策動(7)
「そういえばオナガは?」
ハネナガは差し指を唇に軽く触れ、考えるように首を傾けた。
「オナガ? 一度ぶかぶかの服は渡したけど、それっきりかな」
「……それっきりとはなんだ」
言葉が空気を震わせる前に、上空から無音の影が落ち、オナガがハネナガの背後に舞い降りた。
茶色の瞳には軽やかな不満が浮かんでいたが、責めるというよりも、仲間をからかうような優しさが滲んでいた。
「あれ、オナガも来てたんだ!」
ハネナガはさも驚いたように声を上げ、身体をくるりと回してオナガと向き合った。
「今来たんだ」
オナガは首を微かに傾げ、波立たない水面のような静かさで言葉を紡いだ。
ハネナガの誤魔化しに反応せず、ただ事実を述べるだけの態度。
その反応にハネナガは、いたずらを見破られた子供のような笑みを浮かべた。
「オナガの方はどうだ? なにかわかったか?」
シチビの静かな問いかけに、オナガは顎をわずかに持ち上げ、空を仰いだ。
記憶を確認するように瞬きを繰り返す。
「まず……ここは北部だと思うよ。みたことのない地形ばかり」
その言葉が空気に溶け込むや否や、場の雰囲気が一瞬にして凝固した。
森を揺らしていた風の気配が遠ざかり、木々の囁きさえ消え去ったかのような静寂が訪れる。
全員の呼吸が止まり、時間だけが水面に落ちた石の波紋のように広がった。
「それはどの程度確証がある?」
「確証はないよ」
オナガは両手を肩の高さまで広げ、肩をすくめた。
「それこそ土地の隅々まで見て回って、自分の知っている場所を見つけられないと確証なんて得ようがない」
シチビは瞼を閉ざし、内なる思索へと沈み、やがて意を決したようにオナガを見据えた。
「それなら確証を得るまでやってくれ」
「うーん……簡単に言うけど、それって結構大変なんだよ」
オナガの眉が寄り、肩が無言の抵抗のように前へと傾いた。表情には飽きが、声には倦みが混じる。
だがシチビは揺るぎなくオナガの瞳を捉え、妥協を許さない意志を言葉に乗せた。
「簡単とは思っていない。だが、重要なことだ」
オナガの瞳が微かに開き、視線に迷いが生まれる。
「……手がかりにつながるかもしれないから?」
「そうだ。今がどういう状況かわからない以上、些細なことも取りこぼしたくない」
シチビは頷き、両手を腹の前で組み合わせた。
オナガは目を伏せ、言葉を失った。
指先が無意識に動き、地面に落ちた小枝を靴の先でゆっくりと押しやる。
やがて、深く空気を胸に取り込み、長く静かに吐き出した。
「……わかったよ」
シチビはユーカクへと視線を移し、納得を促すように穏やかな声で言葉を紡いだ。
「こういう理由でハネナガとオナガには家づくり以外のことをやってもらっている。だから家づくりは私とユーカクでやるしかない」
ユーカクは肺の底から長い息を解き放った。
肩が重みに負けるように下がり、筋肉から緊張が少しずつ溶けていく。目線を落とし、内に燃えていた反発の炎が静かに収まっていくようだった。
「……わかった」
短く、深く、認めざるを得ない現実を受け入れた言葉が森の空気に溶け込んだ。
その瞬間、彼らを取り巻く緊張の糸が一筋、静かにほどけた。
そこに滑り込むように、ハネナガの声が明るく場の空気を切り裂いた。
軽やかな足取りでユーカクのそばに寄り、下から覗き込むように顔を近づける。
「なになに、ひょっとして家づくりが面倒とか言ってたの?」
「面倒とは言ってない」
ユーカクの否定は即座に放たれた。
抑えきれない苛立ちに言葉が微かに震え、歯の間に怒りを噛み締めた。
ハネナガは一歩身を引き、両手を背に回して組み、身体を左右に揺らめかせる。
その仕草は遊び心に満ちていたが、緑の瞳はユーカクの表情を見抜くように真っ直ぐに据えられていた。
「どうせあれでしょ、シュミル様に言われたのが気に入らないだけでしょ」
ユーカクが苛立ちを籠めハネナガを睨みつける。
「お前達は――あの女に良いように使われてると思わないのか?」
もはや制御を失った怒りが言葉の端々から滲み出ていた。
だが、ハネナガはユーカクの怒りに少しも動じず、両肩をひょいと持ち上げる。
