策動(1)
~アルスside~
そうして数日、俺はユーカルに連れ出され、旧カルン帝国の廃墟で実戦訓練に臨むことになった。
崩れた石壁やひび割れた舗道が続く道を進むと、瓦礫と化した街並みが視界を埋める。無数の建物が骨組みをさらし、風にあおられて外れかけた窓枠がぎしぎしと軋んでいた。
壁には巨大な爪痕が斜めに刻まれており、乾いた砂埃の中に残された黒ずんだ染みが、過去の惨劇を静かに物語っている。
足元の瓦礫を踏み砕くたび、乾いた砕石音が廃都に木霊する。
その反響を何者かの気配のように感じ、周囲を警戒してしまうことも一度や二度ではない。
だが、俺の数歩前を歩くユーカルは、そんな緊張感などどこ吹く風だ。
そもそも彼女は俺とは違ってわずかではあるが宙に浮いている。浮いているというかまるで透明な足場の上を歩むかのように優雅に進み、足下への配慮している様子など微塵もない。
その足取りは軽快で、まるで遠足にでも来ているかのようにさえ見える。いや、遠出という意味ではこれも遠足なのだが。
もっとも、『転移』がある彼女からすれば、どこへ行こうとも瞬時に帰還できるのだろうから、ひょっとしたら遠出という認識さえないのかもしれない。
幸いというべきか、レナとイアノは現在、カルン帝国とアスラルト国との戦争に関する協議で連日忙殺されていた。
そのため、俺がこうして抜け出していることにも気づかれていない。
両国の緊張関係が高まる中、二人とも毎日のように忙殺されているのであろう。もっともそのうちの一国はすでに崩壊しているのだが。
そもそも彼女達は俺のような不審人物を構うような立場の人間ではない。そういう意味では本来あるべき姿に戻ったとも言える。
その隙を突くように、ユーカルは俺を連れ出していた。
当初、ムラサキという男が部屋に残る理由が分からなかったが、俺のために『状況証拠作り』をしてくれているらしい。
変な気遣いではあるが、助かるのは確かだ。
俺がこうして部屋を離れている間、誰かが中にいるというだけで、何かあったときの言い訳になる。
とはいえ──
ムラサキが部屋にいてどんなアリバイになるのかと考えてみると、頭に滑稽な光景が浮かんでくる。
『アルスさん、入りますね』
『ああ、いや、待ってくれ。持病の下痢が発作的にきていて、今部屋に入られると限界を迎えてしまう!』
妄想の中の自分が叫ぶ声があまりに切羽詰まっていて、思わず現実の俺の顔が歪んだ。
立ち止まり、手の甲で額をこすりながら首を横に振る。
……なんだよ、持病の下痢って。そんな持病はないし、そもそも下痢は病気じゃない。
妄想の俺、を演じるムラサキは焦りを装ってなんとか切り抜けようとしてるが、内容が酷すぎる。
我ながら足止めの発想が下品すぎて、ため息が出る。せめてもう少し上品な理由はないものかと、再び別の展開を想像してみた。
『アルスさん、入りますね』
『待て。今、部屋に入ると……とてつもない不幸が王女殿下に降りかかるという、直感が──』
自分で想像しておいて、思わず口元を押さえ苦笑してしまう。どう考えても理屈が無茶苦茶だ。
そもそも直感は自分を対象にしたものであって、他者は対象ではない……はずだ。
さらに別の可能性を頭の中で練り直す。
『アルスさん、入りますね……あれ? アルスさん? ベッドで寝てるんですか?』
扉の向こうから、不安そうに呼びかけるレナの声を思い浮かべる。語尾がやや上ずり、声量も控えめだ。
『ごほごほ……ッ』
寝台に伏せた俺、のフリをしたムラサキが咳き込む。喉を押さえ、身体を震わせながら苦しげに呻く。
『ひょっとしてなにか病気にかかったんですか?』
『あぁ……これは軟禁病だ……』
