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策動(5)

 幹回り三メートルはある巨木が立ち並び、木々の枝葉が空を覆い尽くす森の中に、シチビとユーカクの二人の姿があった。

 周囲の伐採された木々の隙間から、斜めに差し込む日光が地面を不規則に照らしている。

 微風に揺られるシチビの肩までの髪が銀色に輝き、その反射が周囲の暗がりをいっそう深く見せていた。


 三メートルほど離れた位置で、ユーカクは苔むした古木に背を預けていた。右足を幹に立てかけ、眉間には深い皺が刻まれている。腕を組んだまま、何度も言葉を飲み込んでは舌打ちを繰り返し、赤い瞳がシチビの背から足元へと落ちては戻る。


 ついにユーカクは背を幹から離し、拳を握りしめて一歩前に出た。喉の奥から低い唸り声を漏らす。

「このままでいいのか、シチビ」

 抑えていた感情が声に滲み出た。


 シチビは背中越しに首だけを回し、細められた目でユーカクを視界の端に捉える。

「なにがだ?」

 淡々とした声が森に溶けていった。まるで風の音を聞き流すように。

 その返答にユーカクの顔が歪んだ。

 左手を振り上げ、指を反らせたまま言葉を叩きつける。

「あの女にいいように使われて、だよ」

 一音ごとに怒りが絡みついていた。


 シチビの左眉がぴくりと跳ね、一瞬表情が崩れる。だが、すぐに元の表情に戻り、短く息を吐いた。

「……文句があるなら直接交渉すればいい」

 言葉は森の空気に溶けるように小さくなった。

「俺はお前が文句がないかを聞いているんだ」

 ユーカクの声が強まり、語尾で音を荒げる。関節が白くなるほど拳を握りしめ、一歩踏み出した。日光に照らされた赤い髪が炎のように揺れる。


 シチビは動かない。ただ呼吸が深くなり、胸の動きがゆっくりと大きくなった。瞬きをひとつし、細く息を吐き出すように答えた。

「ないな」

 ユーカクの口から言葉が消え、握りしめた拳だけが震えている。肩から上腕の筋肉が盛り上がり、硬直したまま。

 目線を落とし、震える唇から問いかけた。

「……なぜ?」

 かすれた囁きは木々のざわめきに紛れそうなほど弱々しい。


 シチビはすぐには応えず、静かに目を閉じた。数秒の静寂が森を満たす。

 やがて、思考の重みを払うように緩やかに瞼を持ち上げた。

「なぜ、とは妙なことを聞く。こうして時空遷移しているのも彼女のおかげだろう」

 シチビは否定の余地を与えない事実の重みで、相手の疑念を完膚なきまでに切り捨てた。


 だが、そのように事実を突きつけられたことが、ユーカクの内に潜んでいた怒りの炎を一気に燃え上がらせた。鼻孔から熱を帯びた息が漏れるのに合わせるように、言葉が制御を失って溢れ出た。