「良いように使われてるよ? でも、それでいいじゃん。少なくともシュミル様が誠実に活動しているんだから、文句を言う理由はないと思うよ」
悪戯の正当性を主張する子どものような無邪気さで、シュミルへの信認を表明したのだった。
ユーカクは眉間に深い溝を刻み、拳を握り締める。
「だが……あの女は……」
その続きを摘み取るように、ハネナガの声が流れ込んだ。
頭の後ろで手を組み、空に話しかけるように言葉を紡ぐ。
「ユーカクが毛嫌いするのもわかるけどさー」
引き延ばすような語尾の後、ひと呼吸置いて言葉を落とした。
「不幸な事故さえなければお似合いだと思うんだよ」
ユーカクのこめかみがぴくりと震えた。
「……似合っているかどうかなんて……外からの基準で判断することじゃない」
その声は掠れ、言葉に不快感が滲んでいた。
ハネナガは両手を緩やかに下ろし、首を少し傾げ、曇り空の合間に覗く光を追うように視線を斜めに投げた。
「それはそうだけど、邪魔……には思っても、邪険にはしなかったじゃん。それがすべてだと思うよ」
「違う!」
ユーカクの声が周囲に響き渡った。
激しく首を振り、上体ごと揺らして睨みつける。
「フィルダ様は優しさ故に助け、憐れんだからこそ邪険にしなかったんだ。それを――あの女がつけ込んでいただけだ!」
肩を怒らせて前に出たその姿は、体格はハネナガより大きいものの、駄々をこねる大きな子供のようだった。
ハネナガは大きな動揺を見せず、眉をわずかに持ち上げて、次の言葉を穏やかに返した。
「フィルダ様が優しいことに異論はないけど、その優しさだけですべてを説明するのは無理があると思うよ」
「いいや、すべて説明はつく!」
ユーカクが確信をもっているかのように断言する。
「フィルダ様は――あの女に特別な感情など抱いていない!」
一呼吸の間を置いて、ハネナガは肩をわざとらしく大げさに持ち上げ、小さく諦めの息を漏らす。
「はぁ……まあいいよ。僕にユーカクの認識を矯正する義務はないし。それで、えーとなんだっけ?」
首を軽く傾げ、記憶を空に探すように視線を彷徨わせる。
思い出すまでの間を演出するように間を取り、ふと何かを思い出したように指を鳴らし、愉快そうに笑顔を浮かべた。
「いいように使われていることに不満がないか、だっけ? ないです」
明るく断言するその言葉には、一片の迷いも感じられない。
「……」
ハネナガの軽やかな受け流しに、ユーカクは言葉を飲み込み、唇を強く噛みしめた。
「だいたいさー、フィルダ様がお戻りになられたら、住んでいただく場所は必要でしょう」
その言葉が静かに放たれた瞬間、場の空気が目に見えない波紋を広げた。
ユーカクは首を小刻みに振り、早口気味に反論する。
「創造の契約法をお持ちだ」
「それはそうだけど――護仕である僕達がお迎えせずに、創造の契約法で作っていただくのはさすがにどうかと思うよ」
ハネナガは両手を胸の前で丁寧に組み、緑の瞳が微かに細くなる。
優しげに見えてどこか鋭利な視線が、ユーカクの言葉の本質を見抜くように真っ直ぐ向けられた。
「まして、お帰りになる場所を僕達が用意せず、どんな顔して『お帰りをお待ちしておりました』と言うつもり?」
声の調子こそ変わらないものの、指摘した事実は的確にユーカクの弱点を射抜く。
「……」
ユーカクは返す言葉を見失い、視線が地面へと沈んだ。
唇が固く閉ざされ、押し返そうとする反論が喉の奥で消えていく。
一応の決着がついたことを察したシチビは視線を巡らせ、波風が立たないように静かに言葉を紡いだ。
「とりあえずオナガ、ハネナガは引き続き情報収集を頼む。五日おきにここに来て情報を教えてくれ。もちろん、緊急の連絡があれば随時報せてほしい」
オナガは「わかった」と簡潔に頷き、ハネナガは「わかったよ」と手を振りながら陽気に応えた。
シチビは最後にユーカクへと視線を移し、感情を排した声で結論を告げた。
「さて、私達は引き続き拠点づくりだ」
その一言に、ユーカクはを避けられない現実を受け入れるように瞼を閉じ、不承不承といった体裁で力なく応じる。
「……わかったよ」
その言葉には、選択の余地なく背負わされた義務への諦観と、主への忠誠のために飲み込まざるを得ない不快感の残滓が入り交じっていた。




