策動(6)
囁きが森の静寂に溶け込んだ後、時間だけが二人の間を緩やかに流れた。シチビは左足を半歩前に出し、静かな水面に石を投げるように、冷静な問いを放った。
「そもそもいちいち私につっかかるな。それとも何か。私に第一の腹心という言葉が使われたのがそんなに気に入らないか?」
その言葉が耳に届いた瞬間、ユーカクの顔から首筋、耳まで一気に朱に染まった。喉元が震え、真実から逃れようとするかのように頭を振る。
「~~~っ、そんなことは関係ないっ」
顔を背けるその仕草は、図星を突かれた内なる葛藤をあからさまに露呈していた。
「……そうか」
シチビは感情の嵐に揺れるユーカクを、遠い世界の出来事を眺めるような冷静さで見据え、余分な言葉を削ぎ落として応えた。そのそっけない返事は森の空気に吸い込まれ、言葉の届かない距離が二人の間に広がった。
しかし静寂は長くは息づかず、ユーカクの喉から抑えきれない苛立ちが形を変えて漏れ出した。
「だいたい、なぜオナガやハネナガに手伝わせず、俺達だけなんだ?」
「適材適所というものがある。彼らにはもっと彼ら向きのことをしてもらっている」
「彼ら向き?」
ユーカクは思いもよらぬ謎に直面したように首を傾げ、声から鋭さが失われていく。
「情報収集だ」
「情報収集?」
ユーカクは予想外の答えに引き寄せられ、無意識のうちに言葉を反芻していた。
「そうだ。彼女達はそれこそ『転移』があるせいか外に対して関心が薄いが、見られることは考えておかなければいけない」
ユーカクは足元の苔を見つめたまま、顎が小刻みに揺れた。何かを咀嚼するように思考を巡らせている。
「見られる? 敵にか?」
「敵も有象無象もだ」
その簡潔な返答が思考の扉を開くように、ユーカクの視線が森の木々の間を彷徨った。
「それは……その他大勢に紛れるということか?」
「紛れることも含め、利用すること全般だ」
シチビは静かに一度だけ頷いた。
表向きは命令に従いながら、水面下では別の意図を持ち続ける。そんな確固たる意志がシチビの落ち着いた姿勢に宿っていた。
「利用って、利用する価値があるか?」
ユーカクの声は低く掠れ、言葉の裏に納得できない思いが胸の奥に滞っていた。
「価値があるかないかさえわからないのが現状だ」
シチビの冷徹な現実認識に、ユーカクの唇が言葉を失って半ば開いた。反論の糸口を求めるように眉間に皺が刻まれ、視線がさまよう。
「それは……そうだが……」
言葉が途切れた瞬間、シチビの耳が何かを捉えたように静かに動いた。
木々の向こうから、葉擦れの微かな音に紛れて、何者かの気配が確かに近づいてくる。
「そんなことを言っていたら来たようだ」
シチビの言葉が余韻を残す間もなく、若々しい声が森の静寂を打ち破った。
「シチビ、戻ったよ」
声のする方角に目を向ければ、鮮やかな緑の髪を風に揺らし、地に足をつけずに軽い足取りで近づいてくるハネナガの姿があった。
シチビは目を僅かに細め、獲物を品定めするように視線を走らせた。
「ハネナガ、お疲れ。ふむ……少し装いを変えたのか」
ハネナガは頷き、無邪気な笑顔を咲かせた。かつての一枚の布を纏っただけの簡素な姿からは見違えるほどに変化していた。
今のハネナガは、茶色がかった布地を用いた服を身にまとっている。肩から腰、腰から膝までの二段に分かれて縫い合わされ、膝下までを覆う形。裾や袖口には点々と土や草の汚れが付着していたが、全体としては整った印象を与えた。腕を動かすたびに布地が自然に揺れ、動きやすさを感じさせる。
「前の衣装だと周囲と違いがあって目立つからね」
明るく軽やかな声で、自分の工夫を誇らしげに伝えた。
「そうか」
シチビは顎をわずかに動かし、短く応じた。
一方で、ユーカクはハネナガの変化を理解できず、困惑した表情を浮かべた。
「……簡単に言うが、どうやって装いを変えたんだ?」