「そうかもしれないが、それといいように使われるのは話が別だろう!」

 長く閉じ込めていた憤りが、一気に声に乗り、抑えきれない感情がそのまま語尾を鋭く引き上げた。

 シチビはその激情を理解しようとも同調しようともせず、ただ右肩をかすかに持ち上げただけだった。

「だから文句があるなら彼女に直接言うといい。私はとくに言うべきことはない」

 感情を排した言葉が、ユーカクの怒りの一切を遮断した。


 苛立ちを抑えきれないユーカクは両腕を肩まで荒々しく広げた。

「家づくりさせられて不満がないと?」

 声は一段高くなり、震える息がその言葉に不穏な色を添えた。

 シチビは微動だにせず、その問いに対する答えを躊躇いなく述べた。

「そうだ」


 ユーカクの顔に苦悶が刻まれる。喉の奥で怒りを飲み込むような音を漏らし、焦燥と憤怒が交錯する声で言葉を継いだ。。

「いや、もっとやるべきことはあるだろう」


 シチビは眉一つ動かさず、唇の端をかすかに持ち上げた。

 「具体的には?」

 挑発めいた言葉に、ユーカクの肩が無意識に反応して跳ね上がった。

 指先から怒りが伝わるように、ゆっくりと掌に向かって丸まっていく。爪が肉に食い込み、関節が緊張で白く浮かび上がった。

「そりゃ……フィルダ様の復活の手がかりを探すとかだよ」

 言葉全体は迷いを含んでいたが、「フィルダ様」という名だけは、信仰のような確かさで口から零れ落ちた。


 シチビの瞳に鋭さが宿り、視線がユーカクを焦点に定めるように強まった。

「それは彼女達がしているだろう」

 感情を削ぎ落とした事実だけの言葉。

 ユーカクは下唇を歯で噛み潰し、その端から一筋の赤が滲み出た。

「それで十分だと言えるのか?」


 シチビは姿勢を崩さず、両手を体の横に垂らしたまま淡々と応じた。

「それを判断できる情報はないな」

「だったら!」

 叫び声が森の静寂を突き破り、木々の間に響き渡った。近くの枝に止まっていた鳥たちが、驚いて一斉に飛び立った。

 シチビはその激情など目の前にないかのように、静謐な声で続けた。

「だが、同時に私達が手伝うことで改善できるという証拠もない」

 その言葉は冷徹な論理で組み立てられ、反論の余地を完全に封じていた。


 ユーカクの口元が不規則に歪み、上唇が憤りに震えた。

「証拠⁉ そんなものが出てくるのを待っていたらいつまでも動けないだろう⁉」

 怒号は木々に跳ね返り、こだまとなって森の奥へと消えていった。

 シチビは胸の奥から深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。その所作は意図的に緩やかで、怒りに身を焦がすユーカクとは対照的だった。

「もっともな話だ」

 短く穏やかな声が興奮した空気を一瞬で鎮めた。その言葉には意外な肯定があり、非難も皮肉も見当たらない。

「だが、その確証も抜きで、彼女達とどう交渉する?」

 問いかけが耳に届いた瞬間、ユーカクの体から動きが消えた。顎の筋肉が石のように硬直し、歯が軋む音が微かに漏れる。震える肩から、絞り出すような声が零れた。

「……くっ」

 それは怒りであり同時に悔しさでもある、複雑に絡み合った感情を無理に押し殺した叫びの断片だった。


 二人の間には十歩ほどの距離しかない。

 しかしその空間には、互いの考えの隔たりという、歩み寄っても決して埋まらない断絶が広がっていた。

「それにこの拠点作りは彼女なりの私達への気づかいだ」

 沈黙を破るシチビの声に、それまでなかった僅かな温かさが滲んでいた。

 予想もしない言葉に、ユーカクの瞳が驚きで見開かれる。

「は? どこが?」

 声が不信とともに弾け、肩が身構えるように持ち上がった。理解できない言葉への拒否が姿勢そのものに表れる。

 シチビはその反応に応えず、右手を静かに持ち上げた。指を広げ、陽光を遮るように額に翳す。顎を上げ、枝葉の隙間から垣間見える青空へと視線を向けた。

「どこかで羽を休めないとなるまい?」


 その問いは簡潔ながら、避けては通れない真実を含んでいた。ユーカクは言葉に詰まり、眉間の皺が解けていく。硬かった視線に迷いが生まれる。

「それは……」

 強さを失った声が、認めたくない現実を受け入れる痛みとともに零れ落ちた。

 シチビは一呼吸の静寂を置き、緩やかにユーカクへと視線を戻した。

「こうして拠点を作っておくことで活動が長期に及んでも耐えられるようになる」


 その言葉が意味するところを理解した瞬間、ユーカクの頬から生気が一気に失われた。

「つまり……すぐには復活させられないと考えているということか?」


「そういう可能性もあるということだ。道程が見えていない以上、ある程度幅をもたなければならんだろう」

 論理は明快だった。しかしその冷徹な現実こそが、ユーカクの内に潜む諦めきれない想いを揺さぶった。

「……それで拠点づくりを嬉々として行っているわけか」

 言葉の端々に忍ばせた皮肉が、ユーカクの不満を露わにしていた。


「感情を挟むようなことは何もあるまい」

 シチビは首を右に傾け、その視線でユーカクの内面を見透かすように見据えた。

 その言葉は、自身が冷静な判断のみで行動しているという姿勢の表明であると同時に、感情に揺さぶられるユーカクへの静かな戒めでもあった。

「いや、あるだろう」

「なら、それは見解の相違だ。拠点づくりは今やるべきことであり、そのことについて思うことはなにもない」

 首を振るユーカクに対し、シチビはこれ以上の議論を許さないという意思を声に宿した。

 その断固とした姿勢の前に、ユーカクの抵抗は崩れ落ちるように肩が沈み、顎が胸へと向かった。下がった前髪が、敗北を認めたくない目元を影で隠す。

「……そうかよ……」

 呟きは地面に吸い込まれるように低く、消え入りそうだった。森の静寂にその言葉が溶け込んでいく中、飲み込んだ言葉の余韻だけが残った。


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