策動(8)
~ディアスside~
ダンッ。
拳が机にぶつかり、乾いた音が部屋中に反響した。
紙の束が跳ね、端のコップが小刻みに揺れる。
床に散らばった書類を見下ろしたまま、机に両手をついて前かがみになった。
汗ばんだ制服の襟が首筋に張り付き、じっとりとした不快感が皮膚を締めつける。ここ数日の緊張が骨の奥にまで染みついていた。
……落ち着け。深呼吸だ。
そう思っても、胸の奥で渦巻く怒りと不安から、肺に入る空気が薄く感じられる。
陛下からの沙汰はまだない。王女殿下が謁見から戻って以降、何も言われていない。叱責があれば、いっそ楽になれるのに。
今はただ、宙ぶらりんのまま吊られているような感覚だけが残っていた。
廊下の足音に顔を上げる。
誰かが近づいてくる気配に体が強張った。だが、すぐにその音は遠ざかり、安堵よりも胃の奥を締めつけるような焦りだけが残った。
椅子に腰を下ろすと、重力に押されるように肩が沈む。右手で額を押さえれば、指先に汗の冷たさを感じた。
あのとき、自分は間違ったのか?
言動が軽率だったことは否定できない。だが、それでも——王女殿下が、なぜ俺を伴って謁見に臨む必要があったのか?
考えるほどに疑問が膨れ上がり、答えが見つからない。
落ち着かずに立ち上がる。椅子の脚が床を引きずる音が神経を逆なでした。 窓際へ歩き、視線を外に向ける。灰色の雲が空を覆い、中庭の芝がくすんでいた。だが、その風景を目にしていても、意識の中には、あの謁見の場面があった。
「たしかに、あの小僧の進退について明確にしていなかったのは事実だが……」
窓枠に触れたまま、額に手を添えた。
「……それを公的に明らかにする必要などなかった」
落ち着かない足が窓を離れ、部屋の中を歩き始める。
靴音が石の床に打ちつけられ、白い壁に跳ね返る。誰もいない室内でやけに大きく響いた。
「採用試験に合格していれば、陛下に採用理由を説明する義務は当然ある。だが……不合格とした者を、なぜ不合格にしたかまで……」
机へと戻り、革張りの椅子に身を沈める。背もたれが軋んだ。
無意識に指先で机の縁を叩き始めた。
トン、トン、トン。
規則正しい音が混沌とした思考を整えていく。音に集中することで、考えが線を結び始めた。
「そんなことをしていては、大量に不合格者が出たとき、陛下に一人ずつ説明しなければならなくなる……」
そうだ。自分の対応に、そこまで落ち度はなかった。
だが、確信が得られた瞬間――怒りが胸の奥から湧き上がってきた。
椅子を押しのけるようにして立ち上がり、足早に部屋を横切る。
床を打つ靴音が怒りと同じ速さで加速した。無人の執務室に響き渡るその音がさらに苛立ちを煽った。
「それをわざわざ国王陛下に奏上する状況を作った時点で……王女殿下にまんまと担がれたと思わざるをえない」
立ち止まって首を反らし、白い漆喰の天井を見上げた。
「……だが、そう考えると、どこで王女殿下がそう考えたのか思いつかない」
執務室の中を歩きながら、出来事を順に思い出そうとする。
記憶を辿るにつれ、違和感が膨らんでいく。
「少なくとも……王女殿下と回廊で会ったことは偶然だ」
あの時の表情は間違いなく驚きだった。意図的な出会いではなかったと確信できる。
重たい足取りで窓際まで移動し、カーテンの隙間から外を見る。城の中庭が薄い光の中で静まり返っていた。
「殿下が俺を探していたわけではない。それは、そのまま陛下に謁見に進んだことからも明らかだ……」
窓から背を向け、腕を組んで静かに立ち止まった。
「もし……自分を随行させるつもりだったなら、事前に予定を組んでおくはずだ」
王宮の儀礼では、陛下との面会は突然許されるものではない。王女殿下であっても、それは同じはずだ。
「それに陛下はあの時、随行者が自分であることが意外そうであった」
その記憶が甦り、眉をひそめた。少なくとも俺からは、陛下が意表を突かれていたように見えた。
「そうなると、少なくとも事前に連絡していたのではないだろう」
革張りの椅子が軋み、疲れた体を受け止めた。
「そうなると、完全に偶然でこの事態を仕向けられたことになるのだが……」
その可能性を否定するように、ゆっくりと首を振った。
「とてもそうは思えなかった」
椅子に深く身を沈め、天井を仰ぐ。
この状況の真相は、まだ霧の中にある。王女殿下の真意、この一連の出来事の裏側にある意図……全てが謎に包まれている。
しかし、一つだけ確かなことがある。
この事態を単純に偶然や王女殿下の策略として片付けるには、あまりにも不自然な点が多すぎる。
