策動(11)
「ここまで守ってきてくれた臣下ももういないのです」
その言葉に、私は一瞬、胸の奥に小さな怒りが芽生えるのを感じた。
些細なことかもしれないが、事実は正しておく必要がある。
「――一つ、訂正しておきますね」
私は表情を変えず、感情を押し殺したような低い声で語りかけた。
「ここまで連れてきたのは私です。あなたの臣下は、その前に……すでにいませんでした」
その瞬間、ミディアの顔がぐしゃりと崩れ去った。
目を見開き、頬を震わせながら、呼吸が乱れる。唇は震え、声を発するまで数拍の間があった。
「あああああっ……! あなたは、人の心がないのですか⁉」
怒鳴るような叫びが空気を震わせた。両肩が大きく揺れ、涙が頬を伝って流れ落ちる。
臣下の死の記憶が、今の言葉で呼び起こされたのかもしれないが、ひどい中傷だ。ここが王宮で、私が王女なら無礼打ちしても文句は言われないだろう。
そもそも私に人の心がなければ、ミディアもその子もまず生きてはいなかっただろう。
ことさら恩に着せるつもりもないけど、人でなし扱いは看過できない。
「魔獣がうろうろする路頭に迷った人を助ける程度にはありますよ」
ミディアは言葉を飲み込んだように、口を開いたまま固まり、数秒ののち、絞り出すように言葉を紡いだ。
「……そのまま、また路頭にさまよわせるというのですか?」
その言葉に、私は眉をわずかに動かした。
あまりにも人聞きが悪い。わざと怒らせようとしているのではないか。そう思わせるには十分な響きだった。
だが、感情に引きずられるわけにはいかない。私はひとつ深く息を吐き、姿勢を正した。
そして、意図的に声に柔らかさを含ませ、あえて優雅な口調で告げる。
「この村に住むのなら、路頭に迷うことはありません。もちろん、農作業などはしていただきますが」
ミディアの表情が凍りついた。驚きと戸惑いが顔に浮かぶ。
「……あの子に、そんなことを……させろと?」
声が震え、目が揺れている。理解が追いつかない、という表情が浮かび上がる。
私は彼女の言葉を受け止めながらも、視線をそっと落とし、小さく首を振った。
哀れだとは思う。
思うが、この世界において、彼女にしてもその子にしても高貴『だとされる』存在が特別だっただけであり、それが例外でなくなっただけでもある。
そこに同情の余地はある。けれど、私が肩入れする理由にはならない。
声を静かに落とし、諭すように語りかけた。
「この世は互いの助け合いで成り立つもの。あなたが村人たちに手を差し伸べれば、彼らもまた、あなたに恩を返すことでしょう」
ミディアは黙り込んだ。
目を伏せたまま動かず、風にあおられた髪だけが揺れる。彼女の内側で何かが動いているのが伝わってくる重い沈黙が漂う。
やがて、小さな声が唇の端からこぼれ落ちた。
「……わかりました……」
力のない、どこか遠くから響いてくるような声。
その返事の真意を測りかねる。農作業を受け入れたのか。それとも助け合いという理に心を動かされたのか。言葉の真意は伏せた目の奥に隠されたままだ。
ミディアは何も言わず、踊り場を下りた。扉の下で足音が一度だけ響き、背を向けてゆっくりと去っていく姿が見える。
小さな肩が、少しだけ下がって見えた。
私はようやく一人になり、扉にもたれて深くため息を漏らした。
胸の奥にずっしりとした疲れが宿る。このやり取りは昨日も一昨日も繰り返され、明日もまた同じ光景が繰り広げられるだろう。
ふと目を向けると、所在なげに立つ彼女の姿が視界に飛び込んできた。視線は定まらず、まるでその場所に実感がないかのようだ。
かつてカルン帝国とアスラルト国で身分を象徴していたはずの金髪は、今や乱れたまま艶を失い、陽を受けてもくすんで見える。その髪は彼女の没落を否応なく際立たせていた。
「典型的なお姫様でありお后様ね」
蝶よ花よと育てられ、誰かに水をもらわなければ生きられない花。根を張ることも、陽を求めることも、自分ではできない。
けれど彼女だって、王族として生まれた瞬間に職種を授かり、最低限の教育を受け、スキルを身につけてきたはずだ。能力がないはずがない。ただ、どう使うかを誰にも教えられずにきただけなのだ。
ふと脈絡もなく奇妙な想像が脳裏に浮かんだ。
もし、彼女の職種が『盗賊』だったとしたら――。
そんなはずはないと即座に思いつつも、一般人とは異なる苦悩が待っていただろうことは容易に想像できた。
けれど、次の瞬間、思わず口元が緩んだ。
(いや、でも……案外ありかも?)
王女でありながら暗殺のスキルを磨き、政略結婚で標的を仕留めていく。血筋と地位を武器に堂々と敵国に乗り込み、たった一人で一国を崩壊させる。それはそれで、ある意味最強の職種ではないだろうか。
王族に盗賊が生まれたら、祝杯をあげながら「よし、この子は暗殺に向いているぞ」と国中がほほえましく育成に取り組む……そんな馬鹿げた世界を想像すると、こみ上げる笑いを抑えられなかった。
もちろん、それはただの妄想だ。ミディアの職種が何か、私は知らない。聞こうとも思わないし、それによって態度を変えるつもりもない。
空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
カルン帝国の滅亡は、もはや動かしようのない既定の事実だ。それに関わることに何の意味もない——そう、自分に言い聞かせる。
けれど明日もまた、彼女は懲りずに訪れるだろうという予感が頭を離れない。
「……しばらく、村をあけようかな」
ミディアを絶望させたいわけではない。けれど、私に希望を見出されるのも困る。
思考の中で地図を描き始める。地名と情勢、魔物の動向、各国の現状——情報を重ねながら行き先を絞っていく。
カルン帝国の領土は広く、東半分は魔物の巣窟、西側は防衛戦が続いている。依頼は山ほどあるだろう。稼ぎ時ではある。
けれど、そこに行けば結果的にミディアの意に沿うことになる。彼女がそれを知れば「もう少しだけ」と、また縋ってくるのは目に見えていた。
カルン帝国を除外し、アスラルト国は魔物の発生源ゆえに論外。となると——ランドール王国か。
アスラルトからの魔物を警戒して護衛任務が発生している可能性が高い。依頼の質と量を考えれば外れはない。
立ち上がり、両手を胸元で重ねる。目を閉じ、ひとつ息を整え、空に語りかけるように祝詞を紡いだ。
「空の階、集う螺旋、囁く風と、舞う羽衣よ、蒼路を開け——」
冒険者稼業への期待感に胸を膨らませ、『飛翔』の祝詞を唱え、空に舞い上がった。
村全体が小さくなっていく中、背後を振り返る。踊り場の前、家の影——そこに佇むミディアの姿がかすかに視界に映り込んだ。
彼女も、村も、すべてが次第に遠ざかっていく。視線を前へと戻し、ランドール王国を目指して、天空の旅人と化した。




