幕間:シュミル1(25)
「それはないよ。心配なら『誓約』するかい?」
こんなひどい質問を投げかけられたのに、フィルダさんの声は、思いがけなく穏やかでした。
「『誓約』……取り決めた内容を以後違えないと宣言することですよね? でも、今回は過去のことですよ?」
胸の痛みを押し込めるように、私は声に力を込めました。
「ああ、一般的には互いの未来への双務に使うけど、過去の事柄の真偽の判定にも使えるんだよ」
「過去の事柄って、私がどうして記憶を失ったかとかですか?」
眉を寄せながら、片手でこめかみに触れました。
「いや、そういう用途じゃないよ」
フィルダさんはゆっくりと首を横に振ります。
「仮にシュミルの記憶喪失が誰かの行為によるものだとしても、『誓約』の対象となるのはあくまで『どういうつもりだったか』だけ」
「……誠意を見せる、という用途ですね」
その言葉を口にした瞬間、これまで胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しずつ溶けていくのを感じました。
「そういうこと。今回の場合、僕がシュミルに『浮遊』を教えなかった理由は神族信仰に襲わせるためだったか、を問うことになるね」
フィルダさんは説明するように、ゆっくりと言葉を紡ぎます。
「その……私も何か誠意を見せる必要があるんですよね?」
自分の声が小さく震えているのが分かりました。
『誓約』は双務。片方が一方的に宣言するだけではいけないとフィルダさんは言っていました。
ですが、私は何を引き換えにできるのか、見当もつきません。
「ああ、そうだね。じゃあ、記憶がないことは本当か、を問うのでどうだい?」
「……それは……」
続ける言葉が見つからず、私は言いよどみました。
いえ、記憶がないことに嘘はなく、私がそのことを『誓約』することに何の問題もありません。ですが、フィルダさんにそれを疑われることが、胸を刺されるように痛みます。
見えない足場に視線を落としたまま、震える唇を噛みしめました。この痛みは、フィルダさんの優しさを疑った報いなのかもしれません。
手の平に爪が食い込むほど力が入ります。でも、ここで『誓約』を拒めば、フィルダさんの不信感を買うことは避けられません。その時こそ、取り返しのつかない事態になるはずです。
私は目を強く閉じました。こんなにも親身になってくれるフィルダさんの誠意を、軽々しく疑うべきではなかった——。そんな後悔と共に、自分の軽率さへの憤りと悲しみが込み上げてきます。
「なにか問題はあるかい?」
フィルダさんの声は、変わらない優しさを湛えています。
「……いえ……大丈夫です」
顔を上げ、喉を鳴らして震える声を抑えました。
私への疑いはこの際どうでもいいです。
でも、私がフィルダさんを疑ってしまったということ、それがフィルダさんを苦しめていないことを願うしかありません。
「そう。なら、始めようか」
フィルダさんは姿勢を正し、まっすぐ前を見つめます。その横顔には、いつもの凛とした佇まいが戻っていました。
「戒律の神カルトよ、ジェストの盟約により、我が名においてその力を行使せよ。我らはここに誓約する。我にはシュミルを神族信仰に襲わせる意図はなかったことをここに誓う」
「え、えっと……」
言葉に詰まる私の耳元に、フィルダさんが顔を寄せます。
「『私の記憶がないことは虚偽でないことをここに誓う』で」
温かい息遣いが耳を撫で、心が少し落ち着きを取り戻しました。
「私の記憶がないことは虚偽でないことをここに誓います」
言葉が途切れた瞬間、世界が水を打ったように静まり返ります。風の音さえ消えたかのようでした。
「えっと……なにも……ない?」
周囲を見回しながら、小さな声で尋ねました。
「僕達両方がどちらも嘘をついていなかったってことだよ。もし虚偽であれば、誓いの時点でなんらかの罰がくだっていた」
フィルダさんは柔らかな微笑みを浮かべ、説明を加えます。
「……そうですか……」
長く止めていた息をゆっくりと吐き出すと、肩の力が抜け、緊張が溶けていくのを感じました。
「これで安心した?」
フィルダさんの声には、心配よりも優しさが滲んでいるように感じました。
「……ごめんなさい……」
声が掠れ、喉の奥が熱くなってきました。
「ん?」
フィルダさんは首を傾け、私の表情を覗き込もうとします。
「フィルダさんが色々考えてくれていることはわかったのに」
言葉を紡ぐたび、目の奥が熱くなります。
「どうしてもひょっとしたらという疑念が拭えなくて……」
「それは仕方ないよ。ただでさえ記憶がなくて不安なのに、危険な目に遭いそうになったんだ。それが『浮遊』を教わっていれば安全だったかもと考えれば、シュミルが疑うのも当然だよ」
フィルダさんが諭すように慰めの言葉をかけてくれます。
「本当にごめんなさい」