俺はかすれ声で呟き、天井を見上げながら目を閉じる。片腕を額にのせ、わざとらしい苦悶の演技。
『軟禁病⁉』
驚きの声が上ずる。扉の向こうで、レナが一歩後ずさる。
『軟禁生活が続くことで精神的に病んでしまうのだ』
……なぜ俺の思考は変な方向へ向かうのだろうか。
咳き込みながら精神的な病気を装うという矛盾。突っ込みどころしかない。
しかも、いくら適切な病気が思いつかないといっても、軟禁病はないだろう。
考えれば考えるほど、思考が坂道を転がる荷車のように暴走していく。とりあえず、ムラサキがどう乗り切るかについては俺の関与するところではないと割り切ることにした。
問題は肝心の『契約法』のほうだ。
慣れてきた、と言えばたしかに慣れてきた。正確には『発動させること』には慣れてきた。
だが、その使い勝手の悪さには、どうしても慣れることができなかった。
先日の訓練では、一匹の魔物を倒そうとして、その威力があまりにも大きく、周囲の建物まで巻き込んでしまった。
倒壊する瓦礫の山に呑まれかけた時は全身から冷や汗が噴き出した。
すんでのところでユーカルに『転移』で救われたが、その後のユーカルの冷ややかな視線は、今でも脳裏に焼き付いている。
俺は手のひらをじっと見つめながら、ぼそりと呟くように尋ねた。
「これ、もう少し……威力の調整とかできないのか?」
掌を広げて凝視するが、そこにあるのは相変わらず何の変哲もない自分の手。この手が直前まで『契約法』による壊滅的破壊を生み出したとは信じ難い。
ユーカルは氷のような碧眼で俺を見据えた後、首を横に振った。
「できないわね」
その素っ気ない返答に眉を顰める。藁にもすがる思いで、俺は食い下がった。
「ほんとに?」
「ほんとよ」
とりつく島もない返事に、俺は反論する気力を失い、ぼやく。
「使い勝手悪すぎるだろう……」
実際に使ってみて痛感するのは、この力の扱いにくさだった。
威力があまりにも過剰で、狙った対象だけを的確に撃ち抜くことなど到底できない。
力を解放すれば、その周囲ごと吹き飛ばすしかない。何か一つを狙うには、大きすぎて、粗すぎて、制御が利かない。
実質、殲滅にしか使いようがなく、そんな機会がそうそうあるとも思えなかった。
「神の血を引く者はほんとにこんなの使ってたのか?」
ユーカルは右手の人差し指を顎に軽く添え、視線を斜め上に向けて思案するような素振りを見せた。
それから、少し間を置いて答える。
「日常的には使わないわね」
「やっぱりそうか。小回り効かないもんな」
俺が短く言うと、ユーカルはコクリと頷いた後、視線をこちらに戻して付け加える。
「そうね。小回りがきくちょうどよい用途は祝詞……『司祭法』とか『賢者法』とかね」
どちらも俺が使えるわけではないが、何度か見たことはある。
たしかに『契約法』のような破壊的な力ではなく、より繊細で多様な用途に適しているようだった。
「なるほどな……」
俺は何とも言えない気持ちで、自分の手のひらをまたじっと見つめた。
確かに、俺はもう『ただの非力な存在』ではない。だが、『力を得た』と手放しで喜べるような状況でもなかった。
使いどころが限られ、誤って使えば取り返しのつかない事態を招く。
選択肢そのものは増えているのだが、『使っても問題ないか』を判断に組み込む必要があり、一拍以上遅れるのだ。
それは思考に柵をつけられたような、そんなもどかしさがある。
もし迂闊に『契約法』を行使してしまえば──たとえば、誤爆でも起これば──自分がそのまま『破壊者』として指名手配される未来だって十分にあり得る。冗談でも大袈裟でもなく、だ。
さすがにユーカルが俺に嫌がらせする目的で『契約法』を教えたということはないと思いたいが。