いや、今となってはその不自然さよりも重要なことがある。今回の失態について陛下からお咎めが来ることになれば……。
その考えが脳裏をよぎった瞬間、冷や汗が背筋を伝った。
平民である自分がこの地位に就けたのは、ひとえに功績と実力を認められてのこと。今、その信頼を裏切るような事態を起こしてしまった。
「近衛隊中隊長という役職は平民としては極めて珍しい昇進だ」
肩の階級章に触れると、その重みが特に強く感じられた。
「実力を重視するこの国だからこそここまでこれた」
目を閉じると、これまでの苦労、訓練、数々の試練が走馬灯のように脳裏をよぎった。血と汗と涙で築き上げた今の地位。
「また、これ以上の昇進、近衛隊大隊長は血統優良、品行方正のクアド卿がその地位にいることで望むべくもない」
口には出さないが、もっとも大事なのは、クアド卿が実力も兼ね備えているという点だ。
「だから、この地位が自分の地位の終着点であろうと、そう考えていた」
あの男を上回ることができない以上、それは当然とも言える帰結であった。
だが、そのことを悔しいとは思わない。
平民出身の身でここまで上り詰めることができた。それだけでも上出来だと言えた。
戦士という職種は、往々にして器用貧乏といわれがちである。剣の扱いは極めた剣士に及ばず、護衛としては極めた騎士に及ばない。
それでも両方を状況に応じて使い分けることで、剣士や騎士では真似できないことを為すことができ、それが評価されてきたのだ。
「それが今、危うい状況になっている」
閉じた目の奥で、暗い予感が渦を巻く。
「もちろん部下に自分を慕う者は多いが、それはあくまで中隊長という立場が大きく影響していることぐらいはわかる」
机の縁に肘をつき、指を絡めるようにして両手を強く組んだ。
その手に、額を押し当てるように沈める。
額に触れる自分の指の節が、軋むほどに力がこもっているのがわかる。
「仮に小隊長へ降格ともなれば、それまで自分の部下であった小隊長の見る目は当然変わるだろう」
これまで築き上げた上下関係。部下たちの敬意に満ちた眼差し。
それらが音を立てて崩れていくことになるのだ。
「これが戦闘や業務での失態でというなら、まだ納得がいく。だが、あの小僧のせいでなどとは認められない」
歯を食いしばる音が頭蓋の中で反響する。
突然、まるで霧が晴れるように、思考が澄んでいく。
首が跳ねるように上がり、目を見開いた。
「そうだ」
散らばっていた疑問が一瞬で繋がる。
「王女殿下はあの小僧にいいように誑かされているに違いない!」
机に拳を叩きつけて立ち上がった。
気づいてしまえば、これ以上ない簡潔で納得のいく答えだった。
「イアノ殿がいる状況でありながら、あの小僧に限って護衛騎士として認めるなど、常識的に考えてありえない」
脳裏に浮かぶのは忌々しいあの小僧のふてぶてしい態度。
「そう、常識的に考えて……だ」
椅子に深く腰を下ろし、再び肘を机に置いた。
絡めた指に額をあずける。その姿は先ほどと変わらない。
だが、気持ちは違う。
諸悪の根源が明らかになったことで、これまで自分を覆い尽くすような漫然として不安が、対処できるものとして見えてくる。
「だが、小僧がどう取り繕おうと、俺の目はごまかせん」
今回の護衛騎士の任命でもっとも得をしているのはあの小僧だ。
おそらく近衛隊に入隊できないことを見越して、王女殿下に甘言を囁いたのだろう。「殿下と離れないためには護衛騎士に任命してもらうしかないのです」とでも。
その想像に、思わず舌打ちが漏れる。
「そもそも軟禁している容疑者に、王女殿下ともあろうものが毎日といっていいほど会いに行くこと自体、異常なことだ」
王女殿下も王女殿下だ。「今日も会えてうれしい」などと言われて舞い上がっているのだろう。
俺は状況の深刻さを噛みしめた。
「陛下はイアノ殿を随行するようにいったが、そもそもそれ自体が間違ってる。イアノ殿とてまだ若い。真の男の魅力も知らないだろう。ああいう線の細い顔立ちの、女を見ればすり寄るような態度を見せる男にたぶらかされる可能性は十分ある」
その考えが頭をよぎると、胸の内で使命感が強まった。
王女殿下とイアノ殿を守る必要がある。そして、あの小僧の真の目的を暴かなければならない。
もし、あの小僧が将来女王となる王女殿下の王配になることを狙っているとしたら……。
「王統は穢される危機に瀕していると言ってもいいだろう」
口にした言葉を耳にして、王国の未来が俺の両肩にかかっているのを感じた。
この危機的状況を適切な人物に伝え、対策を講じる必要がある。
しかし、慎重にならなければならない。誤った一歩が、取り返しのつかない事態を招く可能性もある。




