策動(4)
~シュミルside~
ランドール王国上空。
今日もアルスを部屋に戻したユーカルが舞い戻る。
「ただいま」
その柔らかな声色に、私は静かに頬の筋肉を緩め、僅かな微笑みを浮かべた。
初日以来、ユーカルはアルスへの不必要な接近を控えるようになり、それを目の当たりにするたび、胸奥で渦巻いていた不快感も徐々に霧散していった。
「今日はどうだった?」
「少なくとも『契約』の文言は暗唱できるようになってるわ。忘れることはそうそうないんじゃないかしら」
言葉を紡ぎながら、彼女は腕を胸前で交差させ、小首を傾げて思索に耽るような仕草を滲ませる。
私は鼻先から短い嘲笑を漏らし、毒気を孕んだ言葉を空気中に解き放った。
「数も少ないし、これで忘れるような鳥頭なら救いようがないわね」
そう、わずか四つの短文を記憶するだけの作業に、称賛の価値など微塵もない。
アルスという存在への苛立ちが再び胸中で蠢動し始めた。
沈黙が二、三秒の時を刻んだ後、ユーカルが新たな話題の糸を手繰り寄せた。
「そういえば、なぜ『契約法』を教えるのかって聞かれたわ」
その問いの本質と意図は、僅かでも警戒心を持つ者なら誰でも考えつくようなものだ。そこに驚くべきことはない。
気になるのはユーカルがどう答えたかだ。
「ふぅん……それでなんて答えたの?」
「『私達が上級魔族と戦う際の、下級魔族や魔物の掃除役として』と答えたわ」
ユーカルの表情に微かな変化が走る。眉が僅かに持ち上がり、唇の端に自信に満ちた小さな笑みが宿った。
「ふふっ、ユーカルも口がうまいわねえ。私、コロッとだまされちゃいそう」
思わず掌を口元に添えながら、笑みがこぼれた。
ユーカルの返事は説得力を帯びつつも、核心から巧妙に逸れている。
事前に練り上げた言葉か、はたまた即興の産物か定かではないが、絶妙な回答だった。
私がそう評するのも些か奇妙な感覚が漂うけれど。
これならばアルスが更なる深追いを試みることも難しいだろう。
「何を言ってるんだか……」
ユーカルは気味が悪いものを見たような顔を私に向け、小さく首を振った。
そういう反応をする理由は私も分かるけど露骨すぎて、もう少し気持ちを隠す努力をしてほしい。
少々気まずい沈黙の後、ユーカルは話題を変えようと咳払いをした。
「なんというか、アルスは変に擦れてるところがあるようね」
「そうね……非力な人族であるが故に猜疑心が肥大しているのかしらね」
言葉を紡ぎながら、胸中に湧き上がる苛立ちを鎮めるかのように、指先で髪を弄んだ。
明らかに邪魔者であるアルスが、こちらの言うがままに動くならまだいい。
新たな力を素直に歓喜と共に受容すれば事足りるものを、理由や根拠を探ろうとする姿勢。あれこれもっともらしい理由をつけて、なかなか動こうとしない姿勢をとることが苛立ちを助長する。
その警戒心は知性の片鱗と言えなくもないけど、私たち神族からすれば臆病以外の何物でもない。
「育ちが透けて見えるわね」
ユーカルはわずかに目元を和らげ、珍しく同情を含んだ口調で言った。
アルスの顔はフィルそっくりだから、手心を加えたくなる気持ちもまったく分からないわけではない。
だけど、同時にそっくりなだけの別の存在であり、邪魔者でもある。
情けなど持ってもらっては困ると私が口を開こうとした瞬間。
「もっとも、どんなに論理的に考えても、アルスには何の意味もないけれど」
無駄なあがきよね、と言わんばかりの冷たい微笑みを浮かべた。
それは私の懸念を一蹴するのに十分な表情だった。
ユーカルがフィルを阻害するアルスに手心を加えるなんて、あるはずもない。
まったく、私としたことが不要な心配をしてしまった。
「そうね」
ユーカルを一瞬でも疑ったことを隠すように、同意の言葉をあえて口にした。
「ユーカルの説明が巧妙に覆い隠した虚偽に気づくことはないでしょうね」
アルスがどれほど論理で事象を理屈づけようとしても、論理を適用できる土台は既知の事実に限られる。
逆にいえば、既知の事実の上で成立する一見もっともらしい理由さえあれば、アルスは真実にたどり着くことはできないということでもある。
──とはいえ。
私は指を軽く握り込み、自らを戒めるように、微かな音量で紡いだ。
「これから知っていく事実の中で真実に近づかれないように気をつけないといけないわね」
ユーカルの同意の仕草を視界に捉えると、私は胸元で交差させた指をより強く絡ませた。
――注意深く、注意深く。
唇を固く引き結びながら、私は心の内で同じ言葉を幾度となく反芻する。
アルスがいかに警戒心を張り巡らせようとも、こちらには時空遷移という覆しがたい切り札が存在する。逃げる術などありはしない。
だけど、抵抗が少ないに越したことはない。
胸中で蠢く漠然とした不安を鎮めるように、肺に深く空気を取り込み、散乱する思考の糸を紡ぎ直した。




