線をソイルさんに向ける。
「今、『げ』とか言ったのは誰?」
落ち着いた声。だが、威圧する意図を隠す気がないのは明白だった。室内の空気が引き締まるのを肌で感じる。
「んー、このおじさん?」
僕は飾り気なく応じ、ソイルさんの方を指し示した。
嘘は一切ない。事実をそのまま述べただけだ。
「お、おい、坊主」
ソイルさんが慌てた様子で振り返る。
目を見開き、口元を引きつらせながら小さな声で制止を試みる。「言うなよ」という懇願が読み取れた。
とはいえ、僕が言葉にしなくても、彼女の耳には既に届いていると思われる。僕の発言は状況を変えることはないだろう。
「あら、ギルマスじゃない。元気にしてた?」
ツィタさんは僕の視線を受け止めた後、流れるようにギルマスへと顔を向けた。
親しげで、それでいて挑発するような、はたまた相手の反応を楽しむような声。
ギルマスさんは、うんざりとした表情で額に手を当てた。指先がこめかみに触れたまま、声のトーンを落として言葉を返す。
「さっきまでは元気だったがな」
乾いた響き、どこか諦めを含んだ調子。
ツィタさんはその言葉に、口元をにやりと緩めた。
「なに、急な体調不良? 年なんだから気をつけないと」
その言葉を受け、ギルマスさんは目を細め、眉間に深い溝を刻んだ。
「お前がいることに気づいたから元気がなくなったんだ」
「なんで?」
子供らしい好奇心を装いながら、ギルマスの反応を促す。
ギルマスさんは小さく息を吐き、ゆっくりと首を振った。
それから疲れきったように力なく語り出す。
「ああ、坊主聞いてくれ、あの女、ツィタはな、依頼をこなす実力は間違いなく一流なんだがな」
ひと呼吸置き、視線を彼方へと漂わせる。
「報酬額はギリギリまで釣り上げるし、呼び出したい時にはいないし、誰とも組まないどころか周囲と軋轢ばっかり起こすし……とにかく問題だらけなんだよ」
一流という言葉に興味が湧いた。
冒険者にも力量の差があるらしい。全員が同等の技量を持つわけではなく、実力によって立ち位置も変わる。
それは僕たちの世界でいうところの――フィルダ様と、凡百の神族が同列に扱えないのと似たようなものか。
――と、思考が流れかけ、内心でぴたりと思考を制する。
……いや、違う。
例えに用いたことへの後悔が胸に広がる。ツィタとフィルダ様を同じ文脈で語るなど、不遜の極みだ。
シュミル様と凡百の神族くらいの差だろう、と心の中で静かに訂正した。
「一流なの?」
ツィタさんは口角を緩め、胸元を手で軽く叩いた。
「そう、一流よ」
迷いのかけらもない、自信に満ちた声が響く。
すぐ隣でギルマスさんが肩を落とし、深い息を漏らした。
「坊主はお前に聞いたわけじゃない」
「いいじゃない、本人の言葉の方が重みがあるでしょ」
涼やかな表情で返す彼女に、ギルマスさんは呆れた眼差しを向けた。
「重みがあるのはな、他人が言った場合だ。自分で言えば、それは『自称』にしかならん」
その皮肉めいた言葉に、ツィタさんは一瞬不満げに眉を寄せた。
しかし、それも束の間、やや前屈みになって僕を見下ろした。
「……坊主っていうのも味気ないし、小さな未来の依頼人さん、名前は?」
予想外の距離の縮まりに、僕は微かに身を引いた。
とはいえ、子供の姿をした僕に対しても高圧的な態度をとるわけでもなく、意外にも丁寧な口調で語りかけてきた。
「ハンナ」
彼女は僕の名を耳にし、首を軽く傾けた。
「ハンナ……女性っぽい名前だけど、男の子よね?」
「うん」
『ハネナガ』という本来の名を慌てて捻じ曲げて名乗った即興の名前であり、女性的な響きになってしまったのは、全くの偶然だ。