声が震え、堪えていた涙が溢れ出し、視界が歪んでいきました。首を深く垂れ、肩が震えるのを止められません。
「ああ、その、僕は気にしてないから、シュミルももう気にしないで」
フィルダさんは少し慌てたように言葉を重ね、優しく諭すように付け加えます。
「フィルダさん……っ」
その優しさがかえって胸を締め付け、喉の奥が熱くなって言葉が詰まります。肩が小刻みに震え始め、こらえていた涙が頬を伝って落ちていきました。
こんなフィルダさんをなぜ自分は疑ってしまったのか。自己嫌悪の念が胸の中で渦を巻き、心が痛みます。
「ああ、もうっ、少し休むこと!いいね?」
フィルダさんは首を軽く振り、困ったように長い溜め息をつきます。そして上体を起こし、意図的に明るく作った声で話題を切り替えようとしました。その仕草からは、私への気遣いが感じられました。
私は顔を伏せたまま、小刻みに頷くことしかできませんでした。 フィルダさんの前にいると罪悪感で胸が押しつぶされそうで、言われた通りに寝台に腰掛けました。
目を閉じると、昨日今日の出来事が次々と蘇ります。フィルダさんの優しさ、自分の疑い、『誓約』の重み——。
しばらくの間、私は静かに目を閉じ、心を落ち着かせることに努めたのでした。
それから数日間、私は『浮遊』の練習に励みました。
あの日の出来事以来、フィルダさんと私の間では、その件については何も語られませんでした。
フィルダさんの言う通り、記憶がなくて不安だったところに襲撃まで受けて、情緒が不安定になっていたのだと自分に言い聞かせました。
最初の練習では、フィルダさんの意図を疑ってしまったことへの後ろめたさに気をとられて、数センチ上の足場を作るだけで精一杯でした。一歩踏み出すのも恐る恐るで、普段以上に慎重になっていました。
でも、練習を重ねるうちに少しずつ高さに慣れていきました。時に足を踏み外しそうになっても、フィルダさんの手が必ず支えてくれる。その安心感があったからこそ、何度も挑戦できたのです。
記憶がある時の私ならきっと何の苦労もなくできたのでしょう。それを思うと、もどかしさを感じます。
けれど、今のこの時間には、また違った大切なものがありました。
フィルダさんの手の中にある私の手。一歩一歩上へと進む私の傍らで、私を優しく見守るフィルダさんの眼差し。その温かな視線に包まれながらの練習は、私にとってかけがえのない時間でした。
高い場所で風に揺られるたび、フィルダさんの手がそっと力を込めて応えてくれる。その一瞬一瞬が、私の心を温めていくのです。
失敗を恐れる必要もなく、ただフィルダさんを信頼して身を委ねられる。それはとても贅沢なように思えました。
「フィルダさんは教え方が上手ですね」
練習の合間、空を背景にしたフィルダさんの横顔を見つめながら、私は素直な感想を口にしました。
「そうかな?」
フィルダさんの声には照れくさそうな響きが混ざっています。
「そうです。私がすぐに『浮遊』を使えるようになりましたし」
フィルダさんは少し考え込むような表情を見せました。
「元々相当使い込んでいたんだと思うよ。だから記憶はなくても感覚的に思い出す感じだったんじゃないかな」
「そうなんでしょうか」
確かに体が覚えているような感覚はありました。でも、それ以上にフィルダさんの温かな導きがあったからこそ。一歩一歩、不安に寄り添ってくれた手の感触が、今も鮮明に残っているのです。
「あとは同じように姉さんが教えてくれたからね……」
その時、フィルダさんの表情が柔らかく変化しました。目元が柔らかくなり、遠くを見つめるような眼差しに変わりました。
その横顔に、私は何か切ないような気持ちを覚えます。フィルダさんにとって、お姉さんはそれほど大切な存在なのだと、強く感じました。
その表情を見ていると、私の中にも懐かしいような感情が湧き上がりそうになります。けれど、それは自分の記憶からではなく、ただフィルダさんの優しい表情に触れて生まれた共感なのかもしれません。
「それじゃ、そのお姉さんのおかげですね」
フィルダさんのお姉さんへの表情が愛らしく感じられて、思わず茶目っ気のある声を出してしまいました。
「そうだね。もし会うことがあったら感謝して」
フィルダさんの声には、どこか喜びを感じさせる響きが混ざっていました。
「わかりました、先生! えへへ」
フィルダさんのお姉さんに会う想像だけで、心が弾むような楽しさを覚え、思わず明るい声が出ました。
きっと素敵な方なのでしょう。フィルダさんをこんなに優しく育て、『浮遊』を教えた人なのですから。
フィルダさんのお姉さんに会うこと——それは私の中で、新しい願いとして静かに芽生えていきました。記憶を取り戻すよりも、今の私にとってずっと魅力的な目標のように感じられます。
この気持ちは、きっと記憶のない今だからこそ持てる素直な願い。縛られることのない、純粋な夢なのだと思います。
幕間はいったんここで終了となります。