その素直な疑問に、ハネナガの顔が輝いた。瞳がきらめき、上半身を前に乗り出す。両手を胸の前で小さく握りしめ、語る機会を得た喜びが全身から溢れ出した。
「よくぞ聞いてくれました!」
その一言で、ユーカクは「聞くんじゃなかった」と思ったが、後の祭りだった。
ハネナガは息を弾ませながら冒険譚のように言葉を紡いでいく。
「これがまた大変だったんだよ。最初はね、捨てられてたぶかぶかの衣服を探して、それを着てさー……それから集落、町っていうらしいんだけど、そこを歩いてたんだよ」
「そうしたらね、可哀想だって思った人族たちが色々してくれたんだ。服をくれたり、縫い直してくれたり。そうやって繰り返していったら……ほら、この通り!」
ハネナガは成果を誇るように服の裾を軽く叩いてみせた。
その仕草に、ユーカクは言葉を飲み込んだまま口が開いたまま。視線はハネナガの服装と表情の間を行き来し、眉が無意識に持ち上がった。驚きと何かの発見が混ざり合う複雑な表情が浮かび上がる。
シチビはユーカクの表情の変化を見届けるように一瞬の間を置き、静かに真意を明かした。
「わかるか、ユーカク。私やお前では絶対にできない、この恐ろしいまでの相手の懐にするりと入り込む能力、これがハネナガを家作りに使わない理由だ」
シチビとユーカクの視線の先で、ハネナガは背筋を伸ばし、胸元を誇らしげに押し出した。達成感に満ちた笑顔で両手を広げ、声に弾みを持たせる。
「へへ、すごいでしょ」
ユーカクは眉間の皺を深めたまま沈黙していたが、やがて顎を引き、敗北を受け入れるようにゆっくりと頷いた。
「……ああ、たしかに……すごい……」
低く抑えられたその言葉には、まだ整理しきれない複雑な思いが潜んでいた。だが、否定できない現実を受け入れる響きが確かにそこにあった。
「そういえば、さっき町と言ったか」
シチビの問いに、ハネナガは肩を軽く揺らしながら明るく応じた。
「うん」
「町、というのは結局なんだ?」
ハネナガは差し指を唇に当て、顎を上げて視線を空へと向ける。
思考を巡らせる間、首がわずかに揺れ、それに呼応するように緑の髪が風に遊ばれるように揺れた。
「うーん……すごく雑に言うと村がさらに大きくなったもの? 人族がそれはもううじゃうじゃといるんだよ」
両腕を大きく広げてその規模を表現するハネナガに、シチビは思案を秘めた吐息を漏らした。
「ほう……」
「まぁ元の時間からすると……えーと、二千六百年ぐらい、なんだっけ?」
ハネナガは首を緩やかに傾げ、記憶を探るように視線を宙に彷徨わせる。
その仕草は、昨日の出来事を思い出すような気軽さで、数千年という時の重みを感じさせなかった。
「そのぐらい経過して、増えまくった人族が集まっているところだね」
「生活はどうだ? 元の時間と比べて」
ハネナガは指先を顎に当て、視線を足元の苔に落とした。緑の瞳に思考の揺らぎが映り、言葉を選ぶように首が小さく揺れる。
「ん? んー……僕は神族の生活の方が好きだけど、脆弱な人族なりに工夫はしてるみたいだよ。道具をいっぱい作ったり、家を並べて住んだりしてる」
言葉が終わるとともに、視線は自然な流れでシチビへと戻った。
シチビは静かに息を入れ替え、首を右に幾度か傾けながら、言葉を天秤にかけるように間を置いた。
「そうか……しばらくその町の中で生活できるか?」
ハネナガは瞳を大きく瞬かせ、表情が一瞬で明るさを帯びた。
両手を胸の前で小さく握り、期待に満ちた仕草でつま先立ちになる。前のめりに身を乗り出すその仕草は、まるで何か楽しい遊びに誘われた子供のようだった。
「いいよー! なにか知りたいことはある?」
「そうだな……人族がどんな生活をしているのか、そういうことに関して見聞を広げてほしい」
ハネナガは確かな意志を込めて頷き、何の迷いもない素直な笑顔を浮かべた。
「ふーん……わかった。やってみる」




