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策動(9)

 コンコン。

 小さな、しかし確かな音が執務室の空気を震わせ、思考を中断させた。

 その音に、王女殿下がきた時も同じ音だったなと警戒しながら立ち上がり、扉の先にいる相手に入室を促した。

「どうぞお入りください」

 扉の向こうからの反応を待つ数秒が永く感じられる。

「入る」

 予想に反した声に、眉根が寄った。


 扉が開くのを待ちながら、心の中で様々な可能性を巡らせる。

 近衛隊の隊員たちの声とも違う。イアノ殿の丁寧な物腰を思い出すが、それとも異なる。

 そもそも「入る」という言葉遣いが引っかかる。中隊長の執務室でこのような言葉遣いをする者はいない。イアノ殿でさえ、もっと丁寧だ。

 となれば、自分より上の立場か。クアド卿か高位貴族、あるいは陛下。だが、その誰の声とも違う。

 貴族であれば、こんな時刻に前触れもなく訪れることなどありえない。そうなると……あの小僧か?

 だが、言葉遣いは納得できるが、先ほどの声は小僧のものとはまた違う。年輪を重ねた者の落ち着きがあるように思えた。


 いくつもの疑問が頭の中を旋回する中、扉が開き、廊下の光が部屋に流れ込んだ。

 そこに立っていたのは、見覚えのない男だった。

 髪はクアド卿と同じような銀色だが、手入れの行き届いた長髪ではない。短く切られており、雑ささえ感じられる。

 顔立ちは若く、二十歳前後だろうか。アルスを小僧と呼ぶなら、目の前の男は若造と言っても差し支えない年齢に見える。

 だが、それ以上に奇妙なのは着ている服だった。白い布が肩から胸にかけて二度折り返され、左肩の留め具が柔らかな布地を支え、そこから腰まで流れる襞は自然な曲線を描いている。

 衣装に詳しくはないが、少なくとも王城でこのような衣服を見たことはない。市井での流行なのかもしれないが、なんとも奇抜だ。

 そして、見た目は間違いなく若造なのに、そのたたずまいからは歴戦の強者のような威圧感を感じる。

 その異質さに喉の奥が乾き、思わず唾を飲み込む。

 一瞬、侵入者という可能性が頭をよぎるが、それなら中隊長の執務室など訪れるはずもない。

 となれば、自分の知らない貴族という線が最も濃厚か。

 天爵から護爵まで、貴族の数は相当数にのぼる。城中の貴族や高位貴族は把握しているが、それ以外の全てを記憶しているわけではない。


 俺は相手を貴族と想定し、背筋を正した。

「ようこそ。近衛中隊長ディアスです。貴公の名前をお聞かせ願えますか?」

 本来なら入室時に名乗るのが礼儀だが、自分同様、平民から這い上がってきた新進の貴族なら、多少の不作法も致し方なかろう。

 その考えに至り、緊張していた肩の力が緩む。

「……この国をどう思う?」

 その問いかけに、答えるべき言葉が自然と浮かんだ。

「素晴らしい国だ。地上を統一した神の血を引く者、まさしく地上の統率者にふさわしい王族が治める国だからな」

 確信をもって答え、言葉は続く。

「加えて申し上げれば、この国は実力主義を重んじ、平民の登用も厭わない。これこそが、真に強く、公正な国家の姿だ」

「それが偽りだとしたらどうする?」

 男の問いかけはこれ以上なく滑稽なもののはずなのに、なぜか笑い飛ばすことができない。

「偽りだと……何を馬鹿な」

 それが俺の口にできる精一杯の言葉だった。


 相手が語り始めた「事実」は、俺の信じてきた全てを覆すものだった。国の正統性と王族の血筋……。

 怒り、混乱、不信、そして恐れが渦を巻く。机の端を強く掴み、支えを求めた。

(もしそれが事実だとすれば、この国に正統性などなく、今の王族は簒奪者ということになる)

 その考えが頭をよぎり、寒気を覚える。

 しかし、理性的な部分が抵抗を試みる。

(だが、ありえるのか。建国から二千年以上、その事実が隠され続け、今目の前にいる男が誰も知らない真実を知っているなどということが……)

 目の前の男の存在感、その底知れぬ雰囲気が、俺の疑いを打ち消す。

(いや、この男の底知れぬ実力からすれば、そのような真実にたどり着くことも可能なのかもしれない)

 深く息を吸い、落ち着きを取り戻そうとするが、手の震えは止まらない。これまで信じてきたもの、守ってきたもの、そのすべてが音を立てて崩れていく感覚に襲われていた。


「再度聞こう。もしこの国が偽りに塗れていたらどうする?」

 その低い声が執務室に重く響いた。

 これまでの確信が砂の城のように崩れ落ちていく。

 言葉が喉から漏れ出る。まるで自分の意思とは関係なく、心の底から湧き上がるように。

「……そのようなこと……」

「………許されることではない………」

「…………許してはいけない…………」

 その確信が混乱した心に一筋の光明を差し込んだ。

「正しくあるべき姿に戻すべきだと思わないか?」

 その問いかけが俺の中の霧を晴らしていく。

 同時に、意思が何か大きな力に導かれているような不思議な感覚に包まれる。


「……そうだ……」

 声が震えた。

「………我が忠誠は正当なる王家のためと誓ったのだ………」

 拳が強く握られる。

「…………断じて簒奪者に捧げたのではない…………」

 理解を超えた真実が心の奥底から噴き出すように、胸の内でその思いが結晶化していく。混濁した意識が一点に収束し、揺るぎない決意となって形を取り始めた。


「ああ、あるべき姿に戻すべきだ」

 発した声に力が宿る。

「その忠誠、見せてもらおう」

 男の声には試すような響きがあったが、もはや決意は揺るがない。

「お任せください」

 躊躇なく、男の前に跪き、膝が冷たい床に触れた。

 これまでの人生で築き上げてきた誇り、近衛中隊長としての威厳、そのすべてを脇に置いて。ただ一つの目的のために。


 その瞬間、心の中で何かが大きく変容した。

 これまでの忠誠心は形を変え、より深く、より純粋なものへと昇華していく。

 それは単なる義務や命令への服従ではない。正義と真実への献身だった。

 執務室で、新たな誓いが静かに交わされた瞬間だった。


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